第一章 冬薔薇の聖女、目覚めたら花嫁1




 白く、白く、音も無く。

 世界を白でおおいつくすように、聖都イシュタリアの空を雪が舞う。

 風におど雪片せつぺんが、石造りの聖堂の回廊へと迷い込む。白銀の欠片を受け止めたのは、雪と見まがうほどに白く滑らかな、ほっそりとした指先だ。

 処女雪の肌に、柔らかく揺れる金の髪。少女―――聖女シルヴィアは、銀青の瞳を、降りやまない雪空へと向けた。

こよみの上では、もうとっくに夏ですのに……」

 白い息を吐き出し、シルヴィアは眼差まなざしを暗くする。

 指先の雪はじきに体温で溶け消えたが、心の中のうれいは消えないままだ。

 芯まで冷える寒気に、小さく身を震わせると、背後で控える女神官がくしゃみをした。

「っ、くしゅんっ!!」

「あら、大丈夫ですか?」

「ご心配ありがとうございます、聖女様。急に寒くなったので、体がついていかなくて」

「そうでしたの。でしたら、これを羽織っていてください」

 肩にかけていたショールを差し出すと、女神官が慌てて首を振った。

「そんな、受け取れません。聖女様の御身おんみを冷やすなど、恐れ多いです」

「私なら構いません。少し歩けば、温められた大聖堂につきます。枢機卿すうききよう様たちとの話し合いの間、そちらを預かっていてもらえると、私も助かりますわ」

 シルヴィアは柔らかく微笑ほほえんだ。ショールを女神官にかけ、回廊を歩き出す。

 女神官も、やはり寒さは辛かったのだろう。恐縮しつつ、ほっとした様子を見せていた。

「……ありがとうございます、聖女様。大切に預からせていただきますね」

「お願いします。話し合いは長引きそうですから、暖かい部屋で待っていてください」

「そうさせていただきますね。長引くということは、議題はやはり、ここのところの不穏な天候に関してでしょうか?」

「えぇ、きっとこの雪は、増えすぎたしようの影響でしょうから」

 シルヴィアは憂いをのせ、降りやまない雪を見つめた。

 ――――瘴魔は、世界に満ちるけがれの具現とされている。黒い四足の体躯たいくに、爛々らんらんと輝く真紅の瞳、瘴気を吐き出す鋭いきば。人をおそい、地に数が増えれば、天の気象さえ狂わせることになる。ここ数年は嵐や干ばつが続き、ついには季節のめぐりさえおかしくなり始めていた。

「今日の話し合いは、きっと長くなります。私が行わせていただく封印の儀と、儀式の実行後の対応について、くわしく話し合うつもりですから」

「封印の儀……」

 シルヴィアの言葉を反芻はんすうするように、女神官がつぶやいた。

 瘴魔を消し去り、狂い始めた世界を救う唯一ゆいいつの手段、それが聖女による封印の儀だ。

 封印の儀にあたっては、術者の安定した身体状態が望ましい。シルヴィアは先月、十七歳になったところだ。成長期を終えた肉体は成熟し、儀式の準備はとどこおりない。だが――――

「シルヴィア様は、怖くないのですか……?」

 女神官が、恐る恐るといった様子で問いかけた。

「封印の儀は、術者の……シルヴィア様の命と、引き換えに成立すると聞いています」

「少し違います。私は、深い眠りにつくだけですわ」

「覚めない眠りは、死と変わりありません。過去に封印の儀を行った聖女の方々は、目覚めませんでした。数十年眠り続け、一度も起き上がることなく息を引き取ったと聞いています。シルヴィア様は、それが恐ろしくはないのですか?」

