第三章 猫を被らば笑顔が鎧1
シルヴィアが封印の眠りについた十五年前―――より
(目を通しておいた方がいい書類も、
自室の
今のところ近場で、瘴魔の浄化依頼は無い。日々聖女として職務に励んでいたおかげだ。会談の申しこみもなく、夕方の祈りの時間まで、ぽっかりと予定が空いていた。
日は高く
(ここのところ急に強い風が吹いたり、夏みたいな日照りになったり、天気がおかしいことが多かったけど、今日は気持ちよく晴れているわね)
こんな日は部屋に閉じこもるより、外に出て、春の空気を感じたかった。
外出を決めると、シルヴィアは
(うん、よしよし。これならバレないでしょ)
普段のシルヴィアを知る人間に見られても、簡単には気づかれない自信がある。
大きな銀青の瞳は伊達眼鏡で目立たなかったし、何より、
仕上げに、こげ茶のカツラを被り三つ編みにした。部屋を出て、扉の前に
(今日はどこに行こうかしら)
スカートを揺らし、
大陸全体では瘴魔や異常気象に苦しむ場所も多かったが、多くの
門前町へ降りるため、人気の少ない道を選び歩く。白壁と、頭上にまで葉を伸ばした植樹に挟まれた小道に出た。誰ともすれ違わないことが多い裏道だが、今日は珍しく先客がいる。
(
木の幹に寄りかかるように、小さな少年が体を丸めていた。眠っているようだが、
「ねぇ、起きて。こんなところで眠っちゃだめよ」
しゃがみこみ、少年の背を
「う……うん…………?」
ぼんやりと顔をあげた少年の額で、長めの金の前髪が揺れる。寝ぼけ眼をこする少年の表情は愛らしく、少女と見まがうほど
(わぁ、かわいい子。でも頬のがさがさした汚れって、これ、たぶん涙の
今いるのは人通りが少ない、やや入り組んだ場所だ。ひょっとして迷子で、帰り道がわからなくなってしまったのだろうか。心配になり、少年に尋ねることにした。
「君、大丈夫? 近くにお母さんはいる?」
「……母は、いません。持病が悪くなって死んでしまったと、国から手紙が届きました」
沈んだ声で言い、少年は顔を
(悪いこと聞いちゃったわ。この様子じゃ、母親の死に目に立ち会うこともできなかったのね……。この子、他の国から留学にやってきているのかしら?)
多くの祝片の子を
少年は自由に帰国することもできず、最後に母の姿を見ることも叶わなかったのだ。
「……
「……ありがとうございます」
涙をこらえるように、少年は深くうつむいた。
(人前で、涙を見せることもできないのね)
やせ
ここは少年にとって異国で、心を許せる人間もいないのだろう。だからこそ隠れるようにして泣き、疲れて眠り込んでしまっていたのだ。
よく少年を観察すると、首筋や腕に擦り傷が走り、青あざらしきものが浮かんでいた。
(この国に
子供というのは往々にして、異物の存在に敏感で
ありふれた話だが、実際に
「……ねぇ君、今から少し、時間はあるかしら?」
「……僕に、何か用なんですか?」
「一緒に、お母さんの好きだった花を買いに行かない?」
「花を? でも、ここで買っても、国に帰ってお墓に
「知り合いに、ドライフラワーを作るのが得意な人がいるの。彼女に頼めば、形を保ったまま運んで、お母さんのお墓に供えることもできるわ」
「……いらないです、花なら、帰国してから用意すればいいですから」
「えぇ、もちろん、国に帰ってから
「僕のため?」
きょとんとした顔で、少年が首を
「お母さんが好きだった花を身近に置けば、お母さんを思うよりどころになるわ。悲しくて泣きたくなったら、その花の前でだけ泣くようにするのよ」
故人を
シルヴィアが聖女として
彼らは故人の形見や好きだった花を手元に置くことで、耐え難い
「…………変なお姉さん。どうして、知り合いでもない僕に構うんですか?」
「私も昔、似たような思いをしたからよ」
