第4話 雨雲

「や、待って、落ち着いて」

「いや、待たない。待てない。アナタ、生き神になってもよいのですか」

「よくない、よくはないが、刃物はダメだ」


 その前に、生き神とはなんだ。尋ねたいがそんな場合でもない。

 逃れようと身を翻して部屋に駆け戻ると、机の間を走り抜ける。男はぺちりと床を鳴らして、追ってくる。事務椅子で通路を塞ぐが、男は右に左に飛ぶような仕草で身軽に障害を越えてくる。

 左の視界で、ちらちらと、魚の尾が跳ねまわって、逃げにくいことこの上ない。


 がちゃり。


 刃物から逃げ回っていると、入り口の扉が唐突に開いた。

 帽子を被った男が一人、ひょっこりと、扉の影から顔を覗かせた。

 驚いて、私はつい、足を止める。蛙男が嬉々として、開いた扉の前を過って私の方へ突っ込んでくる。


「あぁ、やっぱり」


 男の腕が扉から伸びて、蛙男の襟首を捕まえる。

 ぐえ、と小さなうめき声を漏らして、蛙男の身体が止まった。


「こちらでしたか」


 蛙男を掴んだままで、男は私に微笑んだ。

 襟首をつかまれた男はばたばたしたまま後ろを仰ぎ見て、びっくりした声を出し、しずしずとおとなしくなった。

 スーツを着込んだ男は、中折れ帽の鍔に軽く手を当てて挨拶をすると、蛙男に微笑んでその肩を柔らかく叩く。

 蛙男はしゅんとして刃物を懐にしまうと、男が片手に持っていた革製の大きなトランクを受け取って捧げ持つ。


「どうも、お騒がせいたしまして」


 にこやかな笑顔に、しどもどと、私は頭を下げた。

 ぜいぜいと息が上がって、声も出ない。左目では、魚がぐるぐると回っている。


「ずいぶん育ったようですね。アナタの身体は居心地がよかったようだ」

「この人のおかげで、あの蛇の奴らも追ってこられなかった」


 自分の手柄のように、蛙男が胸を張る。

 おずおずと、左目を押さえて私は上目にスーツの男を見やる。


「でも、取り出せないと、さっき言われましたが」

「や、もう大丈夫!この人が来たから、もう大丈夫!」


 蛙に似た小男が、何故だかやはり自慢げに、胸を反らせて応えた。


 スーツの男は捧げ持たれたトランクを手近な机の上に置くと、ばくんと大きく開いて、中から何やら取り出した。

 薄暗い部屋の明かりを跳ね返したのは、硝子の金魚鉢と、掌に収まるほどの小さな灰色の綿のような塊。


「これが好きなんです」


 硝子の金魚鉢は空っぽで、それを片手に乗せたまま、男が私に近づいた。

 不思議に思って、私は金魚鉢を見下ろす。

 硝子の金魚鉢が好きなのだろうか。しげしげと眺めた男の顔は、するりと綺麗に整っている。


「これが?」

「そう。好物なんです」


 こちらがね、ともう片手に持った灰色の何かを、私の目の前に差し出して振った。

 鼻先で、甘い甘い匂いがする。

 ねっとりとした、懐かしい匂い。

 綿菓子か。

 雨雲のような灰色の、綿菓子。

 目の前で、甘やかに香りが広がる。

 と、目の奥がじわりと熱を帯び、次から次へととめどもなく涙が溢れ、私は片手で目元を押さえた。

 睫毛を押し上げ、指の間を滑り、涙が溢れる。

 ぱしゃん、と涙が金魚鉢に落ちる。


「ああ」


 涙が、止まらぬ。

 大きく息を吸い込むと同時に、ぶわりと涙が溢れて零れる。


「あぁ」


 手の指の隙間から、雨色の金魚が飛び出す。


 ぴしゃん。


 硝子の金魚鉢に、私の涙と、雨色の金魚が、滑り落ちる。

 蛙男が嬉し気な声を上げた。私の視界は涙に曇り、もはや何も見えない。

 ごしごしと、袖口で、子供のように涙を拭う。幾度も幾度も。

 それでも涙が幾粒、頬を滑り顎を伝い、ぱたぱたと音を立てて金魚鉢に落ちる。


「ああ」


 溜息と共に、大きく息を吸った私の背を、男の掌が宥めるように叩いて、ようやく涙は止まった。

 目の前で、男がにっこりと私に微笑む。その微笑みに、私の背中はぞくりとする。

 美しい、闇のような、目の奥。


 男は灰色の綿菓子を、金魚鉢に落とした。

 私の涙しかない金魚鉢の底で、雨色の金魚が綿菓子に喰らいつく。端が欠けた灰色の綿菓子は、驚いたように金魚鉢の縁に浮かび上がって、ぶるりと震えると、雨を降らせた。

 雨雲色の綿菓子は、小さく細かな雨を降らせ、硝子の鉢の中には、みるみる水が湛えられる。

 男はそれを蛙男に手渡した。

 雨を降らせる雲の下で、金魚は心地よさげに、水の中を泳いでいる。

 私の眼の中には、もう影はちらついていない。

 蛙男は大事そうにそれをトランクに収めると、ぱたんと蓋を閉じた。


「さて、行きましょう」


 男は私の鼻先をハンカチで拭うとひらひらとそれを振り、蛙男を従えて、扉を開けた。

 雨を降らせる金魚鉢を収めたトランクは、蛙男がしっかりと抱えている。


「ごきげんよう」


 帽子の鍔を軽く持ち上げ、男はひらりと手を振って、扉の向こうへ消えた。

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