第三章 猫を被らば笑顔が鎧1


 

 シルヴィアが封印の眠りについた十五年前―――よりさらに一年ほど時をさかのぼった日のある昼下がりのこと。彼女はめずらしくひまを持て余していた。

(目を通しておいた方がいい書類も、瘴魔しようま浄化じようかの予定もないし、どうしようかしら)

 自室の文机ふづくえ頬杖ほおづえをつき、何かやるべきことがないかと確認する。

 今のところ近場で、瘴魔の浄化依頼は無い。日々聖女として職務に励んでいたおかげだ。会談の申しこみもなく、夕方の祈りの時間まで、ぽっかりと予定が空いていた。

 日は高くうららかで、開け放された窓から、柔らかな春の風が吹き込んでいる。

(ここのところ急に強い風が吹いたり、夏みたいな日照りになったり、天気がおかしいことが多かったけど、今日は気持ちよく晴れているわね)

 こんな日は部屋に閉じこもるより、外に出て、春の空気を感じたかった。

 外出を決めると、シルヴィアは衣装櫃いしようびつの奥から、簡素な若草色のエプロンドレスを取り出した。すその長い聖女の仕事着から着替え、襟元えりもとを整える。金のかみを頭頂部に巻き付けるようにしてまとめ、部屋のすみに置かれた洗面器で顔を洗い、鏡台へと座る。いつもは聖女らしく、神秘的かつ清楚せいそな印象を演出するよう化粧をほどこしていたが、今はその逆。頬紅ほおべには血色良く見える赤味の強いもの。目元はおさなさを強調するように。鼻の周囲にそばかす風の化粧を散らし、分厚い硝子ダラス伊達眼鏡だてめがねをかけ、鏡で出来上がりを確認した。

(うん、よしよし。これならバレないでしょ)

 普段のシルヴィアを知る人間に見られても、簡単には気づかれない自信がある。

 大きな銀青の瞳は伊達眼鏡で目立たなかったし、何より、溌溂はつらつとして活発そうな表情―――いつも被っている特大の猫を外したシルヴィアの雰囲気は、別人と言って差しつかえない。

 仕上げに、こげ茶のカツラを被り三つ編みにした。部屋を出て、扉の前にひかえていた妙齢みようれいの女神官に、夕方までには帰ると告げておく。女神官は養父ハーヴェイと旧知であり、シルヴィアのお忍びにも目こぼしをしてくれていた。

(今日はどこに行こうかしら)

 スカートを揺らし、かろやかな足取りで歩き始める。

 素朴そぼくな年頃の娘にしか見えないその姿に、特別な注意を払う人間はいない。聖女として人々の注目を浴びるシルヴィアにとって、羽を伸ばせる時間は貴重だ。あまり目立つことはできないが、こっそり町へ行き、買い食いをし市場を回ることはできる。

 大陸全体では瘴魔や異常気象に苦しむ場所も多かったが、多くの祝片しゆくへんの子をかかえる教国は瘴魔退治による褒賞ほうしよううるおい、生活水準が維持いじされている。比較的ひかくてき治安も良く、日の出ている間であれば、女の一人歩きでも問題は起きなかった。

 門前町へ降りるため、人気の少ない道を選び歩く。白壁と、頭上にまで葉を伸ばした植樹に挟まれた小道に出た。誰ともすれ違わないことが多い裏道だが、今日は珍しく先客がいる。

金髪きんぱつの、男の子……?)

 木の幹に寄りかかるように、小さな少年が体を丸めていた。眠っているようだが、木陰こかげの空気はひんやりと冷たい。放置しては風邪かぜを引いてしまうかもしれなかった。

「ねぇ、起きて。こんなところで眠っちゃだめよ」

 しゃがみこみ、少年の背をたたく。

「う……うん…………?」

 ぼんやりと顔をあげた少年の額で、長めの金の前髪が揺れる。寝ぼけ眼をこする少年の表情は愛らしく、少女と見まがうほど繊細せんさいだ。

(わぁ、かわいい子。でも頬のがさがさした汚れって、これ、たぶん涙のあとよね。泣きつかれて眠ってしまったのかしら?)

