第二章 薔薇色ならざる新婚生活1

 


 政略結婚ということは理解していたし、愛情も期待していなかった。

 甘い新婚生活を夢見ることなどなく、夫とのすれ違いも予想済みとはいえ―――――

「二十日以上も顔を見せないって、夫というより人間としてどうよ?」

 与えられた居室で、一人きりのシルヴィアはつぶやいた。

 アシュナードの妻となるため、帝国の帝都ヴァイスブルグにやってきたのが二十二日前。

 そしてその翌日に、自室へと案内された時が、アシュナードと顔をあわせた最後だった。寝室は別、食事の相席も多忙を理由に断られている。ならば、アシュナードの妻として付き添おうと言伝ことづてで提案するも、「十五年ぶりに目覚めたシルヴィアの体が不安だから」という理由で断られ、居室から外に出ることも、人を招くことも認められなかった。

「おかげで、もうハーヴェイ様にもらった本も読みつくしちゃったじゃない」

 シルヴィアは手にしていた書物を机におくと、一つ大きく伸びをする。

 結局あの後、しっかりとハーヴェイと話す時間は持てないまま、帝国へと来てしまった。

 帝国に到着し、知識を整理する時間ができたのは幸いだったが、現状はかごの鳥だ。

 得た知識をまとめると、シルヴィアには妻として、女としての役割は一切求められていないらしい。妻として選ばれた理由は聖女の名でアシュナードにはくをつけるため、そして、ていのいい虫よけだ。若く独身であるアシュナードには、当然いくつもの縁談えんだんが持ち掛けられていた。きさきめとり子をもうければ、外戚がいせきわずらわされることになる。眠り続けるシルヴィアを形だけの妻とすることで、数年の時間をかせぐことにしたのだ。

(まぁ、それで私が目を覚ましちゃったのは、向こうも予想外だったんだろうけど……)

 だからといって、同情することはできなかった。

 シルヴィアの自由意志など必要としていないアシュナードは、シルヴィアを人形扱いし、自由を認めなかった。シルヴィアの体調を気遣きづかう名目で軟禁なんきんし、やっかいごとを起こさないよう監視かんししている。シルヴィアが人望を得て、権力を求めることを危惧きぐしたのだ。

(……世界から瘴魔しようま危機ききは去ったとはいえ、全てが平和になったわけじゃない。教国と帝国の仲も、いつまでも安定しているとも限らないわ。帝国内に味方を作っておきたいところだけど、外に出られなきゃ始まらないわよね……)

 この状態が何か月も続くようなら、教国から正式に抗議こうぎしてもらうつもりだが、教国の国威こくいおとろえている今、できるだけことを荒立てたくなかった。

 シルヴィアは何度目かわからないため息をつくと、ドレスの襟元えりもとを整えた。

 そろそろ、毎日アシュナードに出している言伝の返信を、侍女じじよが持ってくる時間だ。

「――――シルヴィア様、陛下からお言葉をたまわっております。入ってもよろしいでしょうか?」

「えぇ、いいですわ」

 口調を切り替え、入室を許す。扉を開けた侍女が一礼し近づき、銀の盆を差し出した。乗せられている便箋びんせんに手を伸ばすと、指先に冷たさを感じる。

(えっ、この感覚、でもそんなはずは――――)

 信じられず固まっていると、淡々とした侍女の声が聞こえた。

「どうかなさったのですか? もしかして、体調がすぐれないのですか?」

「いえ、何でもありませんわ。返事を書きますので、少し待っていただけます?」

「了解いたしました」

 受け取った便箋を開き、目を通す。形だけの気遣いの言葉が並ぶ、いつも通りの文面だ。文字は流麗りゆうれい、紙も上質だが、えた水に肌をひたしたような、ごくわずかな冷たさが伝わってくる。

(やっぱり、間違いない。瘴魔の気配だわ。でも、どういうこと? 封印の儀は確かに成功したはず。なのになぜ、どうして?)

 指先が震えた。吹き荒れる疑問の嵐に翻弄ほんろうされつつ、あくまで表面は平静を保つ。

 ありえないはずの事態だが、シルヴィアの感覚は、確かに瘴魔の気配を認めている。瘴魔の放つ気配を、祝片しゆくへんの子は敏感びんかんとらえることができる。聖女であるシルヴィアともなれば、瘴魔がその場にいなくとも、瘴魔の近くを通りかかった人や物からも、瘴魔の残り香のような気配を感じ取ることができるのだ。

(陛下の近辺、もしくは手紙の運ばれてくる道筋のどこかに、瘴魔がひそんでいるの?)