「……怖くないと言ったら、うそになります」

 シルヴィアは雪空から視線を戻すと、じっと女神官を見つめた。

「でも、逃げることなどできません。私こそが、冬薔薇ふゆばらの聖女なのですから」

 瘴魔と異常気象におびえる、凍える冬のごとき暗い世界。

 そんな世で、たぐいまれなる聖力で瘴魔を浄化するシルヴィアは、冬の寒さにも負けず花を咲かせる、冬薔薇の聖女とたたえられていた。

 そして大輪の薔薇が咲き誇るには、多くの手間と金銭が必要でもある。

「私がえることなく、こうして美しい衣をまとっていられるのも、全ては瘴魔の浄化じようか能力を見込まれてのこと。私に与えられた恵みと期待を、裏切ることなどできません」

 シルヴィアが封印の儀を拒絶すれば、大陸にはびこるなげきは大きくなるばかりだ。

「だから私は、迷いませんわ」

 まっすぐな瞳で言い切ったシルヴィアに、女神官は自然とこうべを垂れた。


 ――――自らの未来全てを差し出すことさえいとわない、献身けんしんの聖女。

 シルヴィアの宣言のとおり、封印の儀によって世界は救われ、引き換えに彼女は眠り続けることとなったのだが―――――

 

 ★★★


 ――――どうやら自分は死んで、天の御園みその――死後の世界にたどり着いたらしい。

 瞳を開いて真っ先に飛び込んできた男の姿に、シルヴィアはそう結論付けることにした。

(驚きね。こんな綺麗きれいな顔の持ちぬしがいるなんて、さすがは天の御園ということかしら……)

 芸術品を鑑賞するような心持ちで、ぼんやりと男を見る。

 つややかな黒髪が額へ流れ、高く通った鼻筋の下で、形よい唇が引き結ばれている。切れ長の瞳は金で、背筋が震えるほど深い色をしている。わずかに目を見開き無表情なのが気になるが、顔の造作は瑕疵かし一つ見られず、氷から削り出された彫像ちようぞうのように整っていた。

(天の御園の住人は、みなうるわしい姿をしていると聞いてたけど、本当だったのね)

 シルヴィアは世界を救うため、覚めることのない眠りについたはずだった。

 命尽きるまで続く、深い深い眠りだ。なのに意識を取り戻し、目の前には今まで見たこともないような――――この世ならざるほどの美貌びぼうの青年が待ち構えていたのだ。ならばここはきっと、死後に魂がおもむくという天の御園なのだろう。

