第二章 薔薇色ならざる新婚生活1
政略結婚ということは理解していたし、愛情も期待していなかった。
甘い新婚生活を夢見ることなどなく、夫とのすれ違いも予想済みとはいえ―――――
「二十日以上も顔を見せないって、夫というより人間としてどうよ?」
与えられた居室で、一人きりのシルヴィアは
アシュナードの妻となるため、帝国の帝都ヴァイスブルグにやってきたのが二十二日前。
そしてその翌日に、自室へと案内された時が、アシュナードと顔をあわせた最後だった。寝室は別、食事の相席も多忙を理由に断られている。ならば、アシュナードの妻として付き添おうと
「おかげで、もうハーヴェイ様にもらった本も読みつくしちゃったじゃない」
シルヴィアは手にしていた書物を机におくと、一つ大きく伸びをする。
結局あの後、しっかりとハーヴェイと話す時間は持てないまま、帝国へと来てしまった。
帝国に到着し、知識を整理する時間ができたのは幸いだったが、現状は
得た知識をまとめると、シルヴィアには妻として、女としての役割は一切求められていないらしい。妻として選ばれた理由は聖女の名でアシュナードに
(まぁ、それで私が目を覚ましちゃったのは、向こうも予想外だったんだろうけど……)
だからといって、同情することはできなかった。
シルヴィアの自由意志など必要としていないアシュナードは、シルヴィアを人形扱いし、自由を認めなかった。シルヴィアの体調を
(……世界から
この状態が何か月も続くようなら、教国から正式に
シルヴィアは何度目かわからないため息をつくと、ドレスの
そろそろ、毎日アシュナードに出している言伝の返信を、
「――――シルヴィア様、陛下からお言葉を
「えぇ、いいですわ」
口調を切り替え、入室を許す。扉を開けた侍女が一礼し近づき、銀の盆を差し出した。乗せられている
(えっ、この感覚、でもそんなはずは――――)
信じられず固まっていると、淡々とした侍女の声が聞こえた。
「どうかなさったのですか? もしかして、体調が
「いえ、何でもありませんわ。返事を書きますので、少し待っていただけます?」
「了解いたしました」
受け取った便箋を開き、目を通す。形だけの気遣いの言葉が並ぶ、いつも通りの文面だ。文字は
(やっぱり、間違いない。瘴魔の気配だわ。でも、どういうこと? 封印の儀は確かに成功したはず。なのになぜ、どうして?)
指先が震えた。吹き荒れる疑問の嵐に
ありえないはずの事態だが、シルヴィアの感覚は、確かに瘴魔の気配を認めている。瘴魔の放つ気配を、
(陛下の近辺、もしくは手紙の運ばれてくる道筋のどこかに、瘴魔が
信じられないが、放置することもできなかった。
「ねぇ、陛下には今日、何か変わったことはなかったかしら?」
「前日の予定通り、公務をこなしてらっしゃいます」
「では近頃、体のご不調を
「そのようなことは聞いておりません。何か手紙に、気になることでも書いてあったのですか?」
「いいえ、書いてませんわ。でも、夫の体調を心配するのは、妻として当然でしょう?」
ゆったりと
シルヴィア自身が十五年前に行った儀式のおかげで、大陸から瘴魔は
古文書によれば、世界の
(だったら、瘴魔について心当たりがないか、アシュナードに聞いてみるしかないわね)
シルヴィアは侍女に
★★★
『残念だが、おまえはまだ寝ぼけているのではないか? 十五年も眠っていたのだから、ゆっくりと自室で
アシュナードの言伝。冒頭の一文に、シルヴィアは
(いきなり信じられないのはわかるけど、いちいち言い方が
アシュナードの見下す姿が、文字越しにありありと想像できて
アシュナードはシルヴィアの
(なんで私が、あいつのために
シルヴィアは羽根ペンを手にしてしばらく考え込むと、
★★★★
「どうやら陛下の妃は、また新しいドレスをご所望のようだな」
アシュナードの執務室に運ばれてきたドレスを見て、ルドガーがうんざりと口を開いた。
「一昨日の華やかな赤いドレス、五日前には夜会用の白のドレス。今日は瞳の色とあわせた青いドレスときて、また
ルドガーの責めるような視線にも、部屋の
主君と部下だが、元は軍務を共にした戦友だ。ルドガーは
「……それに、ドレスだけじゃない。ドレスとあわせるからと、銀の耳飾りに、絹で作られた