 今いるのは人通りが少ない、やや入り組んだ場所だ。ひょっとして迷子で、帰り道がわからなくなってしまったのだろうか。心配になり、少年に尋ねることにした。

「君、大丈夫? 近くにお母さんはいる?」

「……母は、いません。持病が悪くなって死んでしまったと、国から手紙が届きました」

 沈んだ声で言い、少年は顔をそむけた。くちびるみ感情をこらえる姿に、胸が痛んだ。

(悪いこと聞いちゃったわ。この様子じゃ、母親の死に目に立ち会うこともできなかったのね……。この子、他の国から留学にやってきているのかしら?)

 多くの祝片の子をかかえる教国は、瘴魔に悩まされる国々にとって、欠くことのできない存在だ。他国は教国とのつながりを深めるため、留学の名目で、自国の青少年を教国に送ることが多かった。留学生の多くは十代後半から二十代半ばの青少年だったが、時として目の前の少年のような、十前後の幼い子供が派遣はけんされることもあった。

 少年は自由に帰国することもできず、最後に母の姿を見ることも叶わなかったのだ。

「……くなられたお母さんが、天の御園みそので安らげることを」

「……ありがとうございます」

 涙をこらえるように、少年は深くうつむいた。

(人前で、涙を見せることもできないのね)

 やせ我慢がまんだ。だが強がっていないと、自分を保てないのかもしれなかった。

 ここは少年にとって異国で、心を許せる人間もいないのだろう。だからこそ隠れるようにして泣き、疲れて眠り込んでしまっていたのだ。

 よく少年を観察すると、首筋や腕に擦り傷が走り、青あざらしきものが浮かんでいた。

(この国に馴染なじめず、周りの子たちに虐められているのかしら)

 子供というのは往々にして、異物の存在に敏感で容赦ようしやがないものだ。

 ありふれた話だが、実際に遭遇そうぐうすると、ただ見ているだけというのは心苦しかった。

「……ねぇ君、今から少し、時間はあるかしら?」

「……僕に、何か用なんですか?」

「一緒に、お母さんの好きだった花を買いに行かない?」

「花を? でも、ここで買っても、国に帰ってお墓にそなえる頃には枯れてしまいます」

「知り合いに、ドライフラワーを作るのが得意な人がいるの。彼女に頼めば、形を保ったまま運んで、お母さんのお墓に供えることもできるわ」

「……いらないです、花なら、帰国してから用意すればいいですから」

「えぇ、もちろん、国に帰ってから瑞々みずみずしい花を買うのもいいわ。でも、今から買いに行く花は、君のためのものよ」

「僕のため?」

 きょとんとした顔で、少年が首をかしげた。

「お母さんが好きだった花を身近に置けば、お母さんを思うよりどころになるわ。悲しくて泣きたくなったら、その花の前でだけ泣くようにするのよ」

 故人をしのぶ品物をよすがとして、明日に向かうしかない時もある。

 シルヴィアが聖女としておもむいた村では、瘴魔に襲われ、家族を亡くした人間が何人もいた。

 彼らは故人の形見や好きだった花を手元に置くことで、耐え難い喪失そうしつやわらげようとしていた。花一輪とはいえ、少しでも少年の悲しみの支えになればいいと思う。

「…………変なお姉さん。どうして、知り合いでもない僕に構うんですか?」

「私も昔、似たような思いをしたからよ」

 頼れる相手も無く、人知れず泣くしかできない姿に、かつての自分が重なってしまうのだ。

(ハーヴェイ様のように、この子の面倒をずっと見ることは私にはできない。でも、この子が母親の死から立ち直る手助けを、少しでもできたらいいわ)

