第3話

 黎家の屋敷、奥深く。そこにある小部屋に風牙はいた。

 香壇に立てられた三本の香から煙が細く立ち上り、桂皮の香りが部屋を包み込んでいる。

 彼は祀られた位牌の前に両膝をつき、両手を左右に広げると、次に手のひらを合わせて音を鳴らす。乾いた音は水面に波紋を広げるようにして、静寂な室内に響き渡る。

 それを数回繰り返すと、風牙は床に叩頭した。

 位牌に名を刻まれているのは、洪潤、千珠、美桜の三人の名だ。


「———あの糞狸め。消えたのはいいが、結局煙に巻いただけだな。気に食わん」


 吐き捨てるようにそう言うのは、彼の母親である春燕である。彼女は部屋の入り口にただずみながら、舌打ちと共に吐き捨てた。


「…国と王家の手前、それが奴の譲歩できる範囲だったんだろ。結果はどうであれ、彼らの汚名を注いだんだよ、あの子は」


 風牙は面をあげて居住まいを正すと、渋々ながらも春燕と向き合った。

 というのも、本日は春燕から急遽呼びだしをくらったのだ。痛い目にあいたくなければ至急家に戻ってこいと。どうせ戻っても痛い目に合うというのに(そんなことを言えば、二度と日の目を拝めなくなるので、口が裂けても言えない)。

 早く帰りたいと実母相手に緊張していると、彼女は風牙を流しみて唐突に切り出した。


「おまえ、今後はどうするつもりだ」

「え、俺?特に決めてないけど。雪花と一緒にあそこにいるかな」


 そう答えれば、風牙と似た容貌を持つ春燕は両腕を組んで彼を見下ろす。


「なら言い方を変えるぞ。雪花がいなくなれば、おまえは今後どうする」

「はぁ!?どういう意味よ!」


 風牙は声を荒げたが、咄嗟に女口調が出てしまい、あっ、と思った時にはすでに遅かった。春燕に竹刀で頭を叩かれる。

 なんで家で竹刀を持ち歩くのだ。


「いってぇえええ!」

「ふざけた事を抜かせば徹底的に教育しなおすぞ」

「こんな神聖な場所で叩くか普通!」

「こんな場所でふざけた口調で話す奴がいるか阿呆め!」

「至って真剣だよ!ていうか、雪花をどうするつもりだよ!」

「私は別にどうするつもりもない。ただ、紅家の小僧が正式に結婚を申し込んできた」

「はぁあああああ!?」

「うるさい!」


 唇をひん曲げて目を最大限に見開いた風牙の頭に、もう一発、竹刀が叩き込まれる。


「なんで母さんを通すんだよ!」

「おまえと違ってまともだからな」

「…まともな奴が竹刀持って屋敷の中うろうろするわけないだろ」


 ぼそりと呟けば、竹刀を眉間に突きつけられた。


「何か言ったか?」

「…いえ、滅相もございません」


 ———殺される。

 本気でそう感じた風牙は額に脂汗を浮かべながら、首を必死に横に振った。この母親ならやりかねない。


「あの小僧は本気のようだな」


 春燕は竹刀を下げると鼻を鳴らした。


「なんだよ。あの餓鬼、黎家の後押しでも求めてきたか」


 雪花は本来なら春燕の姪だ。過去の件がとりあえずは解決した今、黎家の一員となっても問題ない。家名に縛られる事になるだろうが、紅家と婚姻を結ぶにはもっとも良い手段だろう。

 気にくわないな、と思いつつ。けれども雪花自身が望むのなら、風牙とて協力するつもりだ。おそらく、目の前にいる母親も。

 風牙はちらりと春燕の表情を窺うと、彼女はあからさまに眉をひそめ、鬱陶しそうな顔をしていた。


「…奴はただ報せに来ただけだ」

「黎家の養女にしろとか言ってこなかったのかよ」

「ああ。おまえの言う通りであれば、甘い事を抜かすなと一刀両断して追い返すつもりだったのだがな」


 訂正しよう。春燕は、風牙よりも協力する気はないらしい。


「…だから気に食わんのだ、あの小僧は」


 何かを思い出したのか、終いには舌打ちする始末だ。

 もうすぐ冬が終わろうとしているのに、この母親は年がら年中冷気を放ってくる


「…なんかあった?」


 風牙は恐る恐る尋ねた。


「ふん、奴め。協力は要らんと言ってきた。黎家の協力無しに、周りに婚姻を認めさせるとな」

「!」

「相変わらず腹の内を読まさせぬ小僧だ。さすが、最年少で家督を継いだだけはあるか」

「…まさかあいつ、家を捨てるつもりじゃないだろうな」

「それはないだろう。紅家は我ら五家の中でも一族の結束が強い。そう簡単ではない。ったく、雪花も雪花だ。なんであんなややこしい陰険男を釣り上げるのだ。もっと普通の平々凡々な男で良いというのに。何でああいった癖の強い輩を引き寄せてくる」


