第4話

 メドゥーサ王女の母は、産後の肥立ちが悪く、ほどなく亡くなった。

 稀代の名君アクリ王は悲しみに沈んだ。

 代わりに、残ったメドゥーサ王女を溺愛した。

 わがまま放題、何不自由なく育ったメドゥーサ王女の趣味は、女の子らしく人形集めだった。

 アルゴス王国内はもとより、暗黒大陸からも、極東の島国からも珍しい人形を取り寄せた。かかる費用について心配したことなど無かった。

 やがて人形だけではあきたらず、彫刻も集めるようになった。湯水のようにお金を使うことができるから、美しい彫刻が無数に集まった。

 美しい人形や彫刻に囲まれて、母はいなくても王女は幸せだった。美髯を誇る偉大な父王は愛娘に甘いし、身の周りの世話をする侍女は気が利く。

 林立する人形や彫刻の中でも、更にひときわ美しいのが、メドゥーサ王女本人だった。成長するに従い、その美貌は光り輝いていった。

「私は、美しい……」

 周囲の人形と比較しても美しい。いや比較にならぬ。

 毎日、一点の曇りも無い鏡をのぞいて、そこに映る自らの美貌に酔い、恍惚の溜息を漏らすのが日課になっていた。

「私は美しいわ。美男の太陽神アルカイカスよりも、処女神アセナよりも、他のどの神々よりも、私の方が美しいわ。ずっと、ずっと」

 それは、傲慢さゆえの、言ってはならない禁忌の言葉だった。

 神々の怒りをかった当時一五歳のメドゥーサ王女は、ある夜、化け物の姿へ変えられてしまった。

 翌朝、目覚めて、鏡をのぞいた。鏡を見て自らの美しさを再確認するのが、毎朝目覚めた直後の嬉しい儀式でもあった。

 朝から太陽が眩しい、アルゴスらしい夏の日だった。が、空気を凍らせる悲鳴が王宮内にこだました。

 鏡に映っているのは、自分であり自分でない姿。

 信じることができず、自分の手で自分の顔や髪の毛に触ってみた。そこには触り心地の最悪な肌があり、ぬめる鱗を持った蛇がいた。

 鏡が、裏切った。

 今までは常に美しいメドゥーサ王女を映してきた鏡が、メドゥーサ王女を裏切った瞬間だった。

 突然の王女の悲鳴に驚いた侍女が、挨拶も抜きに部屋へと飛び込んだ。醜い化け物と化した王女と顔を合わせる。日頃は慎み深い侍女も悲鳴を挙げた。

 いや、挙げようとして口を大きく開け、両目を大きく見開いた。

 侍女は一瞬にして物言わぬ石像となっていた。

「人形や彫刻を集めるのが好きなら、好きなだけ集めればよい」

 という呪いなのだ。恐怖の石化能力は。

 鏡に裏切られ、信頼する侍女すらも石となって失ってしまったメドゥーサの絶望は甚大だった。

 激しく泣き喚きながら、メドゥーサ王女は石像になった侍女を勢いよく押した。侍女の石の頭は、メドゥーサお気に入りの鏡に激しくぶつかり、硝子が粉々に砕けた。硝子加工品というのは生半可な宝石以上に重宝されているものだが、惜しくはなかった。

 美貌を喪失した今、裏切りの鏡などに未練があろうか?

 もう王宮には居られない。

 メドゥーサ王女は逃げ出した。途中で、望む望まないにかかわらず、幾るもの石像を作ってしまい、王宮とアルゴスの都を混乱と恐怖に陥れた。



 突然の病気により、メドゥーサ王女は急死した。

 ……とアクリ王は発表した。多くの人が石化してしまう災いが発生したことについても、王女の死因となった病気と同じものだと説明した。様々な証言や噂話が飛び交い、石化現象が病気によるものというのは著しく説得力を欠いたが、事態が沈静化するまでの時間稼ぎにはなった。

「妾は流れ流れてこの洞窟に辿り着いたのじゃ。もう人間ではなく化け物になってしまったからか、飲まず食わずでも飢えを感じることはなかった。しかし、妾は常に飢えておったのじゃ。人の心との触れ合い、ぬくもりに」

 首だけのメドゥーサは最期の力を振り絞り、青息吐息で語り続ける。

「妾が生まれてすぐ、母上は亡くなった。物心つく前後には、二人の姉は既に嫁いでいて、兄は廃嫡となって行方不明になっていた。父のアクリ王は妾を愛してはくれたが、それはあくまでも美しい母上の身代わりとして、王位継承者としてであった。娘として愛してくれたのではない。妾は父にとって単なる美しい人形でしかなかった。王女といえども周囲に誰も理解者のいない無力な小娘じゃ。父の愛を失うわけにはいかぬから、父の期待に応えるために美しくあり続けようと努力を続けたものじゃ」

