第一章 冬薔薇の聖女、目覚めたら花嫁1
白く、白く、音も無く。
世界を白で
風に
処女雪の肌に、柔らかく揺れる金の髪。少女―――聖女シルヴィアは、銀青の瞳を、降りやまない雪空へと向けた。
「
白い息を吐き出し、シルヴィアは
指先の雪はじきに体温で溶け消えたが、心の中の
芯まで冷える寒気に、小さく身を震わせると、背後で控える女神官がくしゃみをした。
「っ、くしゅんっ!!」
「あら、大丈夫ですか?」
「ご心配ありがとうございます、聖女様。急に寒くなったので、体がついていかなくて」
「そうでしたの。でしたら、これを羽織っていてください」
肩にかけていたショールを差し出すと、女神官が慌てて首を振った。
「そんな、受け取れません。聖女様の
「私なら構いません。少し歩けば、温められた大聖堂につきます。
シルヴィアは柔らかく
女神官も、やはり寒さは辛かったのだろう。恐縮しつつ、ほっとした様子を見せていた。
「……ありがとうございます、聖女様。大切に預からせていただきますね」
「お願いします。話し合いは長引きそうですから、暖かい部屋で待っていてください」
「そうさせていただきますね。長引くということは、議題はやはり、ここのところの不穏な天候に関してでしょうか?」
「えぇ、きっとこの雪は、増えすぎた
シルヴィアは憂いをのせ、降りやまない雪を見つめた。
――――瘴魔は、世界に満ちる
「今日の話し合いは、きっと長くなります。私が行わせていただく封印の儀と、儀式の実行後の対応について、
「封印の儀……」
シルヴィアの言葉を
瘴魔を消し去り、狂い始めた世界を救う
封印の儀にあたっては、術者の安定した身体状態が望ましい。シルヴィアは先月、十七歳になったところだ。成長期を終えた肉体は成熟し、儀式の準備は
「シルヴィア様は、怖くないのですか……?」
女神官が、恐る恐るといった様子で問いかけた。
「封印の儀は、術者の……シルヴィア様の命と、引き換えに成立すると聞いています」
「少し違います。私は、深い眠りにつくだけですわ」
「覚めない眠りは、死と変わりありません。過去に封印の儀を行った聖女の方々は、目覚めませんでした。数十年眠り続け、一度も起き上がることなく息を引き取ったと聞いています。シルヴィア様は、それが恐ろしくはないのですか?」
「……怖くないと言ったら、
シルヴィアは雪空から視線を戻すと、じっと女神官を見つめた。
「でも、逃げることなどできません。私こそが、
瘴魔と異常気象に
そんな世で、
そして大輪の薔薇が咲き誇るには、多くの手間と金銭が必要でもある。
「私が
シルヴィアが封印の儀を拒絶すれば、大陸にはびこる
「だから私は、迷いませんわ」
まっすぐな瞳で言い切ったシルヴィアに、女神官は自然と
――――自らの未来全てを差し出すことさえ
シルヴィアの宣言のとおり、封印の儀によって世界は救われ、引き換えに彼女は眠り続けることとなったのだが―――――
★★★
――――どうやら自分は死んで、天の
瞳を開いて真っ先に飛び込んできた男の姿に、シルヴィアはそう結論付けることにした。
(驚きね。こんな
芸術品を鑑賞するような心持ちで、ぼんやりと男を見る。
(天の御園の住人は、みな
シルヴィアは世界を救うため、覚めることのない眠りについたはずだった。
命尽きるまで続く、深い深い眠りだ。なのに意識を取り戻し、目の前には今まで見たこともないような――――この世ならざるほどの
「………目が、覚めたのか?」
どうやら、横になった状態から、男に上半身を抱え起こされていたらしい。
背中に触れる腕の感触がくすぐったくて、シルヴィアは声を出して笑った。
「えぇ、目が覚めましたわ。いえ、けど、目が覚める、という表現は正しいのでしょうか? ここは天の御園で、私の肉体はすでに滅んでいるのでしょう?」