頼れる相手も無く、人知れず泣くしかできない姿に、かつての自分が重なってしまうのだ。
(ハーヴェイ様のように、この子の面倒をずっと見ることは私にはできない。でも、この子が母親の死から立ち直る手助けを、少しでもできたらいいわ)
少年の手を取り立ち上がらせる。肌は冷たく、ぬくもりを失った体温が痛々しい。
「ほら、まずは何か温かいものでも食べに行きましょう。しばらくこの国にいるなら、美味しいお店を知っておくと役に立つわ」
「……あなたは、やっぱり変な人です」
「変? 私のどこが?」
「情けなく泣くくらいなら、国に帰れとは言わないんですね」
「大切な人がいなくなったら、涙が出るのが自然よ。それに君は、自分から帰りたいとは、一言も口にしなかったわ。だから私も、君の選択を
少年はまだ幼いが、それでも
少年の背負う事情や思いまではわからなかったが、無責任な言葉でその決意を揺るがせることは、ただ少年を苦しめるだけだ。
(部外者である私ができることと言ったら、ほんの少し、気を
少年の手を
「さ、行きましょう。そういえば君、名前はなんていうのかしら?」
「僕の名前は―――――っ」
名を言おうとし、少年の声が小さく
「……教えたく、ないです。情けないところを見られちゃいましたから……」
「そう…………」
小さくとも、男としての意地があるのだろうか。
(ま、それならそれでいいけどね。ドライフラワーがあれば、また会えるだろうし)
ドライフラワーの話を持ち出したのは、乾燥させたドライフラワーを手渡すことを口実に、今後少年の様子を見に来るためだ。
「わかったわ。でも、ドライフラワーはすぐには出来上がらないから、もう一度会う必要があるの。それまでは、今日買う花の何輪かを、君の部屋の
「大丈夫です。ドライフラワーが完成したら、僕が取りに行けばいいですか?」
「十日後の夕方の
「その時間なら大丈夫です。よろしくお願いしますね」
少年が頭を下げると、金色の髪がさらりと揺れる。ちょうどいい位置にある頭を
「や、やめてください。そんなことしたら…………」
「したら?」
「な、なんでもありませんっ!! それよりお姉さんのこと、なんて呼べばいいですか? 名前を教えてくれないと困ります!!」
「私の名前は…………」
思わずつまり、言いよどむ。
今まで、お忍び先の店で立ち話をすることはあっても、深く誰かと関わり、
「…………私のことは、リーザと呼んでちょうだい」
(ハーヴェイ様以外に、このあたりで昔の名前を知っている人はいないし、そもそも変装してるんだから、私が聖女であることがばれることはないわ)
そう割り切ると、誤魔化すように少年の腕を引っ張った。
「体が冷えちゃうし、早く温かいものを食べに行きましょう」
「わ、そんなに引っ張らないでください!! 危ないです!!」
「ちゃっちゃと歩いて行くわよ。
前を見て、少年を連れて歩き出そうとしたところ、反対に強い力で引き戻される。
たたらを踏んで後方に倒れこむと、何か固いものに頭をぶつけてしまった。
「痛っ!! ちょっ、何するのよ!?」
「危ないと言っただろう?」
耳にかかるのは、澄んだ少年の声とは似ても似つかない、
シルヴィアを背後から抱き留めた男は、皮肉げな笑い声をあげた。
「無理に引っ張るから、そうやって転びそうになるんだ、うたたね聖女様」
「っ!! 誰がうたたね聖女よっ!? っていうかなんで―――――――――」
★★★
「なんでアシュナード、あんたがそこにいるのよ―――――!?」
心からの叫びをあげ、シルヴィアは跳ね起きた。
心臓の鼓動が
カーテン越しに差し込む朝日に眼をしばたたかせ、シルヴィアは枕へと顔をうずめた。
(途中までは懐かしい思い出だったのに、どうして最後にあの男が乱入してくるのよ!?)
