16
「あ......」
頬に、冷たい感触がかかる。家を出た時には既に鈍色に染まっていた空は、とうとう堪え切れなくなったのだろうか、その涙でポツリポツリとアスファルトに小さな染みを作り始めた。
「ダメだったか」
「そう、だね」
隣を歩く幼馴染と一緒に、手に持っていた傘を開く。今日は8月の最終週......天音先輩の引退観測会の、当日。6月の観測会に夏合宿と僕達に味方してくれた天気は、最後の最後で気紛れに僕達を裏切っていったのだった。
部室に着くと、既に僕と空以外の3人は到着していた。ただ、明らかに葉村君と南さんは落ち込んだ顔をしている。いつもは天真爛漫な天音先輩も、今日ばかりは無言だった。......思わず、南さんの方に目を向ける。南さんの告白以来、僕と南さんの間にはギクシャクした空気が流れている。幸い僕も南さんもそこまで感情を露骨に表に出すタイプでは無いので周りには特にバレていないが、早く話し合ってなんとかしたいところだ。
「しょうがないさ。こんな事、ウチの部活にはよくある事だ」
そんな重苦しい空気の中、天音先輩がいつもの口調であっさり言う。......天音先輩の言っている事は、事実だ。天文部という部活の性質上、天候不良で観測会がお流れになる事なんて珍しい話じゃない。実際、僕が一年生だった時も2.3回程そういう事は起こっていた。起こっていた、けれども。
「でも、天音先輩......最後じゃないですか、今回の観測会が」
「そうっすよ。確かにしょうがないかもしれないっすけど、そんなあっさり」
「天音先輩、8月は勉強で忙しくて......今日、ようやく取れた暇でしたのに」
「......天音先輩は、それでいいの?」
せっかく春から良い感じだったのだから、最後もうまくいって欲しい......。そう思うのは、ワガママなんだろうか。
「いいよ」
それでも。僕達の言葉を受けてもなお、天音先輩は態度を崩さなかった。むしろ、その顔には微笑みが浮かんでいる。
「今年の夏は受験対策で忙しかったし......そんな中でようやく1日だけ空いた今日が無理だったんなら、どうしようもないさ」
「でも」
「でも、も何もないさ。正直言って6月の観測会と夏合宿の時は大分天気に恵まれてたし、出来過ぎなくらいだ。合宿の時、言っただろう?この空を見る事ができて私は本当に果報者だった、って。......充分さ。私が過ごした3年間の価値を一番知っているのは、私だ。最後の観測会が失敗したくらいで......私の3年間は、揺らいだりしない」
「天音先輩......」
多分、この人の言っている事は本心そのものだ。だって僕は......僕達は、天音先輩が誰より天文部の事が好きなのを知ってるから。そうじゃなきゃ、あそこまで中心に立って僕達を引っ張って行く事なんてできなかっただろう。
「ま、そうは言っても残念な事には変わりないけどな。夏休みの後半は忙しくて中々部活には顔を出せなかったし、久し振りに君達と会ってそのまま天体観測したかったよ。私も」
「そんなの......そんなの、僕達だってそうです」
「天音先輩と、最後に天体観測したかった。私も」
「私もです。これからはもう、手軽に会えなくなりますし」
「俺も。一緒にいたのは短い間でしたけど......それでも俺、天音先輩の事、すげー人だって思ってたんで」
思わず、僕達の口から思い思いの言葉が漏れる。夏休みが始まって、8月に入って。天音先輩がいなくなるという事実が、どんどんそんなの、寂しいに決まってる。
「オイオイ、大丈夫か君達?私が居なくなった後も天文部は続いていくんだぞ?しかも、来年の春に1人でも新入部員を入れなきゃ即廃部だ。......特に、昴君。しっかりしてくれよ」
「僕、ですか?」
「あぁ、そういやちゃんとした形では明言してなかったな。......瀬上 昴。君を次代の天文部部長に任命する。私がいなくなった後もまぁせいぜい頑張ってくれ。頼むから廃部にはするなよ?」
「あ......」
改めて言葉にされて、実感する。天音先輩が次からはここにいない事が......僕が、天音先輩の代わりをしなきゃいけないという事が。
「ま、正直文句無い人選だろう。流石に1年に役職を任せるわけにもいかないし、消去法で副部長は空君に任命しようと思うが......他のみんなはどうだ?」
「異議なーし。まぁ妥当なところじゃないっすか?」
「私も。......その、瀬上先輩なら安心です」
「大丈夫だよ。昴なら、できるから」
みんなが、僕の事を推薦する言葉を口にする。僕は少しだけ逡巡した後......天音先輩の目を、見据える。天音先輩は、相変わらず微笑を浮かべていた。
「分かりました。僕で良ければ、頑張ってみます。......みんなも、これからよろしくお願いします」
「よろしくおなしゃーす!新部長!」
「よろしくおねがいします、瀬上先輩」
「昴......頑張ってね」
他のみんなの方にも、振り返って挨拶する。天音先輩がいなくなる寂しさはやっぱり無くならないけど......それでも、その気持ちを堪えてみんなは笑顔で祝福してくれた。本当に、ありがたい。
「さて、んじゃ外にも行けないし......ボドゲするぞボドゲ!5人でもできるやつ!1年生、卓を立てろ!」
「えー、めんどくせー......あれ横暴じゃないですか?何とか言ってやって下さいよ部長」
「残念だがまだ今日は部長は私だ。早く従え」
「だってさ」
「頑張れ南」
「あ、はい。分かりました」
「いやゆきのんもそこで簡単に流されちゃダメ。少しは抵抗しなさい」
「は、はぁ......」
そう言いながら、南さんが棚からゲームを取り出して机の上に置き、そのまま机を囲んで5人全員が座る。気が付けば、いつも通りの部活の光景がそこにはあった。
「あー楽しかった。やっぱたまには遊んで息抜きしなきゃな、受験生も」
「やっぱこの人つえーって。マジえげつねぇ」
「私達とはやってるゲームが多分違う」
「ま、私が居なくなったら良い感じに勝率もバラけるだろ。ごめんなー強くってなー」
「事実だから何も言えない......!」
とうとう、下校時刻が近付いてきた。片付けをしながら、いつものようにみんなで他愛も無い話に花を咲かせる。
「私は」
そんな中、天音先輩が口を開く。いつものように、他愛も無い話をする口調で。
「私は、こんな性格だからさ。先生とも仲が悪くて......先生の贔屓とか、色々あって。そんなに友達とか居なかったんだよ」
そのまま、言葉が続く。気付けば僕達は全員、口を噤んでいた。
「でも天文部にいる時だけは......ここが私の居場所だって、そう思えたんだ。だからさ、天文部っていうこの場所には結構本気で感謝してるんだよ。なぁみんな、頼むからさ......この場所を、守ってやってくれ」
「っ、天音せんぱ――」
堪え切れず、つい口を開く。でも僕の発言は、無機質に鳴り出した間の悪いチャイムの音によって、掻き消された。
「じゃあな。頑張れ、後輩諸君。......3年間、楽しかったよ」
そう言いながら、天音先輩は1人部室を後にする。誰一人その後を追う事は、できなかった。鳴り続けるチャイムの音が、酷く遠くに聞こえていた。
こうして、夏休みの天文部の活動は幕を閉じ。
僕達は......4人になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます