第4話

「った、たたた大変ですわぁああああ!」


 麗梛妃は兄から届けられた文を読むなり、顔を真っ青にさせて侍女である芙蓉を呼びつけた。


「麗梛様、どうかなさいましたか?」

「っくる、来るの!」

「何がですか?あ、もしかして月のものですか?早くないですか?」

「違うわよ!っ来るのよ!彼女が!」

「彼女?」

「汕子が、来る…!」


 麗梛妃の言葉を聞いた芙蓉は、氷漬けにされたようにその場に固まった。


「も、もしやついに正式な婚約が成立ですかぁあああ…!?」

「いいえ、今回はお兄様自身がお呼びになったみたい。婚約を真っ向から断るつもりらしいけど…。でも林家が猛反対していると記されているわ。なんでも、春までに雪花さんを認めさせることができなければ、汕子との婚約を受け入れるそうよ…!」

「…ど、どうしましょうっ」

「汕子も汕子だから絶対に引かないだろうし…―――っ芙蓉!」

「はいっ」


 こうしてはいられないと、麗梛妃は立ち上がった。


「今すぐ、蘭瑛様と桂林様に連絡を!緊急会議です!!」


 後宮に、小さな嵐が訪れようとしていた。




 ◇◆◇




「あの、こちらに玄雪花さんという方がいらっしゃると聞いたのですが」


 そう言って彼女が雪花を訪れてきたのは、志輝と食事をしてから数日後の事であった。

 仕事を終えてようやく眠ろうとしていたところ、雪花は呼び出されて夜着のまま玄関へと向かった。


「私、林汕子と申します」


 眠たげに目をこすりながら降りれば、そこには立ち姿が美しい一人の女性が立っていた。

 背はすらりと高く、背中に流した黒髪は艶があり、差し込む陽の光を受けて煌めいている。切れ長の涼し気な目に、それを縁取る長い睫毛。すっとした鼻梁に、薄紅色の唇は美しい弧を描く。


「初めまして。貴方が玄雪花さん、ですか?」

「はぁ、そうですけど…」


 汕子と名乗った女は、頬にかかる髪を一房耳にかけると、にこりと笑んで会釈をした。

 銀の花と蝶の髪飾りが、しゃらりと音を立てて揺れる。

 彼女の動作は全て洗練されていて、良家の子女であることは明白だ。

 雪花の後ろ―――玄関の奥から、風牙と帰蝶が顔を覗かせて様子を伺っている。


「…もしかして、起こしてしまいましたか?」


 雪花の姿を見て、汕子は申し訳なさそうに口にした。


「いえ、今から寝るところなんで。できれば手短に話をして頂けると助かりますが」


 こんなお嬢さんが一体何の用だと、雪花は面倒くさそうに頭をかく。

 せっかく湯を浴びたのに、このまま外で立ち話をしていたら風邪をひいてしまう。


「ごめんなさい。でも私、どうしても貴方にお話があったんです」

「…失礼ですが、どこかでお会いしたことが?」


 こんな柳のような美人と会ったことなど記憶にない。


「いいえ、ありません」

「なら要件とは一体、」


 さっさと要件を言ってくれと目を向ければ、彼女は真っ直ぐな目を雪花に向けた。そして目を細めて、婀娜めいた笑みを作る。

 何故かその瞬間鳥肌が立ち、雪花は一歩後ずさった。


「私、貴方に宣戦布告しに来たんです」

「はぁ?」


 随分と物騒な台詞を綺麗な口から吐くもんだ。

 こいつ武人か?と一瞬考えるが、体つきからしてそうではない。

 一体なんの宣戦布告だよ、と意味が分からず首を傾げていると、汕子は雪花に指を突きつける。


「貴方に志輝は渡しません」

「!」


 目を見開いた雪花に、汕子は笑みを更に深める。


「私は幼い頃から彼の許婚候補として育ってきました。一族が決めたからとはいえ、私は心から彼を慕っています。それなのに、彼は貴方を望んでいると」


 雪花はこめかみを指でかきながら、ほらみたことか、とこっそりと毒づいた。

 前々から気になってはいたのだ。姫君達からみたら、あんな注目株は他にいないだろうし、家が家だからそれなりの候補はいるだろうと。


(なんで私が巻き込まれなきゃいけないんだ)