 メドゥーサの、赤さを失いつつある目が潤んだ。

「妾に残された癒しは、美しい人形を集めることだけだったのじゃ。だが人形も彫刻も、ただ冷たいだけで心のぬくもりも優しさも持っていなかった。単に見た目だけが美しいものは空しい。そう思ったからこそ妾は、美しいだけの人形よりは、妾も含めて血の通っている、心のある人間の方が美しい、と言ったのじゃ。そうでも思わなければ、とても現実が辛くて生きて行けなかったのじゃ。ところが人形や彫刻の中には、太陽神アルカイカスや知恵の女神アセナの像など、神々の像もあった。だからアセナは怒り、妾を殺そうとしたのじゃ」

 ペルセウスは口を挟まず黙って聞いている。

「妾はこのようなおぞましい姿の化け物になった。見た相手を石化してしまうから、生身の人間と触れあうことが一切できなくなった。固く冷たい石になってしまったのは、相手ではない。妾の心じゃ。神々の本当の呪いは、容姿を醜くすることでもなく、石化の視線でもなく、妾の心の石化だったのじゃ。人間の心を失って、妾は本当に醜くなってしまった」

 メドゥーサの両目からは涙がこぼれ出た。

 美しさだけが支えだったメドゥーサが、その美しさを喪失した時……

 その哀しみと虚無感はいかほどであったか?

「……なんとなく、そうではないかと思っていたよ」

 メドゥーサの言葉にかぶせるように。

 ペルセウスが語り始める。

「アクリ王が、愛妾の娘を女王にするために、邪魔な王子を廃嫡して追放した。実はぼくが、廃嫡にされた王子のペルセウスなんだよ」

「な……」

 長い年月を経て。

 深い森の洞窟で……二人は初めて出会った。溺愛された幼い王女と疎んじられた王子は、同じ王宮内でも顔を合わす機会は無かったのだ。

「当時まだ子供だったぼくは、追放されてから、生きるために南の方へ旅をしながら、色々やってきたよ。人助けをして、食べるためのお金を稼ぐ。その繰り返しだったよ。でもね、辛いなんて思ったことは一度も無かった。やりがいを感じていたよ。人のために何かをして、感謝してもらえる。そんなことアルゴスの王宮では、得られなかった喜びだったからね」

 優しい微笑みを浮かべる美丈夫。

「メドゥーサ姫が病気で亡くなった、という噂も聞いた。それが真実かどうか、ぼくには確かめる術は無かったけど、心のどこかでは、妹がまだ生きているんじゃないかとずっと思っていたよ。ぼくだって廃嫡で追放、行方不明だけど、実質死んだものとしてアルゴス王宮では扱われているようだからね。でもぼくは人助けをしながら、生きているという実感を持ちながら人生を旅して生きているんだ」

「あ、……兄、上?」

「そうだよメドゥーサ。ぼくは君の、腹違いの兄だ」

 メドゥーサの首は兄ペルセウスを見つめた。といってもペルセウスの顔は山羊皮を貼った盾に隠れていて、メドゥーサの目には映っていなかった。

 顔など見えなくても構わなかった。美形であろうと醜かろうと関係ない。メドゥーサが物心つく前後くらいにアルゴス王宮から追放されたペルセウス王子。腹違いの兄妹が長い時を経てようやく再会したのだ。

「妾を、……私を心配して、会いに来てくれたのですね、兄上……」

「そうだよ。……二人で闘って、首を落としてしまわなければならなかった、というのは、不幸な再会だったかもしれないけどね……」

 メドゥーサは首を横に振った。いや、切り落とされているから振れなかったが、まるで首を横に振ったかのように、力を失って垂れている髪の毛の蛇が揺れた。

「いいのです。これで私も呪いから解放されるのです。最期に、兄上に会えて、優しい言葉をかけてもらえて、嬉しかったです」

 死を目前にしたメドゥーサの双眸から、大粒の涙の滴が零れた。涙は、洞窟内のヒカリゴケの神秘的な光を受けて、七色の彩で輝いた。

 床に落ちた時、涙は七粒の宝石に変貌していた。市場に並んだ果実のように、瑞々しく鮮やかに輝く。

 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。

 紅縞瑪瑙。

 柘榴石。

 黄玉石。

 翡翠。

 トルコ石。

 ラピスラズリ。

 紫水晶。

「あ、私の涙が……なぜ?」

 ペルセウスはしゃがんで、七つの宝石を拾った。

「メドゥーサの視線は、生き物を石にするのだろう? 今こぼれたメドゥーサの涙は、石の心から生身の心に戻ったメドゥーサが流した生身の涙だったから、視線を受けて石になったのさ。ただの石ではなく、綺麗な宝石にね」

 その言葉を聞いて安らぎを得たのか。

 凍り付いた心を溶かす兄のコトバこそが、メドゥーサにとってはどんな人形や宝石よりも美しかった。

 メドゥーサはそっと瞼を閉じた。

 最期の瞬間。瞳は赤ではなく、オリーヴ色になっていた。

 と、同時に小声で兄に対して呟いた。

 ペルセウスは耳をそばだてて、妹の最後のコトバを聞き取った。

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