 信じられないが、放置することもできなかった。

「ねぇ、陛下には今日、何か変わったことはなかったかしら?」

「前日の予定通り、公務をこなしてらっしゃいます」

「では近頃、体のご不調をうつたえられることはありますか?」

「そのようなことは聞いておりません。何か手紙に、気になることでも書いてあったのですか?」

「いいえ、書いてませんわ。でも、夫の体調を心配するのは、妻として当然でしょう?」

 ゆったりと微笑ほほえむと、シルヴィアは机の引き出しから便箋を取り出した。

 シルヴィア自身が十五年前に行った儀式のおかげで、大陸から瘴魔は一掃いつそうされたはずだ。

 古文書によれば、世界のけがれが蓄積ちくせきされることで、瘴魔は再出現すると書かれていたが、それは百年以上は先のはず。いくらなんでも早すぎだ。ありえないはずの、瘴魔の存在。侍女に話しても信じてもらえないだろうし、無駄むだに不安をあおるのも良くない。

(だったら、瘴魔について心当たりがないか、アシュナードに聞いてみるしかないわね)

 シルヴィアは侍女にあせりをさとられないよう、普段と変わらない様子で、アシュナードへの返信を書き上げたのだった。  

 

★★★


『残念だが、おまえはまだ寝ぼけているのではないか? 十五年も眠っていたのだから、ゆっくりと自室で療養りようようしているといい』

 アシュナードの言伝。冒頭の一文に、シルヴィアはまゆをピクリと動かした。

(いきなり信じられないのはわかるけど、いちいち言い方がいやみったらしいのよ!!)

 アシュナードの見下す姿が、文字越しにありありと想像できて不愉快ふゆかいだ。

 アシュナードはシルヴィアの勘違かんちがいと決めつけるだけではなく、『瘴魔の復活をかあってまで私の気をひきたいのか?』と、馬鹿ばかにしてくれていた。

(なんで私が、あいつのためにうそをつくのよ。冗談じようだんじゃないわ)

 不名誉ふめいよ誤解ごかいをされ腹立たしかったが、現状では、シルヴィアの自由をにぎっているのがアシュナードなのは事実だ。

 シルヴィアは羽根ペンを手にしてしばらく考え込むと、苛立いらだちをぶつけるように、それでいて流麗な筆跡で、アシュナードへの言伝をしたため始めた。


★★★★


「どうやら陛下の妃は、また新しいドレスをご所望のようだな」

 アシュナードの執務室に運ばれてきたドレスを見て、ルドガーがうんざりと口を開いた。

「一昨日の華やかな赤いドレス、五日前には夜会用の白のドレス。今日は瞳の色とあわせた青いドレスときて、また贅沢ぜいたくなことだ。満足にそでを通す機会もなさそうだな」

 ルドガーの責めるような視線にも、部屋のあるじであるアシュナードは涼しい顔だった。

 主君と部下だが、元は軍務を共にした戦友だ。ルドガーは遠慮えんりよなく口を開いた。

「……それに、ドレスだけじゃない。ドレスとあわせるからと、銀の耳飾りに、絹で作られた扇子せんす、真珠をちりばめた肩掛け。陛下がこうも贅沢を許すとは、意外だったな」

「着飾って私の気をひこうとは、なかなかに健気な妻だと思わないか?」

「思ってもいないことを口にするな。もう三十日以上、夫が姿を見せないんだ。おおかた暇を持て余し、美しいドレスで気をまぎらわそうとしているんだろう」

「夫のためではなく、暇潰ひまつぶしか。随分ずいぶんと味気ない、色気のない考えだな」

「そうさせるくらい、陛下の彼女に対する扱いが悪いということだ」

 ルドガーは眉間みけんのしわを深くする。泣く子も黙る凶相きようそうだったが、見慣れたアシュナードは書類仕事の手を止めなかった。

「あいつが手紙で求めてきたものは、何だって与えてきたつもりだ。色とりどりのドレスに装身具、甘い砂糖菓子。これだけあれば、夫などこなくても十分楽しく過ごせるだろう」

「一番欲している自由は与えずに、だろう? 今のところドレス程度で満足しているようだが、この先もっと高価なものをねだられ、湯水のように金を使うようになったらどうする?」

「そうなったらあいつを『体調不良で寝たきり、身を飾る元気もない』ということで部屋に閉じ込め続けるだけだ。眠り続ける女は、宝石もドレスも求めない。なんせあいつは十五年以上も眠っていたんだ。身体に不調が表れても、なんらおかしいことではないだろう?」

容赦ようしやないな」

「浪費家の妃として、民にまれるよりいいだろう」

 アシュナードは席を立つと、トルソーにかけられた青のドレスに手をれた。

「聖女と呼ばれ澄ましていようと、一皮むけば一人の女に変わりはない。自身の境遇も理解できないおろかな女であれば切り捨てるだけだが――――」

 さて、どうなるかなと。

 金の瞳をすがめた主君の姿に、ルドガーは眉間のしわをさらに深くしたのだった。


★★★


「まぁ、なんて素敵なドレスなんでしょうか」

 侍女が部屋に運び込んだドレスを目にし、シルヴィアは感銘かんめいの声をあげた。

 青の布地を重ね、ふんわりとふくらませたスカート。袖口や前身ごろには銀糸の刺繍ししゆうほどこされ、繊細せんさいな輝きを宿している。上品かつ愛らしい意匠いしようのドレスだったが、シルヴィアが心動かされたのはその美しさにではなかった。

