第2話

 石の城壁に囲まれた都は、人々が賑やかに行き交っていた。

 照りつける太陽と乾いた風、温暖な気候、アセナの御加護。アルゴス王国の都は繁栄していた。

 ――ここに来るのは何年ぶりなんだろう?――

 ペルセウスは指折り数えたが、一往復半くらいで、正確な数字は思い出せなかった。

 まずは市場で食料品を買う。好物のチーズを真っ先に購入し、他の商品も見て歩く。並べられた色鮮やかな果物類は、まるで粒揃いの宝石のようだ。物価は高かったが、美男子のペルセウスに対し、売り子の中年女性が乾燥イチジクの実をまけてくれた。太陽の恵みを浴びた果実は甘みが凝集していた。

 目指すアセナの処女宮は、城塞都市の中でも小高い丘になっている上にあった。真ん中が太くなっている円柱群に支えられた石の神殿は、力強い壮麗さを誇って王都を見守っている。

 処女の女神アセナは、都の守り神でもあり知恵の女神でもある。主要一二神の一柱でもある。偉大なアセナ女神の御加護と御利益を求めるため、神殿を訪れる人は男女問わず相当多い。丘を上る人の流れに乗って、ペルセウスは処女宮に入った。

 人々を迎えるのは、神殿の壁を飾る絢爛たる大理石彫刻の数々。

 ペルセウスも他の人々と共に、一人の人間として、黄金色に輝く巨大な女神アセナ像と向き合った。

 フツタチ化した猿を退治した報酬としてもらった金貨の一枚を、恭しく奉納し、ぬかずく。各地を旅し方々で戦ってばかりのペルセウスは礼拝の作法など知らないが、誰にも咎められないということは、これで問題無いのだろう。

 ペルセウスの周囲でも、数多くの老若男女が石の床に顔をこすりつけるようにして、正面のアセナ女神像に向かって熱心に願望を唱えている。社会不安の反映か。

 安置されているアセナの像は、若く美しい女性の姿をしている。著名な彫刻家の手によるものらしい。凛々しい兜をかぶり、豊かな乳房を胸当てで覆い、右手には槍、左手には盾を持っていた。知恵の女神とはいえ、アセナは武闘派だ。人間の等身大よりは随分巨大な像が、信奉する敬虔な民を見下ろしている。

 ――偉大なる美しき女神アセナよ。見た者を石にしてしまうメドゥーサという化け物が、北のネムスの森にいるという噂を聞きました。まことでしょうか?

 神々は、無辜の民の真摯な願いには誠実に応えてくれる。怠けたり他人を陥れようとしたりする者の利己的に過ぎる願望には耳を貸さない。

 もちろんペルセウスの願いは女神アセナに届いた。人々のために命を惜しまず戦う勇者の声は、女神も優先的に聞いてくれたものらしい。

(ペルセウスよ。私は、メドゥーサを倒そうという人間の勇者が現れるのを待っていました)

 女神の声は柔らかくも力強かった。ただしペルセウスの頭の中だけに響くようで、周囲で祈っている者達には聞こえていないようだ。

(今まで幾度となく託宣の中で、メドゥーサの存在を人々に伝えました)

 見たら石化してしまうのに、何故メドゥーサの姿が分かるのか? 不思議だったが、そういうことだったのだ。アセナの神託で語られているから、メドゥーサの名前や容姿が広汎に流布していたのだ。

 ――敬愛するアセナよ。そんな怪物が本当にいるのですか?

(メドゥーサは元は人間の美女でした。しかし自らの美しさに驕り、自分は神々よりも美しいと豪語したのです。それで私や太陽神アルカイカスなどの怒りに触れました。主要一二神を含む神々で協議した結果、メドゥーサがおぞましい化け物になる呪いをかけたのです)

 ――畏れ多くも神々を侮辱するとは……メドゥーサとやらは、なんと愚かな女だったのでしょう。

 深くひれ伏しながら、心の中で真意を述べる。心の声であるからには、女神に媚びた偽りではない。

 ペルセウスは自らの強さに自信を持っている。しかし自分の力をきちんと把握している。神々より強いなどとは思っていない。自分の力を正確に知らず、相手の力量を客観的に見抜くことができない者は、戦士として長生きできない。

(私は、恐ろしい怪物が人の世に解き放たれることになるよりも、メドゥーサを殺すことを主張しました。しかし他の神々は呪いをかけることを支持しました。神々の合議で決まったことですから、私の独断でメドゥーサを殺すことはできません。そのため自主的にメドゥーサを討とうという意志を持った人間が出現するのを待っていたのです)

 床に額をこすりつけた姿勢のまま、ペルセウスは冷や汗をかいていた。神々は嫉妬深い。愚かな人間に対し天罰を与えるのも厭わない。そう思うと、正面にある麗しきアセナ像を直視するのが恐ろしく感じる。

 ――そ、それでは、メドゥーサを見た者は石になってしまうというのはまことなのですか。

(正確に言うと、メドゥーサと直接視線を合わせた生き物は装備も含め石になってしまうのです)

 ――ならば、背後からそっと忍び寄って首を刎ねてしまえば、石像にされずに済みますか?

