左目に泳ぐ魚
中村ハル
第1話 金魚と亀
会社近くの、割烹料理店の軒先に据えられた水鉢に、金魚が飼われている。
水鉢は2つあり、一つには水連に似た浮き草がたっぷりと葉を広げ、その隙間からちらりと覗く水面には淡い色のメダカが泳ぐ。
もう一つの広い鉢には並々と縁いっぱいまで水が注がれ、緑の美しい金魚藻の陰に隠れて、10センチほどの朱色の金魚がゆったりとしている。
そこへ、先だっての祭りの後で、小さな金魚が7,8匹加わった。朱、赤、斑、と色々の金魚がちろちろと尾を振り泳いでいるのが愛らしい。先住の金魚はいささか窮屈そうに、金魚藻の下でじっとしていた。
今朝もいつものように通りかかると、色の薄くなった2匹が、水面近くにあった。
鱗がオレンジ色に日の光に煌めくのを不思議に思って寄ってみれば、白い腹を見せて、水の面に浮いている。鱗がぼろりと剥がれていて、何かに齧られた痕のように見える。
ああ、いけない。
と思った時、黒い影が、すいっと、水底より浮いてきた。
亀を一緒に入れたのか。
見やればそれは、黒い影ばかりが水を分けて浮いてくる。影ばかりで、形はどこにも見当たらない。
「ああ、いけない」
口から漏れ出た言葉が水鉢に落ちぬよう、慌てて口元を押さえたが、遅い。
声はきっと、水面近くに届いたのだろう。
黒い影が亀のように首をもたげて、ぐいっと長く伸び上がる。水面から、黒く細いキノコのようなモノが、ゆらりゆらりとそよぎながら、こちらに向かって伸びてくる。
慌てて、足早に水鉢の前を行き過ぎた。
それから毎日、横目で水鉢を覗くばかりで、足を止めることはよしていた。
大きな金魚は小さな居候たちに慣れたのか、ふいと尾をひらめかせて、のんびりと泳いでいる。
小さな金魚は数がいくらか少なくなっているようで、あの黒い影の所為かと、気にかかった。
ある日、水面に、黒くて丸い影が浮いていて、またあいつかと身をすくませたが、よくよく見れば、耳のあたりの赤い、小さな緑の亀である。
やはり、あの時の影は亀を見間違えたのだろうか、と首をひねった。
だとしたら、金魚と一緒に水鉢に入れるのはよくないのではなかろうか。亀は確か、肉食のはずだ。大きな先住金魚は平気としても、まだまだ身体の小さな金魚は捕食されてしまうやもしれぬ。
それになにより、水鉢では、亀の休む足場がないではないか。
気もそぞろになって、思わず立ち止まると、亀と目が合った気がした。
店主に、かけあうべきだろうか。そう考えながら、つぶらな瞳を見返した。
梅雨の空が、雨をしきりに降り零す朝、水鉢の面が賑やかだった。
誰かが注進したのだろうか、丸く小さな浮草が加えられ、亀が2匹折り重なるように葉の上で首を伸ばして休んでいる。これで金魚も隠れ場所が増えて、いくらか安心だろう。
立ち止まって覗いてみれば、4匹の小さな金魚と、大きな1匹がするすると水の中を泳いでいる。
よしよしと、屈んでさらに顔を近づけると、揺れる浮草の陰に、しゅるりと黒い何かの姿。
おや、と思う間に、小さな金魚が暴れ出し、ぴしゃんと跳ねた水が目に入った。
眼を擦って、水の中を確かめる。
黒い影は鳴りを潜めて見当たらない。
「おや。ひい、ふう、みい」
1匹いない。
灰色の斑の、とりわけ小さな金魚が、1匹、いない。先ほど、ぴしゃんと跳ねあがったのは、水ばかりではなかったか。
慌てて水鉢の周りを探したが、どこにも金魚の姿はない。
どうしたものかと立ち上がってうろうろとしてみるが、ただ時間ばかりが過ぎていく。腕の時計に目をやると、すでに遅刻ぎりぎりだ。
後ろ髪を引かれて振り返った視線の先で、水鉢からもう一方の水鉢へ、黒くひょろりとした影が、ぽちゃんと水に落ちるのが見えた。
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