「この青、海みたいで美しいですわね。もしかして、ブノワ染めの生地かしら?」

「はい、そのようにうかがっております。お気に召しましたか?」

「えぇ、とても。陛下に感謝いたしますわ」

 アシュナードから与えられたドレスをめるのはいつものこと。だが、今日の嬉しさは本物だ。はしゃぎすぎて不審ふしんがられないように注意しつつ、早速ドレスに袖を通す。侍女の手を借り全身を整えたシルヴィアは、満足げに鏡と向き合った。

「さすがシルヴィア様。白い肌が際立ち、とてもお似合いです」

「ありがとう。あなたがってくれたこの髪も、とてもドレスと合っていますわ」

 シルヴィアをひとしきり褒めたたえると、侍女は一礼し退室した。彼女が戻ってくる気配が無いことを確認すると、シルヴィアは聖女らしからぬにんまりとした笑いを浮かべた。

「ふふ、やっと手に入ったわ。この辺で青の布地といったら、ブノワ染めが有名だものね」

 ブノワ染めはこの国のお隣、ユグレシア皇国の名産品だ。海を思わせる深い青が特徴とくちようで、見栄えが良く縫製もしやすいため、ドレスへの使用頻度しようひんどが高い。

 鏡の前に陣取り、ドレスの裾をつかみめくりあげる。ドレープの重ねられたスカート部分の、表からは見えないひだの奥の布地を手にとった。手にした生地と鏡を交互に見ると、文机ふづくえの引き出しからちばさみをとりだし、そっと刃をすべらせた。

(このあたりなら、少し布地をもらっても、外からじゃわからないわね)

 慎重な手つきで、手のひら大の布地を二つ切り出す。そのうちの一つを更に細切れにし、陶器の小皿へと載せた。

「それでこの布に、この香油を加えて、っと……」

 ガラスの小瓶こびんに入った香油は、心を安らげ、すこやかな眠りへと導くものだ。本来は気分を落ちつかせる程度の効力しかないはずだが、布の端切はぎれを浸した香油をぐと、くらりとめまいがし、意識が持っていかれるような感覚がした。

(聞いていた通り、効き目はばっちりね)

 ブノワ染めは、藍笛草あいぶえそうという植物をふんだんに使って染め上げられている。

 染色原料として名高い藍笛草だが、特定の種類の香油と混ぜると、強い眠気をもよおす特性がある。あまり有名な性質ではないが、シルヴィアの暮らしていた教国では、聖堂で説法を行う際に香油を用いることが多く、小耳にはさんだことがあった。

 日中のシルヴィアの部屋の前には衛兵が控えているが、夕食後は部屋の入り口に設けられた小部屋に、お世話係兼見張り役の侍女がはべっているだけだ。

(ここのところ大人しくしていたから、侍女たちの警戒心けいかいしんも緩んでいるものね)

 この部屋に閉じ込められてからの観察で、寝ずの番を回しているのは五人の侍女だとわかった。職務を果たす彼女たちは一睡もしていないようだったが、生理的な眠気を完全に消し去ることは難しい。深夜にそっとのぞくと、目をしょぼつかせ欠伸あくびをかみ殺していた。

(小部屋の扉はこちらの部屋の物音を拾うために、足元に隙間すきまが空いているわ。香をたいて隙間から流し込めば、軽く居眠りくらいはするはず。その隙に近づいて、間近から香油を嗅がせれば、しばらくは眠っていてくれるわ。この組み合わせで睡眠薬が作れるなんて、この国の人間じゃ予想しないでしょ)

 この香油は教国から持ち込んだ嫁入り道具の一品だったが、まさかこんな形で役立つとは思わなかった。もう一方の材料であるドレスも、その目的がブノワ染めの生地を手に入れることだとは気づかれないよう、他にも様々な意匠のドレスをねだりまぎれこませたものだ。

(何着もドレスを買わせて無駄遣むだづかいしてるわけだし、このドレスを縫ってくれた職人にも申し訳ないけど、それでも、瘴魔の気配を放置するわけにはいかない……)

 瘴魔をはらうことができるのは、祝片しゆくへんの子と呼ばれる力を持った人間だけだ。いかなる魔術や武器であれ、瘴魔を消し去ることは不可能。切っても焼いても死なず、牙をむき人におそい掛かってくる。幸い、まだ被害は出ていないようだが、悠長に構えている余裕はない。

(この部屋の中からじゃ微弱な気配しか感じられないけど、外に出て具体的な居場所をつかめば、さすがにあの陛下も耳を傾けるはず)

 現状では、瘴魔の存在を訴えたところで、外に出たがるシルヴィアの妄言もうげんだと聞き流されるだけだ。人的被害が出れば信じてくれるかもしれないが、死人が出てからでは遅すぎる。

 シルヴィアは香油と布の端切れを隠すと、早く夜が来ないかと待ちわびるのだった。


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次回は【2018年8月14日(火)更新予定】

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