どうやらまだ朝も早いようで、部屋に侍女の姿は無い。寝言を聞かれなかったのは幸いだが、夢見は最悪だ。
(あーもう最っ悪。『ラナン君』と全然関係ないんだし、夢の中にまで出てこないでほしいわ)
『ラナン君』というのは、かつて母を亡くし泣いていた少年のあだ名だ。あだ名の由来は、彼がドライフラワーにするよう頼んできたのが、薄紅色のラナンキュラスだったから。心優しく繊細な彼と、
(今はあの子、どうしてるんだろ)
彼と最後に会ってから、もう十五年。美少女顔負けの
(そろそろ結婚して、子供がいてもおかしくない年よね)
いずれ余裕ができたら、彼の本名と現在地を調べ、こっそり姿を見に行きたい。
(そのためにも、早く瘴魔の再出現について解決しないとね……)
今日は、約束通り、アシュナードと帝都近郊の教会へ『吹き溜まり』を調査しに行く日だ。
あれから三日が過ぎたが、今のところ城内に、あらたな瘴魔の気配はない。瘴魔の出現は一般には伏せられたままであり、教会への訪問もひっそりとしたものになる。
シルヴィアが朝食後に
馬車は外装こそ簡素だったが、座席にはふんだんに綿が使われており、座り心地がいい。御者の腕も一流のようで、揺れも小さく、滑らかに窓外の景色が流れていった。
帝都を出て道なりに少し走ると、なだらかな丘の向こうから、目的地の教会の屋根が見えてくる。神の祝福をあらわす
(…………ボロいわね)
教会の裏手には、かつて瘴魔が湧き出て危険だった『吹き溜まり』があるため、あたりに人家は無く、
馬車から降り、アシュナードと二人で教会の入り口へと向かうと、泥に汚れた女が歩み寄ってきた。どうやら近くの農地で作業を行っていたところを、わざわざやってきたらしい。
「おや、えらくべっぴんなお
「えぇ、そのようなものですわ」
正体を告げて
「教会に用事ってことは、神官様たちに相談事かい? 止めはしないが、
「騙される、とは?」
「ここの教会の神官様は今のとこ悪い人じゃないけど、いつ心変わりするかわからないからね。カモにならないよう気をつけなよ」
女は言い捨てると、忠告は終わったとばかりに、農作業へと戻って行ってしまった。
「どういうことですの…………?」
「おい、ぼやぼやするな。さっさと教会に入って用事を済ませるぞ」
「もう、待ってくださいませ」
置いて行かれまいとアシュナードの後を追い、教会の建物へと入る。
「すみません、少し奥の方で作業をしていまして、どなたです―――――って、聖女様っ!?」
「あら、パリス様ではないですか。ごきげんよう、
「私の方こそ、シルヴィア様のご
パリスの背中に、ちぎれんばかりに振られる犬の尾が見える気がする。
顔を
「お久しぶりです。帝国に来られていると聞いていましたが、ここの教会つきの神官となったのですか?」
「はい。元々、私は教国本国で働く前は、この教会にいましたから、古巣なんです」
パリスは答えると、疑問符を浮かべシルヴィアを見た。
「ところでシルヴィア様は、出歩いても大丈夫なのですか? しばらく
「えぇ、もう大丈夫ですわ。ご心配をおかけしてすみません」
不安そうにこちらを見るパリスに、罪悪感がうずく。臥せっていたのはアシュナードの流した偽情報だが、
「そんな、おやめください。シルヴィア様が謝られることなんて何もありません」
「いえ、こちらの気持ちの問題ですから……。ところで、この教会に、他に働いていらっしゃる方はおられないのでしょうか?」
「
「一人だけで、教会が回せているのですか?」
「はい、苦しいですがなんとか……。シルヴィア様のご
今は瘴魔が消え、瘴魔浄化の
金が無く、人が雇えず、建物の修理保全にまで手が回らないのが見て取れた。
(私が封印の儀を行ってから、まだ十五年。いえ、もう十五年もたったんだもの。瘴魔の被害を直接受けことが無くなれば、教会や教国にお金を投じるような人間もいなくなるわよね)