 そんなの知るかい、と声にだして言いたい。大体自分達の癖が強いのだから、同類を引き寄せるということを何故考えない。

 類は友を呼ぶという諺を知らないのか。

 身近でいえば、兄の一人である静の嫁だっておそろしい程個性が強いし、屋敷にいない風牙の父親もある意味特殊だ。


「…えっと、じゃあ、話はそれだけなら帰らせてもらうけど」


 さっさと花街に戻りたい。ここにいたら色んな意味で気力を削られる。

 だが、そうは問屋が卸さない。


「話はまだ済んでいない。待て」


 腰を上げようとしたら、視線だけでその場に押しとどめられた。


「雪花の件は当事者二人に任せる。二人に選ばせろ。———本題はここからだ」

「え、」


 それが本題じゃなかったんかい、と内心突っ込みながら風牙は身を構える。


「あの狸爺の辞任に伴い、奴と一緒に責任を負い辞めた者達もいてな。近々官吏の移動が行われる」

「…へぇ、大変だな」


 嫌な予感がしてきた風牙は逃げ出したいが、あいにく扉には春燕がもたれかかっていて出口を塞いでいる。

 他人事のように答えながら逃げ出す方法を必死に考えるが、目の前の敵を倒さない以外に方法はなさそうだ。

 そして案の定、春燕は予想した言葉を風牙に投げてよこした。


「おまえ達三人に要請がかかった。———そろそろ戻れ」

「…は。冗談はやめてくれよ、母さん」


 自分達三人が中央を去ってから早十年余り。今更戻って国に仕えろというのか。


「冗談ではない。おまえはこの十年、各国を見て見聞も広がっただろう。今後、迦羅との国交が開かれるなら外交は重要になる。礼部がおまえをと、せっついて来てうるさくて仕方がない」

「…母さんなら一喝で断れるだろ」

「相手はあのしつこい蛇女だぞ。こっちまで神経症になる」

「礼部尚書、まだ変わってないのか」


 風牙は遠い記憶を思い出し、頬を引きつらせた。春燕にそこまで言わせる怖いもの知らずな女は、後にも先にも“彼女”しか見たことがない。

 春燕は顔を不快感で歪ませたまま、胸元から書状を取り出し風牙に渡す。


「愛沙には再び医官長として打診がきている。彼女の持つ技術と腕は後に伝えねばならん。それに彼女の指導があれば、医学の水準を江瑠沙に近づけさせることも可能だろう。そして楊任は秘書省と御史台を掛け持ちさせろ。あいつの無駄に記憶力のいい頭もそろそろ使わねば宝の持ち腐れだ」

「…」


 楊任は渡された書状を見下ろしながら嘆息する。

 自分の場合は雪花の件があって官吏の任を必然的に解かれた。飽き性の楊任はともかくとして、帰蝶には彼女なりの理由がある。


「あいつらが今さら戻るとは思えないけどな…」


 風牙はそう呟くと、書簡を胸元にしまい込んだ。

 一つのことに区切りがついたのなら、また一つ、始まりがあるらしい。




 ◇◆◇




 そして一方、紅家の屋敷でも、空気が一瞬にして氷のように張り詰めていた。


「———今、なんと言ったのだ」

「玄雪花という女性を伴侶として迎えます」


 感情を押し殺しながら問うのは林武聖である。そしてそれに答えるのは、普段通り、柔らかな微笑を浮かべる志輝だ。武聖は志輝の伯父———つまるところ、母の兄にあたる。

 彼は志輝達双子の親代わりなのだが、これがまた非常にお堅い人物だ。堅いというか古風というか。伝統としきたりを重んじる。

 凛々しい太い眉に目尻は吊り上がり、いかつい顔つき。それに加え、たいていの場合は腕を組んでいることから、仁王像のようだと影で囁かれている。


「誰だ、その女は!」


 ちなみに声もでかい。初対面の人間なら萎縮してしまうが、ここに集まっている一族の者達は慣れているから表情を変えることはない。中にはつまらなさそうに、片耳を押さえながら煎餅を摘んでいる強者(優のことである)さえいる。

