2 セーラー星人

 私にとって田中ハナコは何でもない存在。


 これは正直に言うと嘘だ。

 

 私は憧れていたんだ。誰に何を言われようと自分を変えない田中ハナコの強さに。

 

 自分の中に折れない軸を持つ田中ハナコは、私にとって例え喋った事が無くても、好きな食べ物も音楽も趣味も知らなくても、同じクラスにいるだけで特別な存在だったのだ。その折れない自分だけの地軸が、私にはなかったから。


 たったそれだけ。たったそれだけの事。

 たったそれだけの事で人は声を出せる。

 ただそれだけの事で私の中の世界は変わっんのだ。


 私の人生がループ・ゴールドバーグマシンなら。


 その時出した声が、私の中のドミノを倒した。



 ―――放課後。


 ハルミ達はそれぞれの部活の練習に行った。他のクラスメイトも帰ったり部活に行ったり。

 教室に残っているのはお喋りしている数人の女子と(げ、あの猪鹿蝶トリオもいる)日直当番の私だけだった。


 筆箱を鞄の中に放り込む。書き上げた日誌を手にして私は自分の席から立ち上がる。


「教室の鍵閉めるから、皆もう出て」


 違う。もう一人いた。私と猪鹿蝶トリオのグループと、もう一人、教室の中にいた。


 おさげ髪にセーラー服。膝まで伸びた白いハイソックス。


 田中ハナコだ。相変わらずの無表情な瞳が、いつもよりほんの少しだけ大きく動いている。机の上に置かれた鞄の中と机の引き出しを、一度も太陽の下に出た事がないんじゃないかってくらい白い手が緩慢に、けれど確実に、実測じゃコンマ一秒程度かもしれないけど、普段より忙しなく、何かを探すように往復する。


「日直がもー鍵閉めるって言ってんのに、全然出ようとしない子がいるー」

 

 声がした方を見れば、さっきまで喋っていたのにいつの間にか帰り支度を済ませている猪鹿蝶トリオがいた。


 三人は誰もこっちに顔を向けていない。本当に何気なく、ただの雑談のように喋っている。


「ちょっとー、何か失くしちゃって探してんのかもしんないじゃん。そんなの言わないであげなよー」

「大丈夫だいじょーぶ聞こえてないって。それとも聞こえないふり? 知んないけど、全然気にしてないっぽいし。ていうかむしろ全然相手にされてない感じでこっちが気悪いかも」

「本当それ。セーラー服着て清楚アピール? 感じ悪いよねー」


 ――――ああなるほど、そういう事。

 テストは毎回欠点スレスレ、補修常習犯の私でもこの空気の淀みは一発で分かった。


 けれど私はこの淀みを晴らそうとしてはいけない。そんな事をすれば、私はもっと重苦しい空気を吸わなきゃいけない事になる。


 私は淀んだ空気に押し潰されるように少し俯きながら、田中ハナコに声を掛けようとする。俯きながら、ふと彼女の顔を上目遣いで見た。


 田中ハナコの顔は、目の錯覚か、それとも単なる私の思い込みかもしれないけれど――。


 とても寂しげに見えた。


 その瞬間、私の頭の中で何かがブチ切れた。僅かに残った理性が、田中ハナコとは喋った事も無いのにとか、猪鹿蝶トリオに逆らったら次は私も狙われるとか、心底どうでも良い事を私に告げてくる。


 素知らぬ顔でケラケラと笑い声だけ上げる三人へと、今すぐにでもビンタを繰り出しそうになる右手を必死に抑えながらツカツカと足音を立てて歩み寄る。暴力は振るわない。それをしたら結局は彼女達の思うつぼだ。だから私は口を開いた。


「そうやって聞こえよがしにコソコソ呟くくらいなら、ハッキリ、直接、大きな声で言えば良いんじゃないかな? 言いたいことが有るなら、ちゃんと言わなきゃ伝わんないよ」


 言っちゃった、と私の心の中の保身の部分がため息を吐いた後、バイバイと手を振ってどこかに去っていく。

 確かに、言っちゃった、だ。これからどうなるんだろうか。クラスの中心人物を敵にまわしちゃったんだ。皆に無視されるのだろうか。悪口と陰口とか沢山言われるのだろうか。


 そう考える一方で、私の胸の中をギュッと締め付けていた黒いもやがどこかに消えていくのを感じていた。空気が温かい。伏せていた瞼が開いて、世界がぼうっと光っているように見える。