ゆったりとした口調で、シルヴィアは男へと問いかけた。
意識はまだ
聞く者の心を
「天の御園、だと?」
金の瞳が、どこか皮肉な色を帯び眇められる。
「そんなものがあってたまるか。天の御園など、おまえたち教国の人間が、人心を動かすために作った虚像にすぎないだろう」
「……え?」
鋭い視線とあざ笑う声に、冷水を浴びせられたように意識が明確さを取り戻していく。
シルヴィアの背が、
「何をするつも――――っ!!」
銀の刃と、
一滴、二滴と。刃に押し当てられた男の指から、血の滴が零れ落ちる。
血を流す男は、あいかわらずの無表情だ。傷は浅いようだが、それでも痛みはあるはず。
シルヴィアは上半身を起こし、男の指を刃から引き離した。血を止めるため、指の付け根を握りこむ。
「指を動かさないでくださいませ。あなた、一体何がしたいんですの?」
「血を見せたかった」
「はい?」
意味が分からなかった。この男は一体、何がしたいのだろう。
「血を見れば、ここが天の御園などではないと理解できるだろう?」
「!!」
予想だにしない言葉に、思わずシルヴィアは言葉を失った。
天の御園は、神の慈愛と光で満ちていると言う。導かれた魂は、永遠の陽光の中に在る。飢えや病苦、争いといったしがらみから解き放たれ、血が流れることは無いと信じられていた。
ゆえに男が流血をもって、ここが天の御園では無いと言うのは理解できるが――――
「ですが、わざわざご自身の指を切らなくても……」
「言葉を尽くすより、目に見える証拠があった方がいい。ねぼけた聖女様の頭を覚ますにも、これが一番手早かっただろう?」
(私の思い違いを正すためだけに、
(いえ、この男の目的はそれだけじゃないわね。ここが天の御園ではないと教えるためだけに、痛い思いをして血を流す必要なんか無い。なのにわざわざ自らの指を傷つけたのは、別の狙いがあるはず。私を動揺させ、この先の会話を優位に進めるためね)
血が流れれば、人は少なからずうろたえるものだ。加えて男は刃を手にし、自らの指を切るという、一見して意味不明な行動を
(私が悲鳴をあげて男を拒絶したら、親切を
シルヴィアは穏やかに目を細め、唇を
美しく清らかな、聖女の肩書に偽りなしと言える完璧な微笑みだったが―――――
(聖女たるもの、
無言で決意を固めつつ、表情は輝くような笑顔のまま。
死ぬ気で
(そもそも、私はなんで目覚めたの? 私が眠ってから、どれだけ時間が経ったの?)
シルヴィアの眠りは、二度と目を覚まさない深いものだったはずだ。なのに
(とりあえず、この無礼男から情報を集めないと
出血の止まった男の指から手のひらを離し、すばやく相手の全身を観察する。
黒髪で長身。年は
(初めて見る紋章ね。でも月桂樹の部分は、プレストリア帝国国章の
目まぐるしく思考を進めつつ、周囲の様子を観察すると、指先に白い薔薇の花弁が触れた。薔薇の敷き詰められた
「今、私の部下に人を呼びに行かせた。じきに教国の人間も駆けつけるはずだ」
「まぁ、ありがとうございます」
現在地がわかって一安心しつつも、シルヴィアの焦りは消えなかった。
とにかく、情報が少なすぎる。シルヴィアが眠ってからどれほどの時間が流れたのか、なぜ目覚められたのか、見当もつかなかった。目の前の男に見覚えは無く、彼の目的もわからない。
「……その軍服、プレストリア帝国の方とお見受けしますが、お名前をうかがっても?」
「アシュナードと呼んでくれ」
そっけない回答に、シルヴィアは心の中で眉をひそめた。
(自己紹介、短すぎるわ。知りたかったのは家名や役職名だったのに、この男、私に情報を与えるつもりは無いようね。やりにくいったらないわ!!)
