第3話 蛙男
日に日に魚影ははっきりとし、もう疑うこともなく、目の中に魚がいる。
はて、どうしたものか。
他人から、目の中の魚が見えはしまいか。
顔を洗って覗き込んだ鏡を見て、ふと、不安を覚えた。
出勤途中に早くから開いている、お年寄りばかりが集う薬局に立ち寄り、眼帯を買って左目を塞いだ。
真っ暗になった眼の中で、魚はぱしゃぱしゃと泳ぐ。どうやら、外から見えなくなったのが嬉しいらしい。どうしてそんな風に思ったのかは分からぬが、なぜだかそれが見当違いではないとも思う。
嬉しいのはよいのだが、ぱしゃりぱしゃりと尾が跳ねあがる度、涙が止まらぬ。
涙が止まらぬ左目を抱えて、私は仕事に勤しんだ。
左目で魚を飼い始めてから、出かける度に、雨の日が増えた。
今年の梅雨は、よく雨が降る。ただそれだけだとも思うのだが、友人知人からアメフラシとのあだ名をもらったほどだ。
それまで晴れていても、私が着くと途端に曇る。曇るばかりか、しとしとと晴れた雲間からも雨が零れる。よく雨が降る梅雨なのだ。
今日も朝からずっと雨だった。
私は左目の涙を拭い、外を見た。夏近く、日が長いので雨とはいえ、夕方でもまだ明るい。机の上には、終わらぬ書類がまだ積んである。
「手伝おうか?」
「や、それほどかからず終わるはずだよ、ありがとう」
肩越しに声をかけてくれた同僚を振り返ると、そこそこに切り上げろよと、ふたつみっつ飴玉をこちらの掌に押し付けて、笑顔を向けて帰っていった。
本当は少し、手伝ってほしい気もする。それでも断ったのは、眼帯を外したかったからだ。
涙が止まらぬから仕事が進まず書類が残る。それなのに、残業中も眼帯をしていれば、さらに遅れる。それを手伝わせたのでは、申し訳もたたぬ。
もらった飴玉を口に放り込むと、魚はくるりと身体を翻した。
眼帯を外した所為か、魚はやけにおとなしく、机の上の書類の束はみるみる片付いた。
「そろそろ帰るか」
机の上を片づけて、帰り支度を整えると、眼帯を取り出して左目を覆う。
ぐんと一つ、大きく伸びをして、私はふと、物音に気が付いた。どこかで、小さな音がした。
「何だろうか」
思えば今日は昼日中から、会社の中で奇妙な音がする。何やら濡れた雑巾をどこかに叩きつけるような、湿った音。
階段で、ひたりひたり。廊下でひたり、ひたり。裸足のような、足音。
がらんとした部屋の中で、不意にそれを思い出す。灯りは私のいる机の上しかついてはおらず、仄暗い室内は、陰が深い。
ひたり ひたり。
廊下から、音がする。
立ち上がって廊下に顔を出す。
ひたりひたり。
常夜灯のぼうとした光の中に、小柄な人影があった。
ひたひた。
どうやら、あの人影の足音だ。
「誰でしょう?」
右目を眇めて誰何するが、応えはない。
ひたり ひたひた。
きょろりと目の大きな、蛙のような顔をした男だ。
こんな人、同じ社内にいただろうか。新人か。
「ははあ」
電気工事の営業の人か。
確か、昼過ぎに課長が、エアコンが壊れたので、暑くなる前に業者を呼ぶと言っていた。就業時間を伝えておかなかったのか。
左目にした眼帯を整える。
もう、すぐそこまで来ていた男に、私はにっこりと笑顔を向けた。
「ご苦労様です。エアコンの…」
言い切る前に、ひたっと、眼前に蛙の顔が寄ってくる。とはいえ、私の顎までの背丈しかないので、少しばかり見上げる格好だ。
少し身を引いた私の顔を見上げて、ひくひくと鼻をひくつかせると「失礼」とぴらりと私の眼帯を摘まんでめくりあげた。
それから、ぐいと、背伸びをして、私の眼の中を覗き込む。
急に明かりがさして驚いたのか、魚の影がぱしゃんと跳ねる。
「おお、ここに」
目をくるくると嬉し気に回して、男は両手でぺたりと私の顔を掴む。
「よくぞ!守ってくださって!」
「ま、守る?」
「あの二人です、こずるい蛇め。白いやつらです」
「白いふたり…眼科の」
「そうです!まったく化けるなんて、ずうずうしい!」
ぺたぺたと音がするのは、きっと、地団太を踏んでいるのだろう。顔を掴まれているので、全体像がよく分からない。
「さあさあ、もう、アナタの眼の中ではいささか育ちすぎて窮屈だ。出してくださって結構ですよ」
私の顔を開放すると、両手を胸の前できゅっと拳にして、子供のような眼差しでこちらを見上げた。
私はただただ、困惑して、男を見下ろす。
「どのように…?」
「へ?」
「あの、どのようにして出せば…」
蛙男は泣き出しそうな顔をした。
泣きたいのは、私である。
しばし見つめ合った後で、小男はぎゅっと身体の前の拳を握って目を見開いた。
「このまま大きくなって、アナタの眼窩のサイズを超えたら、出られなくなる!」
きょろりと、音がしそうなほどに瞳を回して、蛙男はぐいと私に顔を突き出す。
「そうなれば、魚は身体の中に捕らわれる。アナタは動く池となる。人の身体の水分は、栄養が豊かすぎて早く育ってしまうのです!」
「ええと、どうも…」
情報が多すぎて、頭が処理しきれていない。
目の中では、魚がすいすいと泳いでいる。
そうか、育ちすぎているのか。そう言われれば、初めの頃より、魚の姿がよく見える。見慣れたばかりではないらしい。
「わあ、どうしよう、アナタを連れて帰るか、魚を持って帰らないと!」
わあわあと鼻先で騒ぐ男は、一度も瞬きをしない。
私はそれが気になって、まじまじと顔を見る。
ようやくぱちりと、音がしそうなほどに大きく、男が瞬きを一つした。
「あ」
じっと見ていた私の口から、思わず声が出る。男はぴたりと動くのをやめて、ひくりと大きく鼻を動かした。と、男の身体の割に大きな手が、私の胸倉を掴んで引き寄せる。ひくひくと鼻を蠢かせて、男はぱっと手を放して、大げさに嘆いた。
「アナタ、飴を舐めたでしょう。糖分はダメです。飴はよくない。もっと育っちゃうじゃないか!」
「それは、困った…」
困ったとしか、言いようもない。
何を落ち着いているんです、と男はぺちぺちと足を鳴らす。
そういえば、なぜ、こんな足音なのか、靴は履いていないのだろうか。不思議に思って足元にやった私の視線の先で、なにやら物騒な光が閃く。
「こうなれば、仕方ない」
低く呟くと、男はひらりと懐から、煌めく刃を取り出した。
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