第2話

 花街の赤提灯に光が灯り始める。

 自室から階下に降りようとしたら、ちょうど姐さん達が雪花を呼んでいた。


「雪花、旦那様が迎えに来たわよぉ」


 旦那じゃない、といっても紫水楼の面子はにやにやと雪花を揶揄ってくるだけなので、雪花は反論することもしなくなってしまった。

 迦羅から戻ってから起きた、赤面必死のあの公開処刑からというもの、志輝は時間を見つけてはこうして会いに来る。

 …といっても、紫水楼で酒を飲んで帰っていくだけだが、今日は珍しく、夕飯を外でと誘ってきたのだ。

 下に降りれば、帰蝶が帳面をつけながら煙管を吹かしている。紫煙を色気の漂う身体に纏わせながら、彼女は雪花の格好を上から下から眺めると「まずまずだね」と及第点をくれた。


「あのらに頼んで正解だったよ」

「…普通でいいのに」


 せっかく二人で外出デートするんだからと、雪花は秀燕と萌萌に無理やり着替えさせられていた。上衣は白、裳は深い紅葉色で合わせ、その上には黒い外套を羽織っている。伸びた髪まで結われそうになり、それはさすがに断った。とりあえず、邪魔にならないようにいつもの様に一つに括っている。


「分かってないね、馬鹿。あのね、彼は紅家の当主であることに変わりないんだよ。あんたが少なからずあの男を想うなら、これからは少しくらい気を使うべきだ」


 不貞腐れた顔をしながらも、雪花とて帰蝶の言いたいことは分かっていた。花街で暮らしているのならば尚更のことである。

 彼は、腐ってもあの五家の当主だ。そしてかたや雪花といえば、本当の出自はどうであれ、結局は“玄雪花”として生きる事を選んだ庶民の一人である。

 雪花は、そのあたりの道理は分かっているつもりだ。だから、安易に結婚などという決断はできない。そこまで夢を見られる頭など持ち合わせてはいないのだ。


「…分かってるよ」


 雪花はため息混じりに呟くと、玄関へと向かっていった。


「ありゃ分かってない顔だねぇ」


 帰蝶は雪花の背中を見つめながら、後ろで寝ころんでいる楊任に話しかける。


「誰かさんのおかげで変に賢いからね、雪花は」


 本に視線を落としたまま、楊任は一つ欠伸をした。


「夢見る暇もなく現実しか見てこなかった娘だからね。…ややこしくなりそうだよ」

「確かに、あの麗人の方が夢見てるかもね。それより煩い風牙は何処に行ったの?」

「黎家に呼び出しくらったみたいだ」

「なるほど。だから静かなんだ」


 たまにはこういう時も必要だが、二人は何となく嫌な予感を感じていた。

 この静けさは、きっと何かの前触れだと。

 だが口にしたら本当にそうなってしまいそうで、二人は知らぬふりをした。



 ◇◆◇



 あれから志輝と雪花の距離は特に変わらない。

 他愛もない会話をして、束の間の時間を過ごすだけ。それに、志輝と一緒に白哉や翔珂も一緒に花街に来ることもあり、二人きり、というのはあまりなかった。


「ようこそいらっしゃいました」


 だが、今日ばかりは二人だ。

 雪花は志輝に連れられ、玉環の営む料理屋にやって来ていた。玉環は相変わらず和やかな笑顔で出迎えてくれる。


「ふふ、また来て下さったのね。ということは、志輝様。ようやくいいお返事をもらえたということね」

「とりあえずは、ですよ」


 志輝は美しい微笑を唇に浮かべながらも、杏仁型の目で雪花をそこはかとなく責めている。“結婚”という問題を宙に浮かせたままにしているからだろう。


「捕まえたと思っても、猫の様にするりと逃げて行ってしまうので」


 誰が猫だ。ちゃんと認めることは認めたというのに。

 雪花は知らんふりをして席につき、差し出された酒に口づけた。コクのある酒だが、できればもう少し辛口がいいな、とこっそりと思う雪花である。

 志輝は席につきながら、食事の準備をする玉環と話を続けている。


「猫、ですか」

「ええ。誰かに飼われる事を良しとしないようで」

「なるほど」

「なので、そろそろ猫の逃げ場を奪おうと思いまして」


 物騒な言葉に、ぴたり、と雪花の手が止まった。雪花は警戒するよう目を光らせれば、柔らかく微笑んでいる志輝の目の奥にも、猟犬のようなぎらつく光が見えた。

 二人の視線がぶつかり合い、見えない火花が散る。


「あら、それは中々妙案ですね」


 何が妙案だ。いきなり突然のおっかない発言に、雪花は顔を盛大に引きつらせながら酒杯を卓に置いた。自分を猫と言うなら、今まさしく全身の毛を逆立てている。そして志輝は、猫と対峙して牙を見え隠れさせる猟犬といったところか。