相手の立ち位置を知らぬまま会話を進めれば、狼の尾を踏む可能性がある。本来なら、家名を告げないのは無礼にあたるが、名のみで通じる功績を持った人間の場合は別だ。こちらから姓を聞き返しては、自分の無知を
(アシュナード……心当たりがないけど、有力貴族なのは間違いないわね。だってこんなにも偉そうなんだもの!!)
「それではアシュナード様、いくつかお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「あぁ。だが、おまえは目覚めたばかりだ。長くしゃべっても大丈夫か?」
「えぇ、おかげさまで。とてもすっきりと目が覚めましたから」
「それは光栄だ」
シルヴィアの皮肉をこめた言葉にも、アシュナードは一切悪びれる様子がない。
やはりというか当然というか、とてもいい性格をしているようだった。
「では、お言葉に甘えて。私、そちらの国の皇帝陛下、クラウス陛下と幾度かお手紙をやり取りさせてもらっていましたの。陛下は今もご
「いや、二年ほど前に
「まぁ、そうでしたの………」
十五年。シルヴィアにとっては一瞬のうちに過ぎ去った、その時間。
今、世界は、教国は、どう変わっているのだろう? 養父や女神官たちは健在だろうか?
いくつもの疑問が押し寄せたが、まずは礼儀として、故人となったクラウス皇帝への祈りをささげるのが先だ。シルヴィアは両手を胸の前で組むと、流れるように祈りの句を唱えた。
「クラウス陛下の魂に、永久の安らぎのあらんことを。そして、新しき皇帝陛下の御世が長く続き、その身が血に汚れることが無いことをお祈りし――――」
「ありがたい祈りだが、残念ながら無理なことだ」
「っ!?」
まさか祈りの言葉を否定されるとは思わず、シルヴィアは声をつまらせた。
今唱えたのは、亡くなった王を
「アシュナード様、あなたは一体、何が仰りたいんですの?」
「事実を述べたまでだ」
アシュナードが、すいと視線を自身の右手の指にやった。
(アシュナードの右手は今、血に汚れている。つまり、それって……)
シルヴィアは、一度息を吸い込み言葉を発した。
「…………お戯れを、アシュナード陛下」
――――目の前のアシュナードこそが、現プレストリア帝国の皇帝。
(この無礼千万陛下さま、またこちらを試したわね)
アシュナードが皇帝であると気づくかどうか。気づいて動揺を表に出すかどうか。
聖女として、要人貴人との会話の駆け引きには慣れていたが、値踏みされるのは不快だった。
(本当、失礼で抜け目ないわね。さっき自身の指を傷つけたのも、私が「その身が血に汚れることが無いことを」と祈りの定番を口にすると予想していたからかもしれないわね)
零れ落ちた血に、シルヴィアが
(意表をつく言動でこちらの呼吸を乱しつつ、先を見越して
シルヴィアに言葉遊びにも似た駆け引きをもちかけ、その資質を測ろうとしたのだ。
もし駆け引きを見抜けず失言すれば、
シルヴィアはアシュナードへの
「アシュナード陛下は、血に汚れてなどいませんわ」
「この指に血がこびりついているのにか?」
「血の汚れとは、身体より魂に染みつくものです。先ほどアシュナード陛下が流した血は、私を気遣ってのものでしょう? ですから、陛下の魂は汚れてなどいませんわ」
「魂が問題となるのならば、なおさら私は血にまみれているはずだ。私は皇帝の
「わかっておりますわ」
揺るがぬ笑みで、シルヴィアは言い切った。
「陛下が軍人だからこそ、ですわ。争いは悲しいことですが、避けられぬ戦いもあるもの。軍人の役目とは血を流すことではなく、国や民を守ることでしょう?」
「理想論だな」
「本質を述べたまでですわ。それと陛下、年齢をお聞きしても?」
「……二十四だ」
唐突に話題が飛び、アシュナードの声がわずかに遅れる。金の瞳が深さと鋭さを増した。彼の虚を
「やっぱり陛下は、まだお若いのですね」
「どういうことだ?」
