第5話

「なんかさ、やけに人が多くない?」


 雪花は刀を携えて紫水楼の前に立っていた。路にはいつも以上に客の往来がある。

 すると横に立っていた柳杞が、あぁ、と答えてくれた。


「喜雨楼の美月が明日で総仕舞いらしい。だから今夜が最後の道中さ」

「そうか…。もう明日なんだ」


 道を挟んだ斜め向いに建つ喜雨楼に視線を向けると、門を出入りする妓女達もやけに機嫌が良さそうだ。

 総仕舞いとなれば滅多にない祝いだから、きっと赤飯やうまい料理も出ているのだろう。そして何より、楼主である美雨にもがっぽり金が入る。


(そりゃ色々大盤振る舞いだわな)


 入っていく客達も、手に祝いの品らしいものをこぞって抱えている。


「そういうおまえも、出ていく日が近そうだな」

「…なんでそうなる」

「おまえだって、そろそろ幸せになってもいい頃だろ」


 てっきり姐さん達みたいにからかわれるものだと思っていたら、柳杞は至って真面目な表情を雪花に向けている。

 いつものような軽口なら「馬鹿言うな」と言い返して終われるのに…。

 雪花は嘆息してから、なんとなしに夜空を見上げた。

 冬の澄んだ空気のためか、夜空がやけに綺麗に見える。今夜は満月だし、星々も一段と輝いている。


「…例え結婚したからって、みんな幸せになれるわけじゃない。その先があるだろ?無理やり結婚したところで、あいつに迷惑かけるのは目に見えてるんだよ」

「あのなぁ。あの紅家の坊ちゃんにとったら、んなもん些細な問題だと思うぜ?むしろ雪花を手に入れられない方が、奴にとったら大問題だろ」

「んなわけないさ。あいつはきっと、今だけちょっと気がおかしいんだ。なんつうか…うん、頭の螺子がおかしいんだよ。冷静になれば、何を持って伴侶を選ぶべきか分かるさ」


 雪花はそう言いながら、ほら、と夜空を指差す。


「例えばさ…。星にも、一際明るい星があるだろ?」

「うん?」

「ほら、あそこ。明るい三つを繋げば、三角形になる」

「あぁ、本当だ」


 夜空の中に浮かぶ、中でも煌めく一等星。そしてそれらを繋いでできる、冬の三角形を柳杞に教える。


「まあ言ったらさ。あいつら良いとこ育ちの人間は、ああやって一際輝いてんのさ。そんで明るい星同士は線で結ばれる。でも、私はその他大勢の星の一つ。誰の目にも留まることのない地味な星だ」


 自分を卑下する訳ではないがそれが世間の見方だ。澄だけでなく他の国を巡り、そこで様々な人々を雪花は見て来た。結局どこの国でも、身分や家柄の問題は同じだ。


「身分相応って言葉は、案外的を得てるんだよ」

「ちょっと待てよ。おまえ、本当に身を引くつもりか?」

「…」


 答えない雪花に、柳杞はいよいよ呆れた視線を寄越した。そして、あからさまに眉間に皺を寄せる。


「あのな、少しは信用してやれよ。確かに俺もあの男は苦手だが、最近は少しましだろ。無駄な笑顔と猫かぶりがなくなって、最近はなんつうか人っぽいというか。表情とか、あの能面みたいな面がなくなってきた」


 要するに感情がわかりやすくなったと言いたいのだろう。

 確かに出会った当初は、あの作ったような表情と、男のくせにやけに丁寧な口調が苦手だった。人間味を感じられない、綺麗な人形のような男———自分とは絶対に縁がないはずの男だった。

 それなのに今、何故か彼との将来を考えさせられている。

 縁とは不思議なものだと自分でも思いながら、雪花は視線を足元に落とした。


(私だって、あいつを信用してないわけじゃない。それは違う。ただ———)


 ただ、あの男の今後を考えたら―――。

 そこに自分はいない方がいい。一族を纏めあげる立場なら尚更の事。一族が納得するべき相手と添い遂げるのが一番だ。生憎自分には、世間が求める淑女の素養は一切ない。後ろ盾もない。

 それに雪花とて、今まで育ってきた環境をそう簡単に捨てられない。

 風牙には育ててもらった恩があるし、これから彼へ恩を返していきたいと思っているところだ。また自分の仕事に対してもそれなりの誇りがある。

 それを取られたら自分が自分でなくなりそうで…何と言えばいいのか、全然先の姿が思い描けない。

 いや、それ以前に自分は―――。


 生き残った自分だけが、幸せになる資格はない。


 少し前に、桂林妃と麗梛妃相手に漏らした気持ちはまだ変わらない。

 黙ったままの雪花を横目に、柳杞は話を続ける。


「奴をそうさせたのは雪花の影響だってこと、皆分かってるさ。おまえだって、あいつの気持ちが真剣なのは分かっているだろ?でなけりゃ女を抱くわけでもないのに、あいつがしげしげと足を運ぶ理由はないさ」

「…女は私だけじゃない」


 深いため息吐き出し、雪花は顔を上げた。


「あいつが変わったなら、あいつ自身を見てくれる人はもっと増える…。それに、元々ちゃんと見てくれていた人だっているかもしれない。それに奴が気づいていないだけで」

「はぁ?おまえ、本当に何考えて―――」


 先日訪ねて来た汕子という女を思い出し、雪花はもう一度、悩まし気なため息をついた。

 柳杞は更に何かを言いかけたが、二人が白い息を吐き出した向こう側に禿を従えた美月が姿を現したので会話はそこで途切れた。

 彼女の登場に往来する人々も足を止め、手を叩いて歓声を上げる。

 この花街、流苑には古くから受け継がれてきた伝統がある。流苑から出ていく妓女は、白を基調とした豪奢な衣を纏って流苑の大通りを歩き、得意先にあいさつ回りをするのである。白を基調とするのは、妓女の新しい門出を迎えるにあたり、身を清めるためだと言われている。