 もやのかかった頭で男を見つめていると、探るように唇が開かれた。

「………目が、覚めたのか?」

 耳朶じだに響く、低い声。背中にあたる腕に、力が入った気がした。

 どうやら、横になった状態から、男に上半身を抱え起こされていたらしい。

 背中に触れる腕の感触がくすぐったくて、シルヴィアは声を出して笑った。

「えぇ、目が覚めましたわ。いえ、けど、目が覚める、という表現は正しいのでしょうか? ここは天の御園で、私の肉体はすでに滅んでいるのでしょう?」

 ゆったりとした口調で、シルヴィアは男へと問いかけた。

 意識はまだ朦朧もうろうとしていたが、聖女らしく言葉遣いは丁寧かつ上品だ。

 聞く者の心をやわらげる、澄んだ心地よい声音だったが、返る男の声は硬かった。

「天の御園、だと?」

 金の瞳が、どこか皮肉な色を帯び眇められる。

「そんなものがあってたまるか。天の御園など、おまえたち教国の人間が、人心を動かすために作った虚像にすぎないだろう」

「……え?」

 鋭い視線とあざ笑う声に、冷水を浴びせられたように意識が明確さを取り戻していく。

 シルヴィアの背が、絹布けんぷの上へと横たえられる。男は自由になった両手を自らの腰へと伸ばすと、剣帯に吊られた長剣のさやをつかんだ。

「何をするつも――――っ!!」

 銀の刃と、したたり落ちる赤い滴。

 一滴、二滴と。刃に押し当てられた男の指から、血の滴が零れ落ちる。

 血を流す男は、あいかわらずの無表情だ。傷は浅いようだが、それでも痛みはあるはず。

 シルヴィアは上半身を起こし、男の指を刃から引き離した。血を止めるため、指の付け根を握りこむ。

「指を動かさないでくださいませ。あなた、一体何がしたいんですの?」

「血を見せたかった」

「はい?」

 意味が分からなかった。この男は一体、何がしたいのだろう。

 呆気あつけにとられていると、男は唇に薄い笑みを刻み込んだ。

「血を見れば、ここが天の御園などではないと理解できるだろう?」

「!!」

 予想だにしない言葉に、思わずシルヴィアは言葉を失った。

 天の御園は、神の慈愛と光で満ちていると言う。導かれた魂は、永遠の陽光の中に在る。飢えや病苦、争いといったしがらみから解き放たれ、血が流れることは無いと信じられていた。 

 ゆえに男が流血をもって、ここが天の御園では無いと言うのは理解できるが――――

「ですが、わざわざご自身の指を切らなくても……」

「言葉を尽くすより、目に見える証拠があった方がいい。ねぼけた聖女様の頭を覚ますにも、これが一番手早かっただろう?」

 微塵みじんの揺らぎもない男の言葉に、シルヴィアは軽くめまいを覚えた。

(私の思い違いを正すためだけに、躊躇ちゆうちよなく自分の指を切るなんて……)

 気圧けおされたシルヴィアだったが、はたと思い至るものがあった。

(いえ、この男の目的はそれだけじゃないわね。ここが天の御園ではないと教えるためだけに、痛い思いをして血を流す必要なんか無い。なのにわざわざ自らの指を傷つけたのは、別の狙いがあるはず。私を動揺させ、この先の会話を優位に進めるためね)

 血が流れれば、人は少なからずうろたえるものだ。加えて男は刃を手にし、自らの指を切るという、一見して意味不明な行動をおかした。気の小さい人間であれば、男を気味悪く思って逃げ出しても不思議ではない。

(私が悲鳴をあげて男を拒絶したら、親切をあだで返したとなじるつもりだったんでしょうね)

 シルヴィアは穏やかに目を細め、唇をなごませ、柔らかな笑みを浮かべてみせる。

 美しく清らかな、聖女の肩書に偽りなしと言える完璧な微笑みだったが―――――

(聖女たるもの、あなどられたら終わりよ。私を驚かせ試そうとした報い、倍返しにしてみせるわ!)

 無言で決意を固めつつ、表情は輝くような笑顔のまま。

 楚々そそとした振る舞いで理想の聖女と称えられていたシルヴィアだったが、その本性はいささか異なり――――とても負けず嫌いで、ついでにプライドも高かった。聖女に選ばれたとはいえ、二十歳はたちにも満たない、小娘のシルヴィアを馬鹿にする相手は多かった。そのことごとくをいなし、丸め込み、時に笑顔でおどしつけ、認めさせてきたのだ。

 死ぬ気でみがいた外面と聖女の威光を、初対面の相手にけがされるわけにはいかなかった。

(そもそも、私はなんで目覚めたの? 私が眠ってから、どれだけ時間が経ったの?)

 シルヴィアの眠りは、二度と目を覚まさない深いものだったはずだ。なのに何故覚醒かくせいしたのだろうか? 目の前の男の正体にも、さっぱり見当がつかなかった。

(とりあえず、この無礼男から情報を集めないと駄目だめね)

 出血の止まった男の指から手のひらを離し、すばやく相手の全身を観察する。

 黒髪で長身。年は二十代半なかばほど。瞳は金色で、硬質な光でこちらを見据えている。身にまとうのは、黒い生地に、金の装飾が施された軍服だ。胸元には、いくつもの徽章きしようが輝いている。左肩にかけられたマントに、大きく月桂樹げつけいじゆと、双頭のわしの紋章が染め抜かれているのが見えた。