「十五年前で止まっている私の知識には、先代陛下にアシュナードという名前のお子がいた記憶はありません。つまり陛下は、帝室の直系ではないのでしょう? なのにそのお若さで、皇帝の位を手に入れていますもの。それだけ有能で、臣下の方にも頼りにされているのでしょう?」
「確かに、私は部下と才覚に恵まれているな」
傲慢なその答えは、シルヴィアの予想通りで、待ち望んでいたものだった。
「ならば陛下の魂は、やはり血に汚れてなどいませんわ。もし陛下が、ご自身の魂が汚れていると
「
「詭弁かもしれません。ですが陛下は、私の詭弁を頭ごなしに否定はなさらないでしょう? ならば、それこそが答えですわ」
「………………」
(よかった、今度はこちらが一枚上をいけたようね)
たかが会話のやり取りとはいえ、言い負かされてばかりでは聖女の名が泣くというものだ。
口を
「
「そんな、それほどでもありませんわ」
シルヴィアは謙遜しつつ、内心得意げに胸をそらした。
まだ油断はできないが、これでアシュナードも、こちらを見下し試す対象ではなく、対等な相手と認識したはずだ。あとは会話の主導権を奪われないよう気を付けつつ、じきにやってくる教国の人間を待てばいい。そう思っていたシルヴィアの余裕は―――――
「こんなにも
「聡明だなんて、そんな……………………妻?」
――――たった一言で、弾け飛んでしまった。
「……妻? 私が、あなたの?」
「あぁ、そうだ。美しく聡明で、心根の強い妻を手に入れられて、私も大変うれしいよ」
皮肉気に
自分が、この顔面最上、性格極悪男の妻?
信じがたい事実に固まっていると、アシュナードが身を寄せ、耳元で
「どうした? ひょっとしてまた眠くなったのか? ならば私が寝台に運んで―――――」
「は、離れてくださいませ!! 近すぎます不敬です!!」
反射的にアシュナードの頬を叩きかけるが、逆に振り上げた腕を捕らわれてしまう。
「妻と夫で二人きりならば、これくらいの距離は普通だろう?」
「え、そ、そうですの!?」
夫婦とは、そういうものなのだろうか?
色恋沙汰に
「ではなくて! そもそも、妻とはどういうことなのですか!? 説明してくださいませ!!」
「政略結婚だ。諦めろ」
「身も
叫びつつ、シルヴィアは真っ赤に染まった顔を
聖女として敬われていたシルヴィアは、これほど年頃の異性に密着されたことはない。
普段であればこうも取り乱さなかっただろうが、何せ突然の妻宣言の後だ。
(近すぎるわ!! どこ触ってるのよっ!?)
アシュナードは親しげにシルヴィアの体を抱き寄せているが、政略結婚との言葉の通り、そこに愛情など欠片も無いのだろう。シルヴィアを動揺させ
(まずいわ、このままだとこの男のペースで進んでしまう。仕切りなおさなくては!!)
悔しいが、一度この男の傍から離れて、冷静に事態を
アシュナードの手を強く振り払うと、彼から体を引きはがした。
(これは断じて逃げじゃないわ!! 首を洗って待っているのよ!!)
次に会った時には、決して動揺せず上手く立ち回り、アシュナードを圧倒してみせる。
そう内心で宣戦布告すると、シルヴィアは聖櫃を出て歩き出した。
しかし数歩もいかないうちに、眼前がかすみ足元がふらつきだしてしまう。
(あ、これ、
十五年ぶりに体を動かしたのだ。全身に血が巡り切っていなかったのだろう。
暗転する視界の端で、アシュナードの手が伸び、体が抱き留められるのがわかった。
(ふ、不覚っ!! 最悪よ最悪!!)
よりによって突き放した相手に助けられるなんて、屈辱にもほどがある。
シルヴィアは自らの軽率さを呪いつつ倒れこみ――――――
――――――かくして聖女は十五年ぶりに目覚め、その直後に再び意識を失い――――二度寝することとなったのである。
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