「着飾って私の気をひこうとは、なかなかに健気な妻だと思わないか?」
「思ってもいないことを口にするな。もう三十日以上、夫が姿を見せないんだ。おおかた暇を持て余し、美しいドレスで気を
「夫のためではなく、
「そうさせるくらい、陛下の彼女に対する扱いが悪いということだ」
ルドガーは
「あいつが手紙で求めてきたものは、何だって与えてきたつもりだ。色とりどりのドレスに装身具、甘い砂糖菓子。これだけあれば、夫などこなくても十分楽しく過ごせるだろう」
「一番欲している自由は与えずに、だろう? 今のところドレス程度で満足しているようだが、この先もっと高価なものをねだられ、湯水のように金を使うようになったらどうする?」
「そうなったらあいつを『体調不良で寝たきり、身を飾る元気もない』ということで部屋に閉じ込め続けるだけだ。眠り続ける女は、宝石もドレスも求めない。なんせあいつは十五年以上も眠っていたんだ。身体に不調が表れても、なんらおかしいことではないだろう?」
「
「浪費家の妃として、民に
アシュナードは席を立つと、トルソーにかけられた青のドレスに手を
「聖女と呼ばれ澄ましていようと、一皮むけば一人の女に変わりはない。自身の境遇も理解できない
さて、どうなるかなと。
金の瞳を
★★★
「まぁ、なんて素敵なドレスなんでしょうか」
侍女が部屋に運び込んだドレスを目にし、シルヴィアは
青の布地を重ね、ふんわりと
「この青、海みたいで美しいですわね。もしかして、ブノワ染めの生地かしら?」
「はい、そのように
「えぇ、とても。陛下に感謝いたしますわ」
アシュナードから与えられたドレスを
「さすがシルヴィア様。白い肌が際立ち、とてもお似合いです」
「ありがとう。あなたが
シルヴィアをひとしきり褒めたたえると、侍女は一礼し退室した。彼女が戻ってくる気配が無いことを確認すると、シルヴィアは聖女らしからぬにんまりとした笑いを浮かべた。
「ふふ、やっと手に入ったわ。この辺で青の布地といったら、ブノワ染めが有名だものね」
ブノワ染めはこの国のお隣、ユグレシア皇国の名産品だ。海を思わせる深い青が
鏡の前に陣取り、ドレスの裾をつかみめくりあげる。ドレープの重ねられたスカート部分の、表からは見えないひだの奥の布地を手にとった。手にした生地と鏡を交互に見ると、
(このあたりなら、少し布地をもらっても、外からじゃわからないわね)
慎重な手つきで、手のひら大の布地を二つ切り出す。そのうちの一つを更に細切れにし、陶器の小皿へと載せた。
「それでこの布に、この香油を加えて、っと……」
ガラスの
(聞いていた通り、効き目はばっちりね)
ブノワ染めは、
染色原料として名高い藍笛草だが、特定の種類の香油と混ぜると、強い眠気を
日中のシルヴィアの部屋の前には衛兵が控えているが、夕食後は部屋の入り口に設けられた小部屋に、お世話係兼見張り役の侍女が
(ここのところ大人しくしていたから、侍女たちの
この部屋に閉じ込められてからの観察で、寝ずの番を回しているのは五人の侍女だとわかった。職務を果たす彼女たちは一睡もしていないようだったが、生理的な眠気を完全に消し去ることは難しい。深夜にそっと
(小部屋の扉はこちらの部屋の物音を拾うために、足元に
この香油は教国から持ち込んだ嫁入り道具の一品だったが、まさかこんな形で役立つとは思わなかった。もう一方の材料であるドレスも、その目的がブノワ染めの生地を手に入れることだとは気づかれないよう、他にも様々な意匠のドレスをねだりまぎれこませたものだ。
(何着もドレスを買わせて
瘴魔を
(この部屋の中からじゃ微弱な気配しか感じられないけど、外に出て具体的な居場所をつかめば、さすがにあの陛下も耳を傾けるはず)
現状では、瘴魔の存在を訴えたところで、外に出たがるシルヴィアの
シルヴィアは香油と布の端切れを隠すと、早く夜が来ないかと待ちわびるのだった。
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次回は【2018年8月14日(火)更新予定】
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