(初めて見る紋章ね。でも月桂樹の部分は、プレストリア帝国国章の意匠いしようと似ているかしら。帝国の軍服は黒地だったはずだし、徽章の数と若さからして貴族の人間でしょうね)

 目まぐるしく思考を進めつつ、周囲の様子を観察すると、指先に白い薔薇の花弁が触れた。薔薇の敷き詰められた聖櫃せいひつに、横になっていたようだ。純白のしとねおどる、七色の光の欠片けつぺんたち。頭上を見上げれば、ステンドグラスのはめこまれた、見覚えのある薔薇窓が目に入った。どうやらここは、聖都の大聖堂の祭壇部分らしい。男の肩越しには、外へと繋がる扉が見える。扉の前には、男と似た意匠の、軍服を着た人間が二人立っていた。彼らは、男の部下だろうか? 男が二人へと視線をやると、そのうちの一人が、一礼し堂外へと出ていった。

「今、私の部下に人を呼びに行かせた。じきに教国の人間も駆けつけるはずだ」

「まぁ、ありがとうございます」

 現在地がわかって一安心しつつも、シルヴィアの焦りは消えなかった。

 とにかく、情報が少なすぎる。シルヴィアが眠ってからどれほどの時間が流れたのか、なぜ目覚められたのか、見当もつかなかった。目の前の男に見覚えは無く、彼の目的もわからない。

「……その軍服、プレストリア帝国の方とお見受けしますが、お名前をうかがっても?」

「アシュナードと呼んでくれ」

 そっけない回答に、シルヴィアは心の中で眉をひそめた。

(自己紹介、短すぎるわ。知りたかったのは家名や役職名だったのに、この男、私に情報を与えるつもりは無いようね。やりにくいったらないわ!!)

 相手の立ち位置を知らぬまま会話を進めれば、狼の尾を踏む可能性がある。本来なら、家名を告げないのは無礼にあたるが、名のみで通じる功績を持った人間の場合は別だ。こちらから姓を聞き返しては、自分の無知をさらすことになる。

(アシュナード……心当たりがないけど、有力貴族なのは間違いないわね。だってこんなにも偉そうなんだもの!!)

 居丈高いたけだがで、傲慢ごうまんで、そのくせやたらと顔はいい無駄むだ美形軍人。シルヴィアはアシュナード自身についてそうまとめると、別の切り口から情報収集を続けることにした。

「それではアシュナード様、いくつかお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「あぁ。だが、おまえは目覚めたばかりだ。長くしゃべっても大丈夫か?」

「えぇ、おかげさまで。とてもすっきりと目が覚めましたから」

「それは光栄だ」

 シルヴィアの皮肉をこめた言葉にも、アシュナードは一切悪びれる様子がない。

 やはりというか当然というか、とてもいい性格をしているようだった。

「では、お言葉に甘えて。私、そちらの国の皇帝陛下、クラウス陛下と幾度かお手紙をやり取りさせてもらっていましたの。陛下は今もご壮健そうけんですか?」

「いや、二年ほど前にくなっている。おまえが眠ってから、十五年が経っているんだ」

「まぁ、そうでしたの………」

 十五年。シルヴィアにとっては一瞬のうちに過ぎ去った、その時間。

 今、世界は、教国は、どう変わっているのだろう? 養父や女神官たちは健在だろうか? 

 いくつもの疑問が押し寄せたが、まずは礼儀として、故人となったクラウス皇帝への祈りをささげるのが先だ。シルヴィアは両手を胸の前で組むと、流れるように祈りの句を唱えた。

「クラウス陛下の魂に、永久の安らぎのあらんことを。そして、新しき皇帝陛下の御世が長く続き、その身が血に汚れることが無いことをお祈りし――――」

「ありがたい祈りだが、残念ながら無理なことだ」

「っ!?」

 まさか祈りの言葉を否定されるとは思わず、シルヴィアは声をつまらせた。

 今唱えたのは、亡くなった王をいたみ、新たなる王を寿ことほぐ際の定番の祈りだ。王が病や暗殺者に害されることなく、無用な争いで血を流さぬようにと、祈りを込めた言葉を否定するなど、物騒にもほどがある。