 無駄むだなお節介せつかいかもしれないが、放っておくことはできない。

 少年の手を取り立ち上がらせる。肌は冷たく、ぬくもりを失った体温が痛々しい。

「ほら、まずは何か温かいものでも食べに行きましょう。しばらくこの国にいるなら、美味しいお店を知っておくと役に立つわ」

「……あなたは、やっぱり変な人です」

「変? 私のどこが?」

「情けなく泣くくらいなら、国に帰れとは言わないんですね」

「大切な人がいなくなったら、涙が出るのが自然よ。それに君は、自分から帰りたいとは、一言も口にしなかったわ。だから私も、君の選択を否定ひていしたくはないの」

 少年はまだ幼いが、それでもみずからの意志で、この国に留まることを選んだのだ。

 少年の背負う事情や思いまではわからなかったが、無責任な言葉でその決意を揺るがせることは、ただ少年を苦しめるだけだ。

(部外者である私ができることと言ったら、ほんの少し、気をまぎらわせることくらいだもの)

 少年の手をにぎりこむ。すると、おずおずと少年も握り返してきた。

「さ、行きましょう。そういえば君、名前はなんていうのかしら?」

「僕の名前は―――――っ」

 名を言おうとし、少年の声が小さくき消える。どうしたのかと顔をのぞきこむと、気まずそうに金の瞳をそらされてしまった。

「……教えたく、ないです。情けないところを見られちゃいましたから……」

「そう…………」

 小さくとも、男としての意地があるのだろうか。

(ま、それならそれでいいけどね。ドライフラワーがあれば、また会えるだろうし)

 ドライフラワーの話を持ち出したのは、乾燥させたドライフラワーを手渡すことを口実に、今後少年の様子を見に来るためだ。

「わかったわ。でも、ドライフラワーはすぐには出来上がらないから、もう一度会う必要があるの。それまでは、今日買う花の何輪かを、君の部屋の花瓶かびんに生けておくということでいい?」

「大丈夫です。ドライフラワーが完成したら、僕が取りに行けばいいですか?」 

「十日後の夕方のかねが鳴るころに、一度ここに来てもらえる? 天候が良ければ乾燥が終わっているはずだし、そうじゃなくても、完成までの目途めどはたっているはずよ」

「その時間なら大丈夫です。よろしくお願いしますね」

 少年が頭を下げると、金色の髪がさらりと揺れる。ちょうどいい位置にある頭をでようとすると、あわてたように顔をあげられてしまった。

「や、やめてください。そんなことしたら…………」

「したら?」

「な、なんでもありませんっ!! それよりお姉さんのこと、なんて呼べばいいですか? 名前を教えてくれないと困ります!!」

「私の名前は…………」

 思わずつまり、言いよどむ。

 今まで、お忍び先の店で立ち話をすることはあっても、深く誰かと関わり、自己紹介じこしようかいが必要になるような場は回避かいひしていた。だからといって今回も名乗りをけては、せっかく心を開きかけた少年に、不信感をいだかせてしまうかもしれない。

「…………私のことは、リーザと呼んでちょうだい」

 咄嗟とつさに出てきたのは、シルヴィアがシルヴィアになる前の名前――――顔も見たことも無い両親が付けてくれた、かつて捨てた名だった。

(ハーヴェイ様以外に、このあたりで昔の名前を知っている人はいないし、そもそも変装してるんだから、私が聖女であることがばれることはないわ)

 そう割り切ると、誤魔化すように少年の腕を引っ張った。

「体が冷えちゃうし、早く温かいものを食べに行きましょう」

「わ、そんなに引っ張らないでください!! 危ないです!!」

「ちゃっちゃと歩いて行くわよ。美味おいしいものをお腹にいれれば――――きゃっ!?」

 前を見て、少年を連れて歩き出そうとしたところ、反対に強い力で引き戻される。

 たたらを踏んで後方に倒れこむと、何か固いものに頭をぶつけてしまった。

「痛っ!! ちょっ、何するのよ!?」

「危ないと言っただろう?」

 耳にかかるのは、澄んだ少年の声とは似ても似つかない、つややかで深い男の声。

 シルヴィアを背後から抱き留めた男は、皮肉げな笑い声をあげた。

「無理に引っ張るから、そうやって転びそうになるんだ、うたたね聖女様」

「っ!! 誰がうたたね聖女よっ!? っていうかなんで―――――――――」


★★★


「なんでアシュナード、あんたがそこにいるのよ―――――!?」

 心からの叫びをあげ、シルヴィアは跳ね起きた。

 心臓の鼓動が不穏ふおんに速まり、つかんだシーツには、強くしわが寄っている。

 カーテン越しに差し込む朝日に眼をしばたたかせ、シルヴィアは枕へと顔をうずめた。

(途中までは懐かしい思い出だったのに、どうして最後にあの男が乱入してくるのよ!?)

