2008.4.24 16:00

 目が冴えてしまった保健室、グラウンドの掛け声が聞こえてくる。

 どこかのクラスが体育なのだろう。 ざっざっと規則正しいランニング。

 風に舞う砂ぼこり。

 体育委員の掛け声が響いている。

ランニング勢が遠退くと、部屋はめっきり息を潜めた。

 ここにいられるのも、あと一時間くらいだろうか。

 本当に、訳がわからない。タイムスリップを喜ぶメンタルも、なぜこうなったかを考える頭も持ち合わせてはいない。

 何をする気も起きなくて、寝返りを打った。

 扉が開いたのはそんなときだ。

 養護教諭だろうか?

 しきりのカーテンの隙間から、覗いて見えたスカートの裾。

 上履きがこの先を迷うように踊っている。

 体調不良者か。なら気の毒なことだった。

「先生ならいないよ」

 急用ができたといって、また戻ってこないのだ。

 シャッと開いた音にびっくりとしたのか、とっさの反応ができていなかったけど、こっちも驚いてしまった。

「……早瀬」

 記憶のなかの早瀬と同じ、目の前の女の子は、ふんわりとした癖のある長い髪を、先のほうでゆるく結んでいる。

「ありがとう」

 伺うように、違和感があるように、早瀬はその場に留まったままだ。

「身体、調子悪いーー」

「……ねえ」

 視線を合わせられ動けなくなる。

 瞳に吸い込まれそうになる。

 問いかけの言葉は消えた。

「大宮くんじゃ、ないよね?」

 口の中が、カラカラだ。

 この早瀬は、どの早瀬なのだろう。

 どたどたどたと、騒々しい音。

 まっすぐ保健室に近づいてくる。

「早瀬、隠れて!」

 僕は彼女をベッドに押し込み、布団を重ねた。

 間一髪、扉が開き、履き潰した上履きが見える。

「……先生なら、いないけど?」

 坂本はゆっくりと振り返る。

 少し明るめで跳ねた髪。

 屈託のない笑い顔。

「あれ、元気そうじゃん、大宮」

「あー、めちゃめちゃ寝たから」

「じゃあいい加減授業戻ってこいよな」

「あー、うん」

 このときの僕らはまだ友達じゃない。

 口調に気を付けろ。

 さもないと勘づかれる。

「でさあ、聞きたいことあったんだわ」

「……なに?」

「早瀬ってこっち来なかった?」

 かちりと時計の針が動く。

 背中に汗がたらりと流れる。

「見てない……」

「そうか?あいつ、保健室行くって言って、俺そのまま追いかけてきたんだけど」

「……そう言われても、知らないもんは知らないし」

 そう、この坂本は、坂本なのか。

 わからない以上答えるべきじゃないと思う。

 体調不良者を保健室に連れていく保健委員か?

 在学当時、部活はともかくとして、それぞれがなんの委員をしていたかなんて、思い出せる訳がない。

 じゃなければ、なぜか早瀬をマークしてる?

 いじめはなかったし、そんなことをする奴でもなかった。

「……あれ、どうしたの、坂本くん」

 割ってはいったのは、養護教諭その人だった。

 瞬きのあいだ、鋭い目付きになったのは、僕の見間違いではなかったと思う。

「せんせー、早瀬さんが体調悪いっていうからついてこようと思って!俺委員だし」

「別に、1人で平気だから……」

 いつの間にか、早瀬は保健室の外から出た。

 締め切りの後ろのドアから出たのだろうか。

 なにがなんだかわからなかった僕に、アイコンタクトが飛んできた。

 黙ってろ。

 そうとるしかない瞳に。

「ほら、坂本くんは帰りなさい」

「はーい」

「大宮くんは?」

「すみません、もうちょっとだけ、休ませてください」

「じゃあ、帰りのホームルームまでね。ほら、ベッドに戻って。……早瀬さん、ちょっと座ろう」

「はい」

 ゆっくりとベッドに戻ると、すぐに仕切りがしめられた。

 ヒソヒソ声がよく聞こえない。

 そして一つベッドをあけて、三つ目に早瀬が潜り込む音がした。

 そしてまた、ゆっくりと扉が開いて、閉められる。

 天井は、白地に茶色い点々の、よくありがちなパネルだった。

 ここだけ時が止まっているみたいに、自然光は優しかった。

「……起きてる?」

 独り言のように聞こえていたらいい。

「……起きてる」

 それでも、消えてしまいそうな声で、返答はあった。

「聞きたいこと、あるんだけど」

「……なに?」

「なんで坂本に追いかけられたの?」

「…………分からない」

「……そっか」

「でも、助けてくれたこと、ありがとう」

「……あ、うん」

 冷静に考えて、女子をベッドに放り込むなんて大それたことをした。土下座ものだろうけど、やらなきゃいけないことがある。

「あと、もう一個だけ、聞いていい?」

 返事を聞く前にカーテンをあける。

 早瀬のベッドは閉めきられたまま。

「なんで俺のこと、違うって言ったの?」

 静かにカーテンが開けられる。

「大宮くんは、私のこと、早瀬って呼ばないから」

 隙間から、早瀬の顔が覗いていた。

 心臓がドクンと、嫌に存在感を主張していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る