「アシュナード様、あなたは一体、何が仰りたいんですの?」

「事実を述べたまでだ」

 アシュナードが、すいと視線を自身の右手の指にやった。

(アシュナードの右手は今、血に汚れている。つまり、それって……)

 シルヴィアは、一度息を吸い込み言葉を発した。

「…………お戯れを、アシュナード陛下」

 ――――目の前のアシュナードこそが、現プレストリア帝国の皇帝。

(この無礼千万陛下さま、またこちらを試したわね)

 アシュナードが皇帝であると気づくかどうか。気づいて動揺を表に出すかどうか。

 聖女として、要人貴人との会話の駆け引きには慣れていたが、値踏みされるのは不快だった。

(本当、失礼で抜け目ないわね。さっき自身の指を傷つけたのも、私が「その身が血に汚れることが無いことを」と祈りの定番を口にすると予想していたからかもしれないわね)

 零れ落ちた血に、シルヴィアが醜態しゆうたいを晒せばそれでよし。そうでなくても、後の会話の布石になるようにという二段構えだ。

(意表をつく言動でこちらの呼吸を乱しつつ、先を見越してわなをしく。手ごわい相手ね)

 シルヴィアに言葉遊びにも似た駆け引きをもちかけ、その資質を測ろうとしたのだ。

 もし駆け引きを見抜けず失言すれば、容赦ようしやなくつけこんでくるつもりだったのだろう。

 シルヴィアはアシュナードへの警戒心けいかいしんを高めつつ、それをおくびにも出さず微笑んだ。

「アシュナード陛下は、血に汚れてなどいませんわ」

「この指に血がこびりついているのにか?」

「血の汚れとは、身体より魂に染みつくものです。先ほどアシュナード陛下が流した血は、私を気遣ってのものでしょう? ですから、陛下の魂は汚れてなどいませんわ」

「魂が問題となるのならば、なおさら私は血にまみれているはずだ。私は皇帝の椅子いすに座るまで、ずっと軍人として戦場を駆けていた。直接手にかけた敵の数だけでも、優に五十を超えている。この軍服と徽章の持つ意味を、おまえは理解していないのか?」

「わかっておりますわ」

 揺るがぬ笑みで、シルヴィアは言い切った。

「陛下が軍人だからこそ、ですわ。争いは悲しいことですが、避けられぬ戦いもあるもの。軍人の役目とは血を流すことではなく、国や民を守ることでしょう?」

「理想論だな」

「本質を述べたまでですわ。それと陛下、年齢をお聞きしても?」

「……二十四だ」

 唐突に話題が飛び、アシュナードの声がわずかに遅れる。金の瞳が深さと鋭さを増した。彼の虚をいたことに手ごたえを感じつつ、シルヴィアは話を続けた。

「やっぱり陛下は、まだお若いのですね」

「どういうことだ?」

「十五年前で止まっている私の知識には、先代陛下にアシュナードという名前のお子がいた記憶はありません。つまり陛下は、帝室の直系ではないのでしょう? なのにそのお若さで、皇帝の位を手に入れていますもの。それだけ有能で、臣下の方にも頼りにされているのでしょう?」

「確かに、私は部下と才覚に恵まれているな」

 謙遜けんそんすることなく、アシュナードは言い切った。

 傲慢なその答えは、シルヴィアの予想通りで、待ち望んでいたものだった。

「ならば陛下の魂は、やはり血に汚れてなどいませんわ。もし陛下が、ご自身の魂が汚れていると卑下ひげするのならば、陛下に尽くす臣下の方々の思いも否定することになりますもの」

詭弁きべんだな」

「詭弁かもしれません。ですが陛下は、私の詭弁を頭ごなしに否定はなさらないでしょう? ならば、それこそが答えですわ」

「………………」

(よかった、今度はこちらが一枚上をいけたようね)

