第3話
アルゴス王国の都で生まれ育ったペルセウスは、まだ少年の頃に都を出奔してからというもの、黄金色の太陽に導かれるように南を主に旅していた。岩山地帯の多い北部よりも、南方の空の青さと海の潮騒に憧れを感じたのだ。
南の人々はおおらかだった。
困っている人を助けたら、いつもお礼は奮発してくれた。本来は無償で人助けをしてこそ真実の優しさだとは思うのだが、お金や食べ物が無ければ生きていけないし旅も続けられない。必ず少ないなりにも謝礼をもらうことにしている。今回は例外だ。
ネムスの森のある北へは今までは行ったことがなかった。
今、ペルセウスはネムスの森の直前まで来た。
――ぼくは来たぞ。
森に入る直前に、村とも呼べないような小さな集落に立ち寄る。
そこで若い女から噂話を聞いた。
「以前はこの森には、年を経て凶悪な化け物になった猿がいたのよ。でも森の最も深い場所にある泉の近くにメドゥーサという化け物が居るという噂が流れ始めた頃から、猿の化け物を見たという噂はぱったりと聞かなくなったわね」
猿のフツタチは、元はこの森を根城にしていたのだろう。メドゥーサ出現で追い出された形か。あの恐ろしい猿のフツタチにとっても、メドゥーサが危険な存在であったということだ。知恵のある怪物だからこそ、猿のフツタチは石化してしまう前に危険を察知して森を脱出したのだ。
化け物同士で潰し合い、毒を以て毒を制す、ということには残念ながらならなかったらしい。
「メドゥーサなんて危険な化け物が住んでいると分かっていて、森に入る者がいるんですか?」
生真面目な表情で訊いたペルセウスに対し、若い女は薔薇色の唇から小さな溜息を漏らした。
「熊とか毒蛇とかがいると分かっていても、森へ山菜採りに行く人は後を絶たないでしょう?」
頷くペルセウス。
「森に入ったからといって、必ずしもメドゥーサと遭遇するわけじゃないのよ。森に入って帰って来ないのは、ほんの一部の人だけよ」
腕組みして、更に頷く。帰らなかったその人たちにしても、メドゥーサに睨まれて石になったから帰って来ないのかどうかは不明だ。単に道に迷って野垂れ死んだだけかもしれない。
「集落に住んでいる人はみんな、森の恵みで暮らしているから。狩りをしたり炭焼きをしたり……逢い引きをするために森に入る男女もね」
女は微かに頬を赤らめた。女もそういう用途でメドゥーサの住む森を利用しているらしい。
「お兄さん、あなたイイ男だから、今から一緒に森に行かない?」
娘は、背の高いペルセウスの右腕に抱きついた。ペルセウスの肘に大きな乳房を押しつけるようにしながら、熱い上目遣いで甘く誘う。
「ぼくはメドゥーサに会いに行くんだよ。危険だよ」
素っ気ないペルセウスの言葉に、女は頬を膨らませた。
女の見た目は二〇歳過ぎ、いわゆるメドゥーサ世代だ。美人だが、性格はやや幼さを残しているようだ。
「なによ。メドゥーサって凄く醜い女の怪物なんでしょ? どうしてそんなのに会いたがるの?」
「生き別れた妹と同じ名前なんだ。もしかしたら妹かもしれないと思うと気になって気になって」
「なんなの、その、取って付けたような作り話は」
女は去った。
ペルセウスとしては、どう言いくるめて追い払おうか迷っていたので、手間が省けて助かった。
オリーヴや月桂樹のような明るい黄緑色っぽい葉をつける南方の木々とは違い、北のネムスの森の木々はどこかしら刺々しく感じられた。
風が吹くと、石と石とが擦れ合うような音が梢で鳴る。
植物までもが、メドゥーサの石化能力の干渉を受けて石っぽく、固く冷たく尖っているのかもしれない。
ネムスの森の最も深い処。
泉のある辺り。
これだけだ。
メドゥーサの居場所に関する情報は。
そもそも、メドゥーサをきちんと見た人間など存在しない。見た者は現在は冷たい石となって風雨に晒されているはずなのだから。
――もっときちんと、メドゥーサの居場所について、アセナ女神から聞いておけばよかった。
森を歩きながら、ペルセウスは後悔していた。
行くあても無く進む。森の浅い所ならば、確かに頻繁に人が入っている様子も感じられた。下生えは踏みつけられて道になっている。
岩山地帯の森だ。高い方へ行けば、森の最も奥ということになるのではないかと見当をつける。でも山の頂付近に泉など湧き出るか、とも疑問に感じる。
――もう少し情報を集めた方が賢明か?