「…結婚はまだ無理です、とお伝えしたはずですが」

「まだ、ですか。なら、いつまで待てば色よい返事を聞かせてくれますか」


 二人の会話を他所に、玉環が食事を次々に運んで来てくれる。どれも彩鮮やかで美味そうである。特に、炭火の上に置かれた土鍋には鴨肉がぐつぐつと煮えていて、生姜と胡麻油のいい匂いが漂ってきて食欲がそそられるが、目の前の御仁のせいですぐには食べられなさそうだ。

 一方、配膳を終えた玉環は、睨み合う二人を楽しそうに眺めて退室していく。

 どこに楽しめる要素があるのか謎である。


「未定です」


 とりあえず、雪花はきっぱりと言い切った。すると、すぐに咎める反論が返ってくる。


「雪花、貴方は稀代の悪女にでもなるおつもりですか」

「何のことですか」

「だから、そういうところがですよ。生殺しという言葉を御存じですか。貴方は恋人を放置して楽しむ趣味でもあるんですか」

「あのですね、如何わしい言い方はやめてくれませんか」

「据え膳食わず、なんて真似、私はできませんからね」

「なら食べましょう。今まさにその据え膳なんちゃらですよ。いただきます」

「ふざけているんですか。本当に食らいますよ」

「ああもう、料理が冷めます!食べながらでも話はできるでしょうがっ」


 しつこい、と言わんばかりに雪花は声をあげると、取り皿に料理を装い志輝に突きつける。ムッとした顔をしながらも志輝は皿を受け取り、とりあえずは箸を持って食べ始めた。

 雪花も一旦落ち着こうと、酒をなみなみ注いで一気に飲み干す。


「相変わらずいい飲みっぷりですね」

「飲まないと思考が訳わからなくなりそうなんでね。…で、何でそこまで結婚に拘るんですか」


 酒を煽って、雪花も黙々と料理を食べ始める。


「貴方の周りには伏兵が多いので。早く、名実共に私のものになってください」

「は、伏兵?」

「グレン殿下に羅儀殿下。それにないとは思いますが、翔だって貴方の幼馴染。養父の風牙殿だって…。それに花街に置いていたら、否が応でも男の目につくじゃありませんか」

「…かなり考え飛躍してませんか。大丈夫ですかその頭。あのですね、そんなこと言い始めたら志輝様なんてすけこましですよ。初対面の、すれ違うだけの女性がどれだけ振り向くか知っていますか」

「外見だけ良くてもどうしようもないでしょう。本性を知れば裸足で逃げ出していきますよ。大体すけこましって何ですか、酷いですね」

「そのままの意味ですよ。だいたい、その本性を知ってる私も逃げだすかもってことは考えないんですか」

「私は逃がすつもりはありません。だから早く嫁いでください。結婚の前に、先に腹が膨らむのは嫌でしょう」

「笑顔で物騒な台詞を吐いてんじゃないですよ。脅しですか犯罪ですか」


 要するに、結婚を承諾しなけりゃ既成事実作るぞと言いたいのだろう。どこぞの犯罪者だ、おい。

 まぁ雪花とて、花街で暮らしている人間だからか、風牙というあんな養父を持っているからか、婚前交渉自体は別に構わないと思っている。推奨するわけではないが、子供さえ作らないのであれば別にいいんじゃないかな、と。お堅い良家で育ってきた訳でもないし。

 だがこんな事を言ってしまえば寝台に連れ込まれてしまいそうなので絶対に言わない。

 奴のことだ、涼しい顔をして脅しを実行する。孕ませられる。


「なら、さっさと承諾してください」


 全く話が進まない。また話は振り出しに戻る。

 何故そこまでそういう形にこだわるんだ。

 雪花は鍋に手を伸ばして、鴨肉を羹ごとすくい取った。


「あのですね。志輝様、貴方は紅家の当主でしょう。私なんかを娶ろうとしたら、色々問題大有りでしょう?」


 生姜の良い香りを楽しみながら、ぱくりと食べる。言葉では、志輝に手厳しい現実を突きつけながら。

 良家同士の婚姻なら問題ない。つり合いは十分に取れ、世間からも認められる。だが自分の場合は別だ。出自はどうであれ、結局は身分のない自分が紅家に嫁げば、紅家の家名に泥を塗るようなものだ。


