第2話 眼科医

 その日は1日、左目が霞んで仕事にならず、早めに帰り支度を整え会社を出た。

 何やら目の前でちらりちらりと細かな影が動くのだ。今朝、目に入った水の所為か。金魚が入っている水だ、結膜炎など起こしたのかもしれない。

 一度など、大きく腫れて瞼が開かなくなったことがある。侮ってはいけない。早めに医者に診てもらおうと、会社近くで見つけた眼科へ向かった。

 少し古いビルの2階へ上がり、硝子のはまった重い扉を開ける。やけに薄暗い気がするのは、目の所為だろうか、それとも照明が暗いのか。

 どちらにせよ、片目がきちんと開かないので、暗くとも明るくとも見えにくいことに違いはない。苦労して問診票を記載している間も、目の前がちらちらとする。

 名を呼ばれ、はっきりと顔の見えない受付の女性に促され、診察室に入る。

 診察室は、さらに昏い。先生の白衣ばかりが、やけに白く目につく。


「どうされましたか」


 医者は私の眼にライトを当てて、事の顛末をふんふんと聞いていたが、話の途中で何やら嬉しげな声を上げた。

 じっと光を当て続けられている目が痛い。


「先生、目が…」

「ははあ、なるほど」


 何が成程なのか。くるりと小型のライトを回して、にやりと医者の口元が笑う。

 左目の涙を拭きながら、私は少し、身を引く。


「雨色のやつが、いるね」

「は?」

「いいものを捕まえたねえ」


 舌なめずりでもしそうな勢いで、先生は身を乗り出して嬉しそうな声を出した。


「雨色の、なんでしょう」

「魚だよ、君。雨を降らせる魚だ」

「は?なんですって」

「見えるだろうよ、魚の影が」


 私はしぱしぱと瞬きを繰り返す。

 眼の中を、黒い影がよぎる。

 これが、魚の影だというのか。何を、馬鹿な。


「馬鹿な、じゃないよ」

「口に出ていましたか」

「顔に出ているね」


 どれ、と医者は傍らの台からピンセットを取り上げる。とっさに左の瞼を押さえて、私は立ち上がった。


「し、失礼します」

「や、待ちたまえ。そんな目で、どうするっていうんだ」


 ピンセットを目の中に突っ込まれるなんて、ごめんだ。鞄をひっつかむと受付に走り出て、受付の女性に十分すぎる札を押し付けて、飛び出した。

 一体、ここは、何なのだ。本当に、眼科の医院なのか。

 振り返れば、2階の窓から、医者と受付嬢が並んでこちらを見下ろしている。鼻から上が陰になったその顔の、口元がにたりと吊り上がるのを見て、私は逃げた。


 ようやく人心地が付いて、曲がり角で立ち止まり、大きく一つ息を吐く。ゆっくりと歩きだして首を巡らせれば、いつの間にか家の近くまで帰っていた。

 ほうっともう一つ吐息を零すと、左側の風景にだけ、すいっと小さな影が過った。おや、と思い目を閉じれば、昏い瞼の裏側で雨色の魚がひらりと泳いだ。


 今朝ほどぴしゃんと水鉢から跳ねて、私の目に飛び込んだのは水の雫ではなく、魚だったか。あの黒い、亀のような影から逃げでもしたのか。

 瞼の裏の暗がりで、魚の影はゆるゆると心地よさげに泳いでいた。

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