 しかもこの場に駿がいないから、こっそりと携帯した蜂蜜をかけている。恐ろしい執念である。


「紫水楼で働いています」

「妓女なのか」

「いえ、用心棒をしています」

「なら尚更反対だ。伴侶として迎える女性は好きに選んで良いとは言ったが、それは汕子を凌ぐ女性がいたらの話だ。その者、教養や家柄はどうなのだ!」

「教養は不明ですが、世の中の道理はよく分かっておりますよ。あと、彼女に家柄なんてありません。ただの一庶民です」


 まさか迦羅皇帝の孫娘であると教える訳にもいかず。そして黎家の血筋であることも、春燕に啖呵をきった以上、自分の口からは言うことはできない。


「なんだと…?そんな女を私が許すと思っているのか?もう二十になったのだ、他にめぼしい女がいないのなら、約束通り汕子を娶れ。彼女は容姿、教養、性格、全てにおいて優れておる」


 先ほどから会話の中に出てくる汕子とは、林家の遠縁にあたる娘で、一族が勝手に決めた嫁候補の一人だ。雪花とそう年は変わらない女性で、志輝も幼い頃から何度か顔を合わせている。


「汕子は確かに良妻賢母になるでしょうね。何せ、そう育てられててきた娘ですから」

「不満か?」

「そりゃ不満だろう。興味のない女を押し付けられるほど萎えるものはない。なあ、皆もそう思うだろう?」


 志輝の代わりに答えたのは優である。彼は煎餅をぺろりと食べると、でっぱった腹を摩りながらため息をついた。


「好きな女を娶ればよい。家や風習に縛られるなど時代遅れよ。そんなことで潰れる紅家ではない。それに志輝が認めた女だ、人とは違う何かを持っておるということに何故気づかん。あの駿を負かしたらしいぞ。それに先日の皛家の件、貴妃を助けたのもその娘よ。まったく、年をとって更にかっちかちの頭になっておるな。お主、その年季の入った石頭も大概にした方がよいぞ」


 優は甘党であるが、意見は辛口である。


「何度も何度も結婚に失敗しているおまえは黙っていろ!砂糖漬けの頭をしたおまえに言われたくはない!」

「恋する回数が多いだけよ。それにお主は奥方と娘に毛嫌いされているではないか。もし捨てられたらどうする。お主の場合、私みたいに次の結婚相手は見つからんだろうよ」

「なんだと、この小太りめ!」

「お主こそ頭のてっぺん、隠しているようだが少々薄くなってきているのではないか?」

「「…」」


 不毛な言い争いが始まったな、と皆は目を伏せた。この二人は意見がぶつかり合うと、どうにも互いに引くことをしらない。

 他の者達が、早く止めろと志輝に目で訴えかけてくる。

 志輝は咳払いをして間に割って入った。


「ならば伯父上を納得させる事ができれば、結婚を認めてくださいますか」

「ふん、私は納得などせんぞ!それでもよければ好きにするがよい!」


 その言葉に、志輝と優は目を見合わせる。


「ということは万が一納得すれば、お主、潔く認めるということだな?」

「そうだと言っておる!だがそんな状況は訪れんわ!」

「ほほ、言い切ったな。その言葉、ゆめゆめ忘れるなよ。ならばお主達もそれでよいか?」


 優がぐるりと他の顔ぶれを見渡せば、彼らは目で頷き返した。

 志輝は味方になってくれている優に深く感謝する。


(既に手は打った。…今さら、引き返せない)


 少々手荒くなるが、雪花相手には多少なりとも強引な手段に持っていくしかない。

 あとは彼女の気持ち次第だ。

 伸ばし続けているこの手を彼女が取ってくれるか———。

 いや、何としてでも取ってもらおう。

 奪う形にしたくない。彼女自身に自分を求めてもらいたい。

 共に、歩んでほしいから。


(…が都入りするまでもう日がない。揉めるだろうが、この時期を逃しては一族を言いくるめられない)


 志輝は珍しく賭けに出ることにしたのだ。

 この絶好の機会を逃さないために。


「この小太りめ!」

「禿げに言われたくない。痩せれば私は美男だからなぁ」

「あぁ!?」


 まだ不毛な言い争いを続けているおじ二人を眺めながら、志輝は雪花を手に入れるための算段を頭の中で立てるのであった。

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