 どうやらまだ朝も早いようで、部屋に侍女の姿は無い。寝言を聞かれなかったのは幸いだが、夢見は最悪だ。さわやかな朝なのに、全くもって爽やかではないアシュナードの姿と共に一日が始まるなんて、ついていないにもほどがある。

(あーもう最っ悪。『ラナン君』と全然関係ないんだし、夢の中にまで出てこないでほしいわ)

『ラナン君』というのは、かつて母を亡くし泣いていた少年のあだ名だ。あだ名の由来は、彼がドライフラワーにするよう頼んできたのが、薄紅色のラナンキュラスだったから。心優しく繊細な彼と、傲慢ごうまんきわまりないアシュナードの共通点といったら、虹彩の色が金であることくらいだ。

(今はあの子、どうしてるんだろ)

 彼と最後に会ってから、もう十五年。美少女顔負けの可愛かわいらしい目鼻立ちをしていたから、順当に年齢を重ねていれば、中性的な美青年に成長しているはずだ。

(そろそろ結婚して、子供がいてもおかしくない年よね)

 いずれ余裕ができたら、彼の本名と現在地を調べ、こっそり姿を見に行きたい。

(そのためにも、早く瘴魔の再出現について解決しないとね……)

 今日は、約束通り、アシュナードと帝都近郊の教会へ『吹き溜まり』を調査しに行く日だ。

 あれから三日が過ぎたが、今のところ城内に、あらたな瘴魔の気配はない。瘴魔の出現は一般には伏せられたままであり、教会への訪問もひっそりとしたものになる。

 シルヴィアが朝食後にそでを通したドレスも、それを受け落ち着いた意匠いしようのものだ。光沢こうたくを抑えた臙脂えんじの生地に、前身ごろと袖口に並ぶ金のボタン。髪はゆるく編み込みを入れて背中に流し、紺色のリボンで胸元を飾っていた。

 身支度みじたくを整え向かうのは正面玄関では無く、城の裏出口だ。馬車へ乗り込みドレスの裾を直していると、こちらも略式礼装のアシュナードが乗り込んでくる。

 馬車は外装こそ簡素だったが、座席にはふんだんに綿が使われており、座り心地がいい。御者の腕も一流のようで、揺れも小さく、滑らかに窓外の景色が流れていった。

 帝都を出て道なりに少し走ると、なだらかな丘の向こうから、目的地の教会の屋根が見えてくる。神の祝福をあらわす尖塔せんとうは目立ち、遠くからの目印にもなるのだが―――――

(…………ボロいわね)

 かわらはところどころ塗料とりようが落ち、あちこちに蔓草つるくさが巻き付いている。尖塔の壁部分も、ところどころ漆喰しつくいげてしまっており、手入れが行き届いていないのが見て取れた。

 教会の裏手には、かつて瘴魔が湧き出て危険だった『吹き溜まり』があるため、あたりに人家は無く、あぜで仕切られた畑が広がるだけの、うらさびれた一帯だ。

 馬車から降り、アシュナードと二人で教会の入り口へと向かうと、泥に汚れた女が歩み寄ってきた。どうやら近くの農地で作業を行っていたところを、わざわざやってきたらしい。