 だから今、美月が身に纏っているのは白い襦裙に同じ色の背子。差し色として、帯だけが藤色だ。髪は左右二つに分けて胸元に流し、髪飾りの代わりに白い香雪蘭を挿している。

 誰かが言った。今夜は彼女の名前通り、美しい月が空にかかっていると。

 なるほど。実際今夜は美しい満月だ。

 皆の視線を一身に受けながら歩む美月も、足を止めて夜空を見上げた。

 そしてその月を、愛おしそうに見上げて笑んだ。

 決して派手な女ではないが、月の様な静寂な美しさを身に纏っている。

 この色街で生きているとは思えない清廉さは、まさに天女のようだ。自分が絵師なら、きっとそういう風に彼女を描く。

 あの笑みは、明日、ここから連れ出してくれる愛しい男を想って溢れるものなのだろうか。


「綺麗だね、美月さん」

「ああ…。幸せそうだ」


 見物人に混じって、店の前から遠目に眺める雪花と柳杞は、仕事も忘れて彼女に魅入った。

 それほど魅惑的であったからだ。


 だが、それも一瞬だった。


 歓声は一瞬にして、突然止んだ。


「―――」


 何が起きたのか。

 彼女の胸に、一本の矢が突き刺さった。

 そして周囲の悲鳴が上がるまでに、続けざまに矢が放たれた。


「―――!?」


 地べたに倒れる美月。歓声が悲鳴に反転する。

 雪花は悲鳴が上がると同時に、柳杞と共に駆け出した。喜雨楼の男衆も駆け出してくる。


「―――あそこだ!」


 屋根の上に不審な人影を見つけるが、その影は弓矢を放り投げて屋根を伝って逃げ出した。


「俺が行く!」

「分かった!」


 柳杞と喜雨楼の男衆らが人影を追って走り出した。雪花は逃げ惑う人込みをかき分け美月の元へと駆けつける。


「美月さん―――!」

「……て…えて…」


 三本の矢を身体に受けた美月の目は虚ろだった。ただ、何かを呟いている。

 何を、と雪花は彼女の口元に耳を寄せる。


「ごめ…あり、がと……伝え、て……」

「美月さん!」

「…うれ…し…」


 腕の中の存在が、一気に重みを増した。

 目を見開いたまま、彼女は事切れた。

 まだ体の温もりはあるのに、胸の鼓動がぴたりと止んだ。

 彼女付の禿が、呆然としたまま動けずに涙を流している。姐さん、姐さんとか細い声で呼び続けている。目元に引いた紅に涙が混ざって、まるで血の涙を流している様だ。


 ———凛。


 自分を呼ぶ声が蘇る。

 血で滑る掌が、腕の中の重みが、光を失った双眸が。

 姉の死に際を否応なしに思い起こさせた。


「あんたらどき!美月、美月———!」


 美雨が顔を蒼白にさせながらも、帰蝶の腕を引っ張って駆けてきた。

 だが帰蝶は美月の状態を見るや否や、首を横に振って美雨にもう手遅れだ、と呟く。


「心臓を貫かれてる。もう無理だ」

「っそんな…。助けられられへんの!?」


 縋るように言う彼女に、帰蝶は目を閉じて、もう一度首を振った。

 そして帰蝶は、開いたままの美月の瞼をそっと閉じさせてやる。


「雪花、あんたは店に戻って血を洗ってきな。萌萌には私から伝える」

「…」

「雪花…?」


 美月を抱えたまま動かない雪花を不審に思った帰蝶が、雪花の腕を掴む。


「———あ…」


 呆然と帰蝶を見上げれば、怪訝そうな、心配するような眼差しとぶつかった。

 雪花は一度瞬きし、血で滑る手で拳を握った。


「…ごめん。行ってくる」


 今は過去の記憶に縛られている場合じゃない。

 雪花は二人に美月の身体を預けると、人混みをかき分けて店へと引き返していく。

 しかしその途中、突然背後から腕を引かれて足を止めて振り返った。

 そこには、今は会いたくなかった志輝の姿がある。


(なんでこんな時に…)


 雪花は唇を噛んだ。


「雪花、一体何の騒ぎですか」

「…妓女が殺されたんです」

「!?」


 すると、赤提灯の光が照らし出した雪花の手元を見て志輝は顔を歪めた。


「怪我を…!?」


 そう言って雪花の手を取ろうとするが、雪花はその手を衝動的に振り払った。

 思いのほか強い力で、志輝が驚いたように目を開く。しまった、と思ったがもう遅い。

 雪花は気まずそうに視線を逸らした。


「…すみません。あの、私の血じゃありませんから、大丈夫です。本当に。それに、下手に人の血に触れない方がいい」

「…」


 志輝は、顔を合わせようとしない雪花をしばし眺めると、懐から手巾を取り出した。


「…なら、せめてこれを使ってください」


 そう言って雪花に手渡す。怒るわけでもなく、ただ静かに。

 雪花はそれを素直に受け取ると、礼を告げた。


「ありがとうございます…。あの、でも今日は来る予定、なかったですよね」


 志輝はいつも、ここに来る日をあらかじめ告げてからやってくる。すると志輝は、微妙な顔をした。


「あぁ、それは———」

「おい、何かあったのか?」

「なんだか偉い騒ぎなんだけど」


 志輝の背後から、ここにいるはずのない声が聞こえて雪花は驚いた。


「…羅儀…?それにグレンまで…」


 そこには片方の目を眼帯で隠した羅儀と、着流し姿のグレンの姿があった。


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