予想していた話だが、うらぶれた教会を目の当たりにすると、やはり
「シルヴィア様、どうかそのようにお顔を
「赤髪の聖女?」
「はい。本物の聖女であるシルヴィア様からすれば、紛らわしくご不快かもしれませんが、昔この教会にいた祝片の子の女性のことを、このあたりではそう呼んでいるのです」
「今は、その方はどちらに?」
「十六年前に、亡くなりました。この教会の監視していた『吹き溜まり』で、瘴魔の大量発生があり、それを
「そうでしたの……」
祝片の子が力を使いすぎると、反動で全身を
「赤髪の聖女様は、本当に素晴らしい方でした。彼女の
苦笑したパリスの瞳には、隠しきれない切なさが宿っている。
(パリスはアシュナード陛下より少し年上くらいみたいだし、十六年前は十歳くらいかしら)
子供の頃に抱いた
「辛いことを思い出させてすみません。パリス様にとっても、その方は大切な人だったんですね」
「はい。当時神官見習いだった私にも、赤髪の聖女様はとても優しくしてくれました。だからこそ、少しでも恩を返し
「……きっと赤髪の聖女様も、天の御園でパリス様の勤労を喜ばれていると思います」
「シルヴィア様、なんてお優しいお言葉を……」
(私に対する敬意がすごいと思ってたけど、『瘴魔退治のために身を
初対面から熱烈な
「ここは、パリス様にとって
「三年前に教国本国に呼び戻されるまで、この教会で前任神官と一緒に暮らしていました。そして半年ほど前、前任神官の方が老齢になったため、私が
「そういうことでしたの。それで帝国に向かう時期が一致したため、私の嫁入りに
「はい。帝国でまたシルヴィア様とお会いできるなんて、身に余る幸運です」
「私の方こそ、嫁ぎ先で
「えぇ、前任者から引継ぎ作業を行い、少しだけ落ち着いてきたところでした」
「前任者の方から、何か注意点などについて告げられていますか?」
「注意点、ですか……? 引継ぎ後の心得や雑務についてはご指導いただきましたが、シルヴィア様にお告げするような特別な点は無いと思いますが……」
「不審者や山犬が出没するとか、そういった注意はありませんでしたか?」
「森から山犬が下りてくることは数年に一度ありますが、それくらいですね。何かこの教会に、問題となる点があるのでしょうか?」
不安げなパリスに、ここが潮時と悟る。
瘴魔の再出現を公にできない以上、
「いいえ、そんなことはありませんわ。ただ、教会の引継ぎ業務がどのように行われるものか、気になったのです。答えにくい質問をしてしまいすみませんわ」
「そうだったのですか。でしたら、あとで引継ぎの際に渡された資料を、そちらにもお送りしましょうか?」
「まぁ、ありがとうございます」
「いえいえ、その程度お安い御用です。他に何か、気になる点はございますか?」
「では、この教会の管理する、『吹き溜まり』を見学させてもらってもいいでしょうか?」
「『吹き溜まり』を? 大丈夫ですが、何のためでしょうか?」
「ちょっとした好奇心です。私が行った封印の儀がどれほど効果を表したのかを、実際にこの目で確かめてみたいのです」
「もしかして、今日はそのためにいらしたのですか?」
「えぇ、そうです。体調が戻ってきましたので、気になっていた『吹き溜まり』のあるこちらに、お
「なるほど、でしたら『吹き溜まり』を囲む壁の
祭壇横の扉を開けると、パリスは奥へと引っ込み、
パリスの先導のもと、教会の裏手にそびえる壁へと向かう。
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次回は【2018年8月24日(金)更新予定】
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