「おや、えらくべっぴんなおじようちゃんだが、貴族様かい?」

「えぇ、そのようなものですわ」

 正体を告げてさわぎになるのも面倒なため、曖昧あいまい微笑ほほえんでおくことにする。

「教会に用事ってことは、神官様たちに相談事かい? 止めはしないが、だまされないようにしなよ?」

「騙される、とは?」

「ここの教会の神官様は今のとこ悪い人じゃないけど、いつ心変わりするかわからないからね。カモにならないよう気をつけなよ」

 女は言い捨てると、忠告は終わったとばかりに、農作業へと戻って行ってしまった。

「どういうことですの…………?」

「おい、ぼやぼやするな。さっさと教会に入って用事を済ませるぞ」

「もう、待ってくださいませ」

 置いて行かれまいとアシュナードの後を追い、教会の建物へと入る。

 天井てんじようは高く、窓からの光が美しく差し込んでいるが、視線を下へと向けると、床も祭壇さいだんも全体的に薄汚れ、ほこりがたまってしまっている。外壁と同じくどこかみすぼらしい堂内を見ていると、祭壇の隣に設けられた扉から、足音が近づいてきた。

「すみません、少し奥の方で作業をしていまして、どなたです―――――って、聖女様っ!?」

「あら、パリス様ではないですか。ごきげんよう、奇遇きぐうですね」

「私の方こそ、シルヴィア様のご尊顔そんがんを拝見できて幸いですっ!」

 パリスの背中に、ちぎれんばかりに振られる犬の尾が見える気がする。

 顔をかがやかせた彼に、シルヴィアも楚々そそとした笑みを浮かべた。

「お久しぶりです。帝国に来られていると聞いていましたが、ここの教会つきの神官となったのですか?」

「はい。元々、私は教国本国で働く前は、この教会にいましたから、古巣なんです」

 パリスは答えると、疑問符を浮かべシルヴィアを見た。

「ところでシルヴィア様は、出歩いても大丈夫なのですか? しばらくせっていたと聞いていたのですが、お加減はよろしいのでしょうか?」

「えぇ、もう大丈夫ですわ。ご心配をおかけしてすみません」

 不安そうにこちらを見るパリスに、罪悪感がうずく。臥せっていたのはアシュナードの流した偽情報だが、今更いまさらし返し、否定するわけにもいかなかった。

「そんな、おやめください。シルヴィア様が謝られることなんて何もありません」

「いえ、こちらの気持ちの問題ですから……。ところで、この教会に、他に働いていらっしゃる方はおられないのでしょうか?」

つとめているのは私一人です。おずかしい話ですが、人をやとおうにも予算がなくて……」

「一人だけで、教会が回せているのですか?」

「はい、苦しいですがなんとか……。シルヴィア様のご活躍かつやくなさっていた十五年前までと違って、今は瘴魔退治の依頼はありませんし、毎日の日課は朝夕の礼拝くらいですから」

 今は瘴魔が消え、瘴魔浄化の報酬ほうしゆうも消えたため、金銭的に困窮こんきゆうしているのだろう。

 金が無く、人が雇えず、建物の修理保全にまで手が回らないのが見て取れた。

(私が封印の儀を行ってから、まだ十五年。いえ、もう十五年もたったんだもの。瘴魔の被害を直接受けことが無くなれば、教会や教国にお金を投じるような人間もいなくなるわよね)

 予想していた話だが、うらぶれた教会を目の当たりにすると、やはり世知辛せちがらいものがある。

「シルヴィア様、どうかそのようにお顔をくもらせないでください。これでも、この教会はまだよい方です。何と言っても、赤髪の聖女様の存在がありますから」

「赤髪の聖女?」

「はい。本物の聖女であるシルヴィア様からすれば、紛らわしくご不快かもしれませんが、昔この教会にいた祝片の子の女性のことを、このあたりではそう呼んでいるのです」

「今は、その方はどちらに?」

「十六年前に、亡くなりました。この教会の監視していた『吹き溜まり』で、瘴魔の大量発生があり、それをしずめるために力を使いすぎ、衰弱すいじやくされ亡くなられてしまいました」

「そうでしたの……」

 祝片の子が力を使いすぎると、反動で全身を倦怠感けんたいかんが襲う。限界を超え力を使い続ければ体力が落ち、ささいな怪我けが風邪かぜでも寝たきりになり、命を落としてしまうことさえある。シルヴィアが封印の儀の後に眠り続けたのも、これと類似した現象と推測されていた。

「赤髪の聖女様は、本当に素晴らしい方でした。彼女の献身けんしんがあったからこそ、この辺りでは私たち教会に対する当たりも柔らかかったのですが、やはり時の流れにはあらがえませんね……」

