2008.6.11 18:00

「はまり役だよね」

 夏服が湿る帰り道。振り返ると早瀬が立っていた。

 反対方向に帰ったはずなのに。

「……どうした?」

 無口ではあった。けれど、この早瀬は何かが違うと思った。

 僕に対して彼女が思っているみたいに、僕もこの早瀬は早瀬じゃないと思っている。

「かもめの話」

 空を飛行機が横切った。

 それなりに長くはなりそうだ。

 僕は黙って自動販売機に硬貨を突っ込み、サイダーを買った。

「ん」

 かもめ。

 もうすぐお披露目する舞台のために書き下ろした、早瀬アキのオリジナル脚本だ。筋書きはいたって簡単。

 主人公の「かもめ」は突如10年前に飛ばされる。そしてもう一度生き直す。かもめが後悔し、変えたかったところは変わったけれど、変わらなくてよかった、満足していたところが変わってしまった。記憶を持っているのは自分だけ。やりきれない。そんな終わりで、ハッピーエンドがバッドなのかは観客にゆだねられている。

 夢を叶えた充実感。そして一人だけ知っている喪失。

 達成感はない。

 そんなお話。

「あんなの、どうやって思いつくの?」

「あれは本当に、なにかが降ってきた」

 髪の毛がたなびいた。

「なぜだか大宮くんを見たら、ふっとかもめの原稿が浮かんだ。本当に、2時間もかからなかった」

 夏の夕焼け、まぶしくて。

「大宮くんは、やり直したいって思う?」

 長い髪が、揺れている。

 ゆるく結んだものがほどけていた。

「……なにかが変わるなら、試してみたいとは思う」

 遠くで大型トラックが走っている。

「そっか」

 学校周りのなにもない風景。一面の田んぼ。思いだしたようにまばらに走る車。

 一面の大空。

「私、今の大宮くんは、未来からきた気がしてた」

 飲みかけのサイダーが器官に入る。

 咳込がとまらない。

「早瀬って、呼ばないからさ」

 この世界の僕は、僕になる前にはなんて呼んでいたんだろう。

「アキって、呼んでくれたよ」

 落ちていくペットボトル。

 止まりかけた時間。

「……嘘」

 いたずらっぽく笑って、早瀬は僕から離れていく。

「2カ月前まで大宮くんは、早瀬さんって、私を呼んでた」

 一人で帰る、追いかけられない。

「……早瀬、さんは!」

 また一歩踏み出そうとした足が止まる。

 言葉の続きを待ってくれている。

「……なにを、知ってるの?」

 佇んでいるのは自動販売機だけ。他には証人なんていない。

「私は」

 背中を向けたまましゃべった。

「なにも、知らない」

 どんな顔をしているのかわからなかった。

 追いかけて、手をのばすとか、追い越して回り込むとか。

 できたはずなのに、できなかったのは、無駄に10年年を重ねても、僕がなんにも変わっていないことを意味していた。


 いくら未来から来たとしても、全部が全部覚えていられるわけじゃない。

 主だったことぐらいだし、詳しい状況なんて、脳内にはいちいちため込んでいられない。

 思い出は補正され、都合のいいように書き換えられる。

 早瀬が違和感を持つのは、おかしいことじゃなかった。

 黙ってくれていただけだった。

 元の僕を押しのけて、僕が僕である理由はなんだろう。


 早瀬が角を曲がるまで、僕はその場から動けなかった。

 ただ、か細い声を聴いた気がした。


 猛スピードで走っていくオートバイとすれ違った。

 早足、駆け足、荷物を捨てて。

 角を曲がって、つまずきそうになった。


 転がっているのはさっきまで話した女の子。

 血だまりの中にいるのは早瀬。

 こんな過去なんてなかったはずだ。

「早瀬」

 むっとする血の匂い。

 呼びかけると、まつげを震わせながら目をあけた。

「……大宮、くん」

 ごぽりと口から血を吐いた。

「早瀬、すぐに助けを呼ぶから……」

「いらない」

 ゆっくりとのばされた、細い腕。

 その先の、ぞっとするほど温度を失っていく青白い手を握る。

「振り、返れば、あ……とき、ヤれ、たかも」

 始まりの言葉が音になる。

「あのとき、私は、振り返らなかったけど、振り返ったら、なにか変わったのかな、なにも、変わらなかったかな」

 弱弱しくなっていく手をぎゅっと握り返す。

「私は、大宮くんが、いたから、ふりかもに、入った」

 必死に口を動かす早瀬に、しゃべるななんて、もう言えない。

「もっと、ああしておけば、こうしておけばって、そんな後悔、ばかりだね」

 目を閉じて、そこから涙が流れて、早瀬はもう動かなくなって。


 なんのために10年前まで飛んできたのか、唐突に理解した。


 ただ僕は、早瀬が生きる未来を、やり直したいだけだ。


 そのために、僕は。


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