もう一度目を開けて、世界の美しさを共に……

kanegon

第1話

 ――普通の猿より巨体であるにもかかわらず、敏捷性に関しては普通の猿なんかよりも遥かに勝っている。さすがは長い年月を経てフツタチという化け物になっただけのことはある……

 森での苦しい戦いの最中、ペルセウスは誰かに解説するように冷静に分析して、感心した。

 フツタチの猿は高い枝から枝へ跳び移りつつ、硬い木の実を投げつけてくる。いかに一八五アディタスの長身を誇る美丈夫ペルセウスでも、青銅の剣が届かなくては猿を仕留めることができない。

 端正な顔に苦笑を浮かべる。

 仕方なくペルセウスはハシバミの弓を取り出した。威力の弱い小型の弓なので、鏃には毒キノコから特殊精製した痺れ薬が塗ってある。

 矢をつがえて弓を構えるペルセウス。

 ……木々の枝葉が障害物となる上に、フツタチとなって異様な知恵も得ている猿が、燦々と輝いている太陽の方向へと逃げるので、下から見上げると眩しくて狙いが定めにくい。

 下生えの間を吹き抜ける風を太腿の素肌に感じる。

 木洩れ日をよぎり、草ずれのざわめきを運び行く微風。

 猿の姿が太陽を横切った瞬間、ペルセウスの視界の隅、下草に映る猿の影が動くのが見えた。

 ――そこだ!

 太陽までも射抜かんとばかりに天高く放たれた矢は、狙い過たず吸い込まれるように猿に命中した。

 梢から落下したにもかかわらず、猿は死んでいなかった。

 毒によって体が痺れたのか、先刻よりも動きが鈍っている。焦げ茶色の剛毛におおわれた背中に矢が突き刺さった状態の猿は、赤い目で睨み牙を剥いてペルセウスを威嚇している。士気衰えぬ猿。

 でも地上での戦いならばペルセウスは負ける気がしない。

 弓から持ち替えた青銅の剣を握り直す。猿の叫びに負けず、果敢に気合いの雄叫びを挙げる。

 白い麻布の服を纏った勇者は走る。剣風は敵の動きを凌駕して鋭く閃き、化け物を切り裂く。

 猿が地上に落ちた時点で、勝負は決まっていた。



「……ありがとうございました、ペルセウス様」

「ここ五年ほど、奴に畑や家畜を荒らされて、困っていたんです」

 村人たちは、猿のフツタチの首を持ち帰ったペルセウスに対して、豊作の麦以上に深く頭を垂れた。

 山羊の乳で作ったフェタチーズと金貨数枚を、ペルセウスはお礼として受け取った。早速チーズを食べてみる。独特のすっぱさで、目と鼻と口が顔の中央に寄ったような表情になった。

「ウチの村は貧乏で。この程度のお礼しかできず済まないです」

 村人を代表し、老いた村長が更に深く頭を下げる。

「いいのです、村長さん。ぼくは儲けのためにやっているんじゃない。困った人を助けるのが好きで、こうして旅をしているのですから」

 ペルセウスは、若さと活力が漲る顔に太陽のような笑みを浮かべる。偽りのない気持ちだ。

「すみません。そう言っていただけると助かります」

 山羊のように長い顎髭を垂らした村長が恐縮する。

「我々の村はまだ良い方かもしれません。聞いた話では、北のネムスの森では、数年前から恐ろしい化け物が住み着いて、大変だそうで」

「ほう。ぼくはアルゴス中あちこち旅をしましたけど、ネムスの森の方へはまだ行ったことが無いです。どんな化け物なのでしょうか?」

 村長は、顎髭をしごきながら思い出そうとした。

「あくまでも末娘からの手紙に書いてあった話ですけど。首から下はなまめかしい若い女の体だけど、首から上はおぞましく醜い老婆の顔で、髪の毛は全て毒蛇でできているそうで」

 筋骨隆々たる肉体と砦のように堅牢な心を持つペルセウスも、話の荒唐無稽さに驚きを隠せない。

「……ほう。それは凄い。一度見てみたいですね」

「いえ、そういうわけにもいきません。なにしろその化け物を見た者は、一瞬にして石の像になってしまうのです」

 フェタチーズを食べきったペルセウスはオリーヴ色の目を大きく見開いた。どこかで飼い犬が吠えている声が聞こえ来る。

「見た者が全て石になるなら、どうしてその化け物の姿が、髪の毛が毒蛇だとか詳しいことが分かるのでしょうね?」

 村長の老人は一瞬呆けたような表情になった。

「さ、さあ。それは私に言われましても。あくまでも流れ流れて来た噂話ですから。幸いその化け物は、森の最も奥の、泉の近くにだけいるようで、狩りや山菜採りや炭焼きで森に入る者も、滅多なことでは鏡に裏切られたメドゥーサに遭遇せずに済んでいるようですが」

「鏡に裏切られたメドゥーサ?」

 村長の言葉を聞いて、すっきりと通った鼻梁に小さく皺を寄せたペルセウス。奇妙な接頭辞がついている、その名に反応を示した。

「その化け物、メドゥーサという名前なのですか?」

「はい。何かご存知でしたか?」

「そうではありません。知り合いにメドゥーサという名の人がいたので。少し驚いただけです」

「ああ、もう今から二〇年近く前になりますかね。当時のアクリ王に姫君ができた時に、メドゥーサというちょっと変わった名前がつけられましたから。アルゴスの都ではそれにあやかり女の子の名前にメドゥーサとつけるのが流行っていたようですから」

 現在二五歳の青年であるペルセウスよりは、少し下の世代に多い名前、ということになる。

「メドゥーサですか。そのような恐ろしい化け物がこの世にいるとは。気になりますねえ……」

「……ま、まさかペルセウス様、メドゥーサと戦うのですか? 危険です。石にされますぞ」

 自分がメドゥーサに睨まれて石化してしまう恐怖を味わっているかのように、村長が心配する。

「どうしても戦うならアセナの御神託を受けてからの方が……」

 ペルセウスは破顔一笑した。

「ぼくだって自分を過信しちゃいません。石像になるのは嫌ですから、どう戦えばいいか、仰る通りアルゴスの都へ行ってアセナの処女宮で神託を聞いて対策を練ります」

 山羊のように臆病ではないが、ペルセウスは無謀に突進するだけの蛮勇の匹夫でもない。慎重に勝つ手段を準備してから戦いに挑む。

「そ、そうですか。お気を付けて。恩人が石像になってしまうのは忍びないですから」

「ご心配には及びません。……あ、村長、このフェタチーズ、もうちょっともらっていいですか? すっぱいけど癖になる味ですねえ」

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