戦略的撤退も視野に入れ始めるペルセウス。
その時だった。
木々が生い茂っている地帯が途切れ、唐突に視界が開けた。夕方の薄暗さから真昼の明るさに戻ったかのような気がしたが、現時刻は実際に真昼だ。ほぼ真上にあるアルカイカスの太陽から日射しが滝津瀬となって降り注ぐ。
黒々とした岩に囲まれるようにして、小さな泉があった。透明な水が湧き上がって、岩の隙間を縫うようにして遥か南の海を目指して流れ行く。
「これがそうか」
泉のすぐ側には、巨大な二つの岩が寄り添い合うように屹立していて、その隙間は人間が入れるくらいの洞窟になっていた。ねぐらとするにはおあつらえ向きだ。ペルセウスは断定した。ここに、探し求めていたメドゥーサがいる。腰に佩いた青銅の剣をそっと触って確かめる。もちろん左手には、アイーギスの盾。
長身のペルセウスは、盾の後ろに身を隠すように、少し背を丸めて洞窟内に入った。実際には、顔だけ隠せば十分なのだが、メドゥーサ相手に用心して用心し過ぎることはないはず。
洞窟の中は、壁や天井にはヒカリゴケが生えていて、朧気ながらも明るさがあった。腰に提げた道具入れの袋から蝋燭を出そうとしたが、思い留める。ヒカリゴケの合間からはたまにキノコも生えている。足下には何も生えていない。何者かに踏まれて枯れてしまっているようだ。
メドゥーサを相手に不意打ちは通用しない。正面から、メドゥーサに戦いを挑むことにする。
「ぼくはペルセウス。森に入った人を石にするメドゥーサを退治しに来た! 正々堂々と勝負しろ!」
大きく叫んだが、声はあまり響かなかった。柔らかいヒカリゴケが声を吸収しているのだ。岩と岩が合わさった形の洞窟なので、密閉空間ではなくあちこちに抜け穴があるのだろう。
「妾(わらわ)を退治するじゃと?」
枯れ枝のような、瑞々しさの無い嗄れた声が奥から聞こえた。
ペルセウスは心持ち、左腕の盾を高く掲げる。
ヒカリゴケの淡い光が形作る妖しい空間に、髪の長い女の影が浮かび上がった。ペルセウスに向かって奥から優雅な足取りで歩み近付く。
アセナから賜ったアイーギスの盾の後ろにしっかりと顔を隠しつつ、ペルセウスは剣を抜いて右手に力強く握り締めた。盾は透明であるかのようで、向こう側の様子がはっきりと見える。ヒカリゴケのおぼろな光明でも見間違えぬほどに、彼女はすぐ近くまでやって来た。
女神アセナが意図的に広めたものだからか、彼女の容姿に関する噂は全面的に正しかった。首から下だけを見たら、いかなる男といえども惚れ惚れとせずにはいられないほどの、豊満でありながら要所は引き締まった若い女の身体。やや草臥れた薄い衣装を着ている。
だが首から上は……
彼女の長い髪は、洞窟内で風も無いのに大きく蠢いていた。毛先にはそれぞれ二つの眼が爛々と輝いている。毒蛇だ。
顔は……皺だらけで浅黒かった。肌は所々ひび割れている。口は耳まで裂け、その耳は普通の人間にはあり得ないほどに先端が尖っている。腫れたような鉤鼻は鼻翼が張っていて醜い痣が浮かんでいる。落ち窪んだ両目は、異様に充血しているのか、禍々しく真っ赤だった。
メドゥーサ。
真っ赤な目。
その瞬間ペルセウスは、全身に痺れが駆け巡るのを感じた。右手が握力を失い、青銅の剣を落としてしまった。
――そんな馬鹿な! ぼくはきちんとアイーギスの盾の後ろからメドゥーサを見ているのに!
それなのに、全身が痺れて動かなくなりつつある。メドゥーサの視線の力を受けて、石化が始まってしまったということなのか。
「盾の後ろに隠れて妾を見なければ、石になることはないと思っているようじゃな。じゃが、妾の力は、相手を石にするだけではない。足下を見てみよ」
メドゥーサは嬉しそうに言った。
ペルセウスは筋肉に鞭打って、首を下に向けた。
メドゥーサと直接視線を合わせると、身に纏う装備も含めて石化してしまうはず。だがペルセウスは石化していなかった。だから痺れを感じつつも、辛うじて下を見ることができた。
一匹の毒蛇が、ペルセウスの足、衣服に包まれておらず露出している太腿に噛みついていた。
メドゥーサの抜け毛の毒蛇だ。抜け毛はメドゥーサの力で石化することはないものらしい。
――しまった!