 たかが会話のやり取りとはいえ、言い負かされてばかりでは聖女の名が泣くというものだ。

 口をつぐんだアシュナードの様子をうかがっていると、すいと彼の瞳が細められた。

随分ずいぶんと、頭も舌もよく回るようだな」

「そんな、それほどでもありませんわ」

 シルヴィアは謙遜しつつ、内心得意げに胸をそらした。

 まだ油断はできないが、これでアシュナードも、こちらを見下し試す対象ではなく、対等な相手と認識したはずだ。あとは会話の主導権を奪われないよう気を付けつつ、じきにやってくる教国の人間を待てばいい。そう思っていたシルヴィアの余裕は―――――

「こんなにも聡明そうめいなおまえが妻になるなんて、私は幸運ものだな」 

「聡明だなんて、そんな……………………妻?」

 ――――たった一言で、弾け飛んでしまった。

「……妻? 私が、あなたの?」

「あぁ、そうだ。美しく聡明で、心根の強い妻を手に入れられて、私も大変うれしいよ」

 皮肉気に美辞麗句びじれいくを並べる声が、右から左へ耳を通り抜けていく。

 自分が、この顔面最上、性格極悪男の妻?

 信じがたい事実に固まっていると、アシュナードが身を寄せ、耳元でささやいた。

「どうした? ひょっとしてまた眠くなったのか? ならば私が寝台に運んで―――――」

「は、離れてくださいませ!! 近すぎます不敬です!!」

 反射的にアシュナードの頬を叩きかけるが、逆に振り上げた腕を捕らわれてしまう。

「妻と夫で二人きりならば、これくらいの距離は普通だろう?」

「え、そ、そうですの!?」

 夫婦とは、そういうものなのだろうか?

 色恋沙汰にうといシルヴィアは一瞬納得しかけたが、問題はそこではない。

「ではなくて! そもそも、妻とはどういうことなのですか!? 説明してくださいませ!!」

「政略結婚だ。諦めろ」

「身もふたもありませんわね!?」

 叫びつつ、シルヴィアは真っ赤に染まった顔をそむけた。

 聖女として敬われていたシルヴィアは、これほど年頃の異性に密着されたことはない。

 普段であればこうも取り乱さなかっただろうが、何せ突然の妻宣言の後だ。

(近すぎるわ!! どこ触ってるのよっ!?)

 アシュナードは親しげにシルヴィアの体を抱き寄せているが、政略結婚との言葉の通り、そこに愛情など欠片も無いのだろう。シルヴィアを動揺させすきを作るために違いなかった。

(まずいわ、このままだとこの男のペースで進んでしまう。仕切りなおさなくては!!)

 悔しいが、一度この男の傍から離れて、冷静に事態を把握はあくする必要がある。

 アシュナードの手を強く振り払うと、彼から体を引きはがした。

(これは断じて逃げじゃないわ!! 首を洗って待っているのよ!!)

 次に会った時には、決して動揺せず上手く立ち回り、アシュナードを圧倒してみせる。

 そう内心で宣戦布告すると、シルヴィアは聖櫃を出て歩き出した。

 しかし数歩もいかないうちに、眼前がかすみ足元がふらつきだしてしまう。

(あ、これ、貧血ひんけつの時と同じ―――――)

 十五年ぶりに体を動かしたのだ。全身に血が巡り切っていなかったのだろう。

 暗転する視界の端で、アシュナードの手が伸び、体が抱き留められるのがわかった。

(ふ、不覚っ!! 最悪よ最悪!!)

 よりによって突き放した相手に助けられるなんて、屈辱にもほどがある。

 シルヴィアは自らの軽率さを呪いつつ倒れこみ―――――― 


 ――――――かくして聖女は十五年ぶりに目覚め、その直後に再び意識を失い――――二度寝することとなったのである。

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