(メドゥーサの髪は毒蛇でできているのです。背後から近付いても、毒蛇に気付かれます。不意打ちは不可能です)

 ――メドゥーサを見ることができないということは、弓矢で攻撃することも不可能ではありませんか?

(メドゥーサと直接視線を合わせなければ良いのです。間接なら、合っても石にはなりません)

 その瞬間、ペルセウスの体は小さく震えた。不可能に思えたメドゥーサ討伐が、現実として道が拓けて行く。

 ――ならば、鏡を使えば!

 しかし冷静に考えると、困難な闘いが予想される。

 ――女神よ。鏡に映したメドゥーサを見ながら戦うというのは、口で言うほど簡単ではないと思います。鏡の映像では距離感も掴めませんし、激しい動きの中で誤って直接視線を合わせてしまう危険性も高いと思われます。

 弱気や後ろ向きな気持ちにとらわれるような惰弱なペルセウスではない。だが、できることはできる、できないことはできない。自信と過信が別物であると知っている。

「ペルセウスよ! そなたにアイーギスの盾を貸し与えます!」

 突如、神殿の広間に女神の声が殷々と轟いた。ペルセウスの頭の中で響いていたのと全く同じ威厳のある声だった。その声はペルセウス以外の周囲の祈祷者たちにも明瞭に聞こえたらしく、みな驚きにどよめく。不安そうに周囲を見渡している者もいるし、声を発したと思われる正面の女神像を凝視している者もいる。

「あっ、女神の盾が!」

 誰かが叫んだ。人々が女神の像に注視する。アセナが左手に持っているはずの盾が無くなっていた。

「これを……ぼくに使え、と?」

 冷たい石の床に座ったまま、ペルセウスは呻くように言った。目の前に、女神像が持っていたのと同じ大きさと形の盾があった。一般的な盾と同じ材質、青銅に山羊の皮を張ったものだ。

「これが、アイーギスの盾?」

(その盾を左手に持って顔の前に構えて、私を見なさい)

 女神像の盾と同じ大きさなので、いかに長身とはいえ普通の人間であるペルセウスが持つには随分と大きめの盾だ。前ににじり出て盾を持ってみると、まるで麻布でできているかのように軽く、青銅の重さを感じなかった。

 女神に言われた通り、盾を左手に持って構えた。周囲の人々がペルセウスの一挙手一投足に注目しているが、全く気にしない。

 顔の前に盾を構えたら、当然前が見えなくなる。……そう思っていた。

「これは、魔法ですか!」

 人々が注目しているのも忘れ、思わず大声で叫んでしまった。あたかも盾が外枠を残して透明であるかのように、前の様子がはっきりと見える。正面にあるアセナ女神像は、右手に槍を握っていて、左手には現在は何も持っていない。

(魔法ではありません。特殊な技術で、前方の景色を鏡に映して見せているのです。この盾の後ろに隠れながら戦えば、メドゥーサと直接視線を合わせる危険が無くなります。この盾を通して見えている前方の様子は、鏡に映った映像なのですから、直接視線を合わせてはいません。メドゥーサを見ても、石化の心配はありません)

 アイーギスの盾を持った左腕に震えが走った。感激は風よりも速く勇者の全身を駆け巡った。

「この盾さえあれば!」

 メドゥーサを倒せる。

 いかに恐ろしい化け物であっても、その最大の武器さえ封じてしまえば恐るるに足りぬ。あとは勇気と、少年の頃から旅を続けて培ってきた体力と経験と、人々のため女神アセナのために、という気持ちさえあれば勝機は自ずと見えてくる。

(ペルセウスよ。そのアイーギスの盾を貸す代償は、メドゥーサの首です。必ずや盾を私に返すと同時に、首級を奉納するのです)

「はい」

 周囲の人々には「ペルセウスよ! そなたにアイーギスの盾を貸し与えます!」以外の女神の声は聞こえていない。あくまでもペルセウスの頭の中だけに響いている、一対一の会話だ。

 石の床は若き勇者の熱い心と体温を吸ったのか少しだけ暖かくなっていた。ペルセウスは盾を持って立ち上がり、そのまま反転して、女神像に背を向けて立ち去った。周囲にはたくさんの人がいたものの、英姿颯爽としたペルセウスに恐れををなしたように、両脇に寄って分かれた。真ん中に一本の真っ直ぐな道ができ、女神から盾を授かった勇者は大股で去った。

 人々のざわめきだけが神殿に残った。

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