メドゥーサの石化能力を恐れて、アイーギスの盾という対策を入手したことにより、ついつい油断していたのだ。メドゥーサの髪は毒蛇でできている、というのは常々聞いていたはずなのに、現在まですっかり失念していた。
メドゥーサ本体から離れても毒蛇が動けたとは……
「どうじゃ、ペルセウスとやら。体が痺れて動けまい」
もう役目を果たし終えた抜け毛の毒蛇は、悠々と主人の方へ這い戻って行った。まさかメドゥーサの頭に戻るのかという疑問もあるが、身動きならぬペルセウスはそれどころではない。
「動けなければ無力な子供も同然。早く顔を見せてみるのじゃ、ペルセウス。妾は石像を集めるのが大好きじゃ。そなたの顔は美しいか?」
メドゥーサはゆっくりと、ペルセウスの方へ接近する。盾を通さずにメドゥーサと直接視線を合わせたら、その瞬間に終わりだ。血の通わぬ冷たき石となり、人知れずネムスの森に果てる。
それでも決して諦めず、棒のように固まってしまった右腕に力を籠め、腰に提げた袋をまさぐる。
「さあ、ペルセウスはどのような人形になるのじゃ?」
メドゥーサは余裕の態度でアイーギスの盾に手をかけた。盾をどかせて、直接ペルセウスの顔をのぞきこもうというのだ。
ペルセウスは待っていた。油断しきった化け物が、自らの攻撃半径に入るのを。
素早く屈んで青銅の剣を拾うと、目にも留まらぬ鷹の飛翔のごとき剣戟を横に一閃させた。
壊れた人形のように。
メドゥーサの醜い首が飛んだ。美しい女の姿をした首から下の体は、その場で仰向けに倒れた。
切り口からは血液は出なかった。代わりに、深紅の砂のような物が溢れ出て小さな山を作った。怪物の体には血は流れていなかったのだ。
「な、なぜじゃ……」
元より嗄れていた声を、切断された喉から搾り出すようにして、首だけになったメドゥーサが苦しみの中で発する。
「毒を以て毒を制したのさ」
ペルセウスは青白い顔をしていた。まだ完全に解毒ができておらず、体を動かすのは非常に苦痛だ。
勝利を確信して油断したメドゥーサが近付いてきた時。ペルセウスは、毒蛇に噛まれた傷に、一か八か自分が持っていた毒を塗り込んだのだ。猿のフツタチを倒した時に使った毒キノコの痺れ薬だ。メドゥーサの毒とペルセウスの毒とは正反対の効果を持っていた。だから、単独で使えばいずれも毒として作用していたのだろうが、二つを合わせたため互いに打ち消し合い、解毒作用が起こったのだ。
「なぜ妾が、殺されなければならないのじゃ……」
もはや人間ならぬ怪物だからか。
切断されて首だけになったメドゥーサはまだ弱々しくも喋り続けた。髪の毛の毒蛇は全て力を失って垂れ下がっていた。凶星のごとくに赤い双眸は、次第にその赤さを薄めていく。
盾の後ろに慎重に顔を隠したまま、ペルセウスは岩の床に落ちたメドゥーサの首を見下ろした。
「く、悔しい……神々の呪いさえ受けなければ、こんなことには……」
メドゥーサの両目からは、洞窟の外にあった小さな泉のように、透明な涙が止めどなく溢れ出た。
「メドゥーサ。あんた、どうして神々よりも自分の方が美しいなんて傲慢なことを言ったんだ?」
「傲慢などではない。事実、妾の方が美しかったのじゃ。今となってはこのような醜い姿となり果ててしまっているが、当時は美しかったのじゃぞ。齢一五を数えるくらいの頃じゃった……」
咽び泣きながら、メドゥーサの悔しさの言葉も溢れた。
「今は森で一人じゃが、妾は本当は美しき姫君だったのじゃ」
「……」
「信じておらぬな? 本当のことなのじゃぞ?」
「……いや、信じているよ。メドゥーサの最後のコトバだ。遺言として、ぼくが終わりまで聞くから、話してみなよ」
静かな、誠意の籠もった口調でペルセウスは促す。
二種類の毒が混ざり合っている肉体は、自分の物とは思えないほどに苦痛の悲鳴を挙げているが、メドゥーサの末期の言葉をきちんと聞く方が優先されるべきだ。神々の呪いを受けて化け物となったメドゥーサの噂を最初に聞いた時から、その存在が気になっていたからこそ、アセナの処女宮で神託の助言を受けつつ、北のネムスの森へと戦いに来たのだから。
「妾は、アルゴス王国のアクリ王の末娘じゃ。美貌でアクリ王の愛妾になった母親似で、本当に美しかったのじゃ、人間だった頃は……」
「……」
アクリ王については、ペルセウスも知っている。
よく知っている。
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