 苦笑したパリスの瞳には、隠しきれない切なさが宿っている。

(パリスはアシュナード陛下より少し年上くらいみたいだし、十六年前は十歳くらいかしら)

 子供の頃に抱いた思慕しぼの念とあこがれを、どうやら今も抱えているらしかった。

「辛いことを思い出させてすみません。パリス様にとっても、その方は大切な人だったんですね」

「はい。当時神官見習いだった私にも、赤髪の聖女様はとても優しくしてくれました。だからこそ、少しでも恩を返しとむらいにしようと、赤髪の聖女様のじゆんじられたこの地で働かせてもらっています」

「……きっと赤髪の聖女様も、天の御園でパリス様の勤労を喜ばれていると思います」

「シルヴィア様、なんてお優しいお言葉を……」

 神妙しんみような雰囲気から一転、感極まったようにつぶやくパリスに、シルヴィアは微笑んだ。

(私に対する敬意がすごいと思ってたけど、『瘴魔退治のために身をささげた女性』として、赤髪の聖女様と重ね合わせて見ていたのね)

 初対面から熱烈な崇拝者すうはいしやとして振る舞っていたパリスに合点がてんがいき、すっきりとする。

「ここは、パリス様にとってえんが深い教会なんですね。どれくらいの間、こちらで働かれているんですか?」

「三年前に教国本国に呼び戻されるまで、この教会で前任神官と一緒に暮らしていました。そして半年ほど前、前任神官の方が老齢になったため、私が派遣はけんされることが決定したのです」

「そういうことでしたの。それで帝国に向かう時期が一致したため、私の嫁入りに随行ずいこうして、こちらに赴任ふにんしてきたということですのね」

「はい。帝国でまたシルヴィア様とお会いできるなんて、身に余る幸運です」

「私の方こそ、嫁ぎ先で知己ちきを得られて幸いですわ。パリス様は、私とともに帝都入りしたあとは、ずっとこの教会にいらっしゃったのですか?」

「えぇ、前任者から引継ぎ作業を行い、少しだけ落ち着いてきたところでした」

「前任者の方から、何か注意点などについて告げられていますか?」

「注意点、ですか……? 引継ぎ後の心得や雑務についてはご指導いただきましたが、シルヴィア様にお告げするような特別な点は無いと思いますが……」

「不審者や山犬が出没するとか、そういった注意はありませんでしたか?」

「森から山犬が下りてくることは数年に一度ありますが、それくらいですね。何かこの教会に、問題となる点があるのでしょうか?」

 不安げなパリスに、ここが潮時と悟る。

 瘴魔の再出現を公にできない以上、下手へたさぐりを入れれば藪蛇やぶへびになるだけだ。

「いいえ、そんなことはありませんわ。ただ、教会の引継ぎ業務がどのように行われるものか、気になったのです。答えにくい質問をしてしまいすみませんわ」

「そうだったのですか。でしたら、あとで引継ぎの際に渡された資料を、そちらにもお送りしましょうか?」

「まぁ、ありがとうございます」

「いえいえ、その程度お安い御用です。他に何か、気になる点はございますか?」

「では、この教会の管理する、『吹き溜まり』を見学させてもらってもいいでしょうか?」

「『吹き溜まり』を? 大丈夫ですが、何のためでしょうか?」

「ちょっとした好奇心です。私が行った封印の儀がどれほど効果を表したのかを、実際にこの目で確かめてみたいのです」

「もしかして、今日はそのためにいらしたのですか?」

「えぇ、そうです。体調が戻ってきましたので、気になっていた『吹き溜まり』のあるこちらに、お邪魔じやまさせてもらいましたの」

「なるほど、でしたら『吹き溜まり』を囲む壁のかぎを取ってきますので、お待ちください」

 祭壇横の扉を開けると、パリスは奥へと引っ込み、さびの浮いた真鍮しんちゆうの鍵をぶら下げてきた。

 パリスの先導のもと、教会の裏手にそびえる壁へと向かう。



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次回は【2018年8月24日(金)更新予定】

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