 睡眠を邪魔された上、奴のことでいちゃもんをつけられ、雪花は珍しく苛々していた。

 前だってそうだ。結婚しろと迫ってくるし、保留にしようとしたら脅されるし、こっちは恋愛初心者だ。少しくらい猶予をくれたっていいだろうに。

 一方雪花の後ろでは、風牙が「何よあいつ二股!?最低!!」などと言っている。今にも雪花の前に飛び出て来そうであるが、帰蝶が彼の顔面を掴んで押しとどめている。

 雪花は苛立ちを抑える様に額を押さえて嘆息した。


「…宣戦布告も何も、私は結婚を了承した覚えはありません」

「え…?貴方が迫ったのではないのですか」

「あのねえ!うちの子があんな趣味の悪い奴に迫るわけないでしょ!ざけんじゃないわよ!!あの餓鬼がつきまとってるのよ!」


 後ろからついに風牙が声を上げ始めるので、雪花は黙ってろと鋭い目で睨んでおいた。

 彼が会話に入って来たら余計に面倒だ。 雪花は「ともかく、」と咳払いする。


「私は紅家に相応しくない人間だということは自覚しています。…彼にとって不利益になることはしたくありません」


 そういうと、汕子は僅かに目を見張った。そして彼女は、雪花の顔をまじまじと見つめる。


「…噂とは違う方なのですね」

「は?」

「私、貴方のことは容姿からも考えつかない手練手管で志輝を誑かす、花街きっての悪女だと聞いていましたので」

「…」


 誰だそりゃ。どんな噂が勝手に一人歩きしているんだ。

 雪花は更に頭が痛くなった。


「…ここに住んでいるのは確かです。それ以外は身に覚えがないですけど」

「ええ、そうみたいですね。貴方と話していれば分かります」


 汕子は安堵のこもった息を吐き出した。


「…なら尚更、私は貴方に負けるわけにはいきません」

「…は?」


 汕子は雪花の琥珀色の目をじっと見つめたまま、言葉を続ける。


「家や身分諸々抜きにして、私は貴方に負けたくない」

「は?いや、もう十分勝ってるでしょう。貴方みたいに綺麗な人、この花街でも中々いませんよ」


 思ったままそう告げると、汕子は一瞬虚をつかれたように言葉に詰まり、すぐに口をぎざぎざにさせて言い返す。


「志輝は、容姿だけで人を選ぶ人間ではありません!」

「え、いや、容姿だけじゃなくって。…こうしてわざわざ私に会いに来て宣言するあたり、性格も真っ直ぐだと思います。それに、私を見下すこともなさらないし、出来た方だと」


 女特有の、嫌味や罵声を浴びせられるのだと思っていたが、彼女はそんな気は無いらしい。まぁ宣戦布告しにくるあたり気が強いのかもしれないが、慕う男性が花街の女に嵌ってるなんて噂を耳にすれば心配にもなるだろう。

 一方の汕子は雪花の台詞に、毒気を抜かれたような表情をしている。


「な、何なんですか、貴方…」

「え?」

「敵に塩を送っているつもりですか?」

「え、別に送ってるつもりは、」


 困ったように帰蝶と風牙を振り返れば、二人は呆れた表情をしている。

 何故だ。


「…今回都入りしたのは、私なりに覚悟を決めて来たんです」

「え?」


 当惑する雪花をよそに、汕子は俯きながらキュッと拳を握る。そして、黒曜の瞳に強い光を滲ませながら雪花を睨みつけた。


「私、志輝が好きです」

「!」

「絶対に振り向かせてみせるって、決めたんです。そのために今まで必死に努力してきたんです。―――だから、貴方には絶対に負けません!不釣り合いだからって勝手に土俵を降りるなら、志輝は私がもらいますから!」


 一息に捲し立てて叫んだ彼女は、言い終えてから恥ずかしくなったのか、頬をほんのりと赤らめて、「で、では失礼しますっ」と駆け足で出て行ってしまった。

 取り残された雪花は頸をかくと、深いため息を吐き出す。

 とりあえず一旦嵐は通り過ぎていったが、風雲はまだ立ち込めたままだ。これから荒れることは間違いない。


「…雪花、あんた敵に塩を送ってどうすんだい」


 帰蝶が立ち上がり、片眉を持ち上げて声をかける。


「別に送ったわけじゃない。本当の事だから言ったまでだ。…彼女は、私とは違う」


 雪花は帰蝶から視線を逸らして言った。


(…あんな綺麗な人がいるならそっちにいけよ)