「えらく堅い事を考えますね」

「ええ、現実をよく知っていますから。…あ、美味しい」


 薬味がよく聞いてきて、体の芯から温まる感じがする。こんな寒い冬場にはもってこいの料理だ。


「私は、今度の一族の集会で宣言するつもりです」

「何をですか」

「貴方を紅家に迎え入れる事を」

「———…は?」


 温まりそうな身体が、志輝の一言で急激に冷えた。冷えた、というより凍った。

 一方そんな雪花を見て、志輝は意地の悪い黒い笑みを浮かべる。凶器のような美顔と相まって、地獄の閻魔王も驚いて逃げ出しそうな、底知れない恐ろしさを醸し出している。


(久々に見た。このおっかな顔)


 ということは、彼は本気マジである。


「遅かれ早かれぶつかる問題です。なら早い方がいいでしょう。反対されるなら、黙らせるまで」

「ちょ、ちょっと待ってください。私の意志は!?まだ考えられないって言ったばかりじゃないですか!」

「一月大人しく待ちました。これ以上待っていたら気が触れそうです。私を犯罪者にしたくなければ、さっさと覚悟決めてください」

「忍耐短すぎだろ!この性悪貴人!」

「何とでも。貴方こそ人の気持ちを弄ぶ悪女じゃないですか。貴方がはぐらかそうとするなら、私は周りから着実に包囲していくだけです」


 絶対に引かない固い意志を滲ませる志輝の目と、一人で勝手に物事を進めようとする志輝を咎める雪花の目が激しくぶつかり合う。


「紅家に泥を塗るおつもりですか。私の出自はどうであれ、今は一庶民です」

「身分が何だと言うのですか。そのくらいで泥に塗れる紅家ではありません」


 志輝も手元にある酒を一気に煽ると、カタン、と卓に音を鳴らして置く。


「多少揉めるとは思いますが、私は私のやり方で認めさせます。―――だから、貴女も覚悟を決めて下さい」

「覚悟?」

「ええ」


 長いまつ毛を伏せてその目をいったん隠すと、志輝は席から立ち上がった。そして改めて真剣な眼差しを雪花に向ける。冗談も意地の悪さもない、ただ真っすぐな目だ。


「私は貴方と共に歩みたい」


 志輝は雪花の元へと足を進めると、腕輪を嵌めた雪花の手を恭しく取った。そして片膝をつく。


「だから、私のものになる覚悟を。私を貴方のものにする覚悟を。私の心は既に決まっています」


 見上げてくる目を逸らしたいのに逸らせない。それはこの男の見えざる力か。まるで引力の様に、時折その視線に囚われる。

 腕輪に落とされる口付けを見下ろしながら、雪花は羞恥に耐えるように唇を噛んだ。


(この、すけこまし…!人の言うこと、少しは聞けよっ)


 雪花は、変に動悸のする胸を押さえたくなった。

 振り払えない理由は分かってる。それに気づいてる。だからこの気持ちを認めた。

 以前みたいに軽く、冷たくあしらえる程、彼の存在は小さくない。

 意地が悪くとも、彼の持つ優しさとその熱に気づいている。


 だからこそ、簡単に頷くわけにはいかないのだ。


 雪花は自身を落ち着かせるために、震える細い息を吐き出した。そして睫を伏せながら、彼の手からそっと自身の手を引きぬく。


「…そこまでおっしゃるなら、止めても無駄なんでしょうね」


 自分の両の手を重ねるようにして握りしめると、志輝を見遣る。


「わかりました、好きになさるといいです。———私の言い分が、否が応でも分かるはずですから」

「…貴方もなかなか頑固ですね」

「ええ。志輝様に負けないと思いますよ。…さぁ、早く食事を食べましょう。冷めてしまうともったいない」


 雪花は二人の間に流れる空気を変えるべく、空になった志輝の杯に酒を注いだ。

 一方部屋の外では、二人のやり取りに、入るに入れなかった玉環が困ったように立っていた。


「…これは揉めそうねぇ。杏樹に知らせておかないと」


 玉環は一つため息をついた。

 そして志輝がようやく席に戻ったのを見計らってから、残りの料理を出すべく中へと足を進めたのであった。

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