 こんな清々しい気分になれるなら。もうあの重苦しい鎖に縛られなくていいなら。

 

 うん、心の底からスッキリした! そう思えた。


「ハーーーーッ?」

 

 腰に手を当てて薄い胸を張る私は、何を言われようとそう簡単には揺るがない。呆気にとられたような顔も束の間、猪鹿蝶トリオのトップである、悔しい事に私よりも胸の大きい猪野は、毛染めの跡が残った髪の毛先を指で弄りながら表情を変える。

 それは心の底から苛立っている顔ではなく、ルンルン気分で新しい靴を履いて歩いている時に、泥の中に足を突っ込んじゃった時みたいな顔だった。


「しけたしけた。帰ろー、もー」「しけたしけたー」「しけー死刑ー」


 誇張抜きで火花が散っているんじゃないかと思うくらい視線をぶつけ合わせた私達に降ろされた軍配は、僅差で私の方に向けられた。不愉快だと言いたげな顔をして、彼女達は帰っていった。


 教室のドアがぴしゃりと閉められたのを見て、私はずっと張りつめていた息と筋肉を楽にした。


  あ、そういえば結局彼女らがどこに隠したのか聞いてない・・・・・・。


「ねぇ、何かアイツらに隠されたんでしょ。一緒に探してあげる・・・・・・」

 私はそう言いながら振り返る。


 暑さは夏並でも、日の短さはもうすっかり秋を感じさせる。西日で橙色に染まった放課後の教室。右半身を夕日で染めた田中ハナコの手には、地味なデザインの筆箱が握られていた。

「既に見つけました」

 あ、そうと呟く前に、弛緩していた私の体に動揺が走る。


 鈴の鳴るような声。か細くて、決して聞き取りやすい声ではないが、なぜか通る声を発したのは、田中ハナコだった。

 初めて聞いた彼女の声の可憐さに驚きを隠せない私を気にも止めず、彼女は話し続ける。


「桜田ヒカリ。生年月日は二〇〇二年九月三日。血液型はA。身長百五十八センチ。体重四十二キロ。家紋は橘。所属クラスは一年二組。出席番号は十七番。部活動は無所属。成績は四百人中二百九十三位。得意科目は数学。苦手科目は古文と英語。食べ物の好き嫌いはなく、好きな音楽形態はJ―POP。スリーサイズは――「ちょっと待った!」待機の要請を確認、承認します」


 私の個人情報をつらつらと延べ挙げた田中ハナコの頬を両手で挟む。圧迫されている事を感じさせない電子音声のように整った滑舌で喋ったのを最後に、田中ハナコは黙りこくった。


  私は荒い息を整えながら、つい三十秒前に始めて声を聞いた田中ハナコが喋った内容を確認する。彼女の喋った内容は一つとして間違いはなかった。


 問題はどうして彼女がそこまで私の個人情報を知っているかだ。成績の事なんて誰にも話さないし、スリーサイズなんて私だって知らない(知らないんじゃなくて、無理やり記憶から消しているって? それを言うのは野暮ってもんよ)。

 

 私の眼には、田中ハナコが宇宙人か別の生命体のように見えてきた。


「どうして私の事をそこまで知っているの」

  私は喉を鳴らして言葉を続ける。

「あなたは一体なんなの。田中ハナコ」


 高校入試の時以来、いや、その時以上に真面目な表情をしているであろう私の視線を受けても、田中ハナコは一言も喋らなかった。

 

 馬鹿にされているのかと額に青筋を立てる前に、彼女が最後に言った言葉を思い出した。


  私は恐る恐る話しかける。

「さっきのちょっと待って、って言った事を気にしているのなら、もういいわよ。喋って、お願い」


 私が言い終わるのと同時に田中ハナコは口を開いた。なんて融通の利かない性格なんだ・・・・・・。


「最初の疑問について回答します。私があなたの事についてなぜ知っているか。答えは私がこの学園に配備された時に、この学園に関係する全ての人間の情報を記憶したからです。続いての疑問。私が一体何者なのか、について」

 

 抑揚のない声が、さっきと同じように完璧な滑舌で並べられる。


「その疑問に対する回答を含めて、個体識別名称田中ハナコから桜田ヒカリに対して、話があります」

 

 窓から射しこむ夕日が、彼女の眼鏡のフレームを光らせた。


「この星の消滅と再構築に関して」

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