 雪花は心の中で呟いた。

 それも、彼女はお高いところに留まっているだけの女ではないだろう。

 所作は後宮の妃達に遅れを取らないほど美しいし、それにあの真っ直ぐな性格は、腹の中にいちもつを抱えている女達に比べればいっそのこと清々しく愛らしい。

 じめじめとしたわだかまりを内に感じながら、雪花は疲れた、と階段を上って自室に向かっていった。

 そんな彼女の後ろ姿に、声をかけるのを憚られた風牙達は目を見合わせる。


「林って、あの林家よね…」

「だろうね。確か、紅家双子の母親が林家の者だったはずだ」


 林家―――五家に数えられはしないものの、昔から存在する古い名家である。


 そして―――。


「…となれば、相性は最悪ねえ」

「あぁ、最悪だね」


 珍しく、二人は揃ってため息をついた。

 相性が最悪、というのは林家と黎家とのことだ。風牙の実母である春燕と、林家の当主である武聖は壊滅的にそりが合わないのだ。

 どうにも武聖の方が春燕に私的な恨みがあるようであるが、はっきりとした理由は定かでは無い。

 そして春燕も、顔を合わせれば噛み付いてくる武聖のことを害虫扱いだ。


(どうなるんだか…)


 これは荒れそうだ。おそらく春燕もいち早くこの事態を聞きつけるだろうが、はたして彼女はどうでるのか。二人の事は当事者に任せておけと言ってはいたが、元々風牙同様、志輝の事は快く思っていない彼女だ。林家まで出しゃばってきたとなれば、考えを改めるかもしれない。

 まあそれはひとまず置いといて、とりあえずだ。


 ―――することはただ一つ。


「ちょっとあの餓鬼を始末してくるわぁん」


 バキバキと拳を鳴らしながら、物騒な目つきで立ち上がろうとした風牙だったが、帰蝶が襟首を掴んで引き止める。


「待ちな馬鹿!」

「二股なんて許せないでしょっ」

「あのねえ、許婚候補だって言ってただろ。明確な許婚じゃないってことだよ」

「でも、むかつくんだもの!」

「私はあんたのその口調の方がむかつくけどね!」

「ってえ!」


 帰蝶は風牙の頭を煙管で叩くと、深く長い息を吐き出した。


「…それで帰蝶はどうするのよ」


 風牙は叩かれた頭を押さえながら、恨みがましそうに帰蝶をみやる。

 どうする、というのは春燕からの伝言に関してだ。

 帰蝶は煙管を弄びながら、わずかに瞼を伏せた。


「…春燕様には大きな借りがあるからね。期限が来たなら、約束通り戻らないといけない」


 そう言いつつも、帰蝶の口調には迷いがある。

 帰蝶にとってこの紫水楼は特別な思い入れがある。はいそうですか、と簡単に切り離す事などできない。

 十数年前、彼女は先代楼主との間に交わした約束を果たすために、この妓楼の主人となった。愛紗という名を封印して、帰蝶として。

 今でこそ紫水楼はこの花街で一、二位を争う妓楼であるが、いっとき、この妓楼の評判が地に落ちたことがある。彼女はそこから、この妓楼を流苑一にまで再び押し上げたのだ。


「…おまえは充分やったさ」


 風牙は帰蝶を見下ろしながら、彼女の背中をポン、と叩いた。


「…ふん、慰めてでもいるつもりか?」

「率直な感想だろ。相変わらず可愛くない女だな、素直に受け取れよ」

「うるさいよ」


 帰蝶はそっけなくそういうと、風牙の腕を叩いて振り払った。

 素直に言葉を受け取れない性格は、いつまでたっても変わらないらしい。

 苦笑しつつ、風牙は話題を変えることにする。


「そういえば楊任は?姿がみえないわね」

「あいつなら嫌々港に向かったよ。新しい江瑠沙女帝きっての要望で、こっちに滞在する間の通訳兼世話係だとさ」

「へぇ。さすがに断れなかったのね」

「さすがに無理だろう。それに、なんでも奴の旧友も護衛で一緒に来るらしい」

「旧友…?あら、もしかしてネイサンの事かしら?」


 ネイサンとは風牙と雪花が江瑠沙に渡った際、世話になった男のことだ。


「ネイサン?」

「軍人よ。とびっきり、い・い・お・と・こ♪」

「…」


 人差し指を下唇に当てて話す風牙に、イラっとした帰蝶は回し蹴りをお見舞いしておくことにした。

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