2008/5/10 12:45

「早瀬さん!」

 下駄箱で、早瀬は西川に呼び止められていた。

 背中はやや猫背ぎみで、さっきの撮影とは程遠い。

 今はただ見つかりたくなくて、僕は階段の中程で身を屈めた。

「西川くん……」

「大丈夫?」

 短くもストレートな問いに、早瀬は揺れていた。

「……なんだか、変な感じはする」

「あんまり前に出る方じゃないもんね」

 わかるよ、と言いたげに。

 西川は早瀬に歩み寄る。

 早瀬は最初、脚本を書くだけだと考えていた。

 ノーノーノー。たった五人の演劇部。

 未経験だからといってそれはない。

 ならば照明や音響といった裏方がいいと言っていたけれど、それもない。

 もちろん関わってはもらうけれど、役者の頭数にきっちり入っている。

 劇は20代半ばの青年、かもめが10年前にタイムスリップし、未来を変えようとするストーリーだ。

 かもめは失敗の原因が高校時代の過ごし方にあると考え、過去に飛び高校生活をやり直す。

 不良仲間と疎遠になり、優等生グループの一員になり、知名度のある大学進学を目指す。

 しかし、ことあるごとにクラスの女子、青森しずくが「それでいいのか」と問うてくる。

「いいに決まっているだろう」と、かもめは過去を変えていくーー。

 最初に話を見たときから、青森しずくは早瀬以外に考えられなかった。

 女子といえば藤原だけど、オーラがありすぎてミステリアスなキャラクターを演じられない。

 かといって野郎が女の子を演じると、劇団ふりかもはコメディになってしまう。

 お願いだからと、頭を下げて、彼女に役者になってもらった。

 もちろん表に出たがるタイプじゃないと、分かった上で。

「でも、演出で回想シーンが多くなったから、ちょっとは楽になったかも」

「本番は生で体育館ステージだもんね。緊張しそう」

「私も……飛んだらどうしようって、おもっちゃって……」

「大丈夫。早瀬さんならできるよ」

「……ありがとう」

 いい感じだ。

 西川と早瀬は付き合うことになるんだから。

 いい流れにのっている。

 そう、これでいいはずだ。

 なのに、なのにどうして。

 心臓のあたりがずきずきするんだろう。

 苦しい。荒い息を吐いて、呼吸で存在を気づかれてしまいそうだ。

 手すりをつかんで、なんとか階段を登りきる。

 壁にもたれて、流れてくる汗が邪魔で。

 動悸が激しくなる。

 涙が出てくる。

 おかしい、明らかに。

 それでもなぜだか止まらない。

 早く離れないと。

 もう少ししたら戻ってくるだろうから。

 全気力を振り絞って、また階段を登る。

 機械的に足を動かして、そこにあるはずの段を踏み外した。

 スローモーション。

 掴めない手すり。


 僕は背中から落ちていく。


 これで、死ねるんだろうか。

 終われるんだろうか。


 僕が死ぬことで、早瀬が死ぬ未来を、見なくても済むんだろうか。





 目を開けると、知らない天井が見えた。

 カーテンで仕切られているものの、機械の音や廊下のざわめきが絶え間なく聞こえてくる。

 シンプルな着物風の寝巻きは、自分の手持ち服なんかじゃない。

 伺うようにカーテンが揺れた。

 ひょっこりと顔をのぞかせて、そして驚きに目を見開いた。

「大宮、目、覚ましたのか」

「坂……本……?」

「西川も来てる。今呼んでくるからーー」

「悪い、ちょっと……」

「なんだ?」

「……今、いつ……?」

 坂本は目を伏せ、意を決したように口を開く。

「同窓会があったのが、三日前」

「……早瀬……は」

「…………ダメだった」

 あたりがほんのり暗くなる。

 握りしめた手が、ここが現実だと告げている。

 戻ってきた。

 現実に。

 早瀬が死んだ2018年に。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る