笑顔でいられる場所
ひなたサンの先導で海に向かうと、案外穴場らしく人気はほとんどなかった。まだ本格的な海水浴シーズンってわけでもないし、いいタイミングかもしれない。
「さて、ってなんで着替えてないの?」
太陽の下に肌をさらしてさらに気分が上がっているひなたサンは、ティーシャツにハーフパンツの俺に全力で人差し指を突きつける。ミステリーの探偵が真犯人を名指しする勢いのハイテンションだ。
「いや、だって海だぜ?」
「そうよ。海よ。海と言ったらやることは一つでしょうよ」
「もちろんだ」
夏の海、空は真っ青な晴天、白い砂浜。そうなればやることは決まっている。
「もちろん泳ぐ!」
「砂浜ランニングだ!」
同時に声を発したのに内容は少しも合っていない。おかしい。こんなところで話が合わないとは思わなかった。
「砂浜はつまさきを鍛えるのにいいんだぞ」
「知らないわよ、そんなの」
「なんでだよ。常套手段だろ」
海はいろんなところに自然のトレーニングポイントがあるんだぞ。砂浜はもちろんのこと、海の中は大量の水の抵抗を受けられるし、岩場はいくらでも握力強化に役立ってくれる。遠泳すれば全身の筋肉を余すことなく鍛えられる。
「アタタタタ、アッタァ!」
「お、トニーちゃんもわかってくれるか!」
トレーニング向きのロングスパッツの水着を身につけたトニーちゃんが俺に賛同してくれる。ここでもまったく変わらない全身黄色なのは気になるが。ほら見ろ、わかるやつにはわかるんだよ。
「アンタらもはっちゃんと変わらないくらいの変わり者じゃん」
いや、さすがにアレと同じにされるのはちょっと心外だ。隣にプレイ人口もバランスも十分なゲームがあるっていうのに一人で黙々とバグや永久コンボ探しているようなやつだぞ。海に来て走り込むのはスポーツマンなら普通のことだ。格が違う。
「どうして私が変わり者ってことは誰も否定しないんですか!」
水着のレンタルで遅れていた初雪がパラソルの下に逃げ込んでくる。叫んでみたはいいが、今すぐ部屋に戻りたい、と言い出しかねないくらいに顔はげっそりとしている。
腰周りにフリルのついた薄ピンクのワンピース水着。少し子どもっぽいかと思ったが初雪にはちょうど似合っている。名前通りの白い肌は太陽に焼かせるにはもったいなく思えた。
そしてまあ、はるかに望む水平線のごとく真っ平らな体には何も言わないでおいてやろう。これ以上叫ばせると本当に倒れそうだ。
「やっぱり夏は涼しい室内で格ゲーですよ。泳ぐなんてこんな季節にやることじゃないです」
夏に入らないと寒くてやってられないだろうに。すでに頭が混乱しているな。パラソルの広くない影に身を縮こめるように隠れた初雪は、少しも動き出しそうな気配がない。
「せっかくだからたまには体も動かしておいたらどうだ? 結構気持ちがいいぞ」
「私はりおんさんみたいに脳に筋肉詰まってないので」
言いたい放題言ってくれるじゃねえか。まったく機嫌が悪くなると口が悪くなるな、こいつは。しかし、こうして置き物のようになっていると何かやってやりたくなる。
「トニーちゃん」
俺はストレッチをしているトニーちゃんの肩を叩いて耳打ちする。すぐに理解してくれたみたいでしっかりと二回も頷いてくれた。さすが、話が分かるぜ。
俺たちはすぐに作業に取り掛かる。あまり人の集まっていない場所を探して砂浜に穴を掘り始めた。もちろんこれも立派な筋力トレーニングになる。ただ今回の一番の目的はそこじゃない。二人がかりで大きな穴を掘り終えて、今度はひなたサンに目配せする。最初は怪訝な顔でこっちを見ていたのに、今はどうやら俺たちのやりたいことがわかっているみたいだ。
「よーし。はっちゃん、いっきまーす!」
「え? ひなたさん、何してるんですか?」
戸惑う初雪に応えることなく、ひなたサンは脇から一気に初雪を抱え上げる。格ゲー部で一番小柄な初雪はひなたサンでも簡単に持ち上げられる。そのまま勢いよく俺たちの掘った穴の中にホールインワン。
「あの? これ?」
「問答無用!」
呆然として穴の中に入ったまま俺たちの顔を見回している初雪を三人がかりで容赦なく砂の中に埋める。予想以上に初雪が小さかったせいで肩のあたりまでしっかり埋まってしまった。これは一人で出てくるのはそう簡単じゃないな。
「ちょっと待ってくださいよ。早く出して!」
そう叫んで助けを求めているが、誰も手を貸す素振りはない。周りから見れば子どもの可愛い戯れだから、微笑ましく遠目に見ている人が数人いるくらいだ。この広い砂浜でただ一人、初雪だけが必死の形相で訴えかけている。
「私が悪かったです! 海楽しい、海最高、やっぱり夏は海水浴に限りますよね」
「おう、そうだな」
その認識でどこも間違ってないぞ。ただまだ助けるつもりはない。どこに恐怖を感じているのかわからないが、とにかく必死に助けを求める初雪の姿が面白すぎて俺たちもどこで止めていいかわからなくなってきている。
「なんでそんなに笑ってるんですか!」
「いや、だっておもしろいから。あ、そうだ。はっちゃん、ジュース飲む?」
ペットボトルにストローを差し込んで、ひなたサンが初雪の前に差し出す。暑いところだと水分補給も大切だからな。それでも律儀に飲んでいる姿が本当におもしろくて俺は腹を抱えて笑ってしまった。
ストローをくわえたままの初雪の冷たい視線が刺さるが、それがよけいに笑いを加速させる。どうしてこんなくだらないことで俺は笑っているんだろう。こんな馬鹿笑いをするのはいつ振りのことかわからない。
試合に勝ってもこんなに笑ったことはなかったかもしれない。今ではもう勝つことが当然になっていた。だから勝つための練習は人一倍やった。いつのまにかスパーリングパートナーもいなくなっていた。だからコーチを相手に殴り続けた。
だから俺は部活を追われたのだ。もう少し弱ければ誰かと一緒にいることに喜びを覚えていたのかもしれない。今は格闘ゲームという別のリングに上がることによって、弱くいられることの楽しさを俺は思い出したのかもしれなかった。それはつまり初雪が今、同じように感じていることなのだ。
それでもまだ、俺はここでも勝ちたいと思ってしまう。勝っているという事実が一番の価値だと未だに思っているのだ。そういう意味では俺は初雪よりもずいぶんと後ろの方を歩いているのかもしれない。
「なに辛気臭い顔してるのよ」
「そんな顔してるか?」
少なくとも顔は笑っていたと思うんだが。ここはボクシングとは違うところがある。それは勝つということに疲れた人間を理解してくれるやつがいるってことだ。俺にとってもここは住み心地のいい場所なのかもしれない。
そしてそれを用意してくれたのは、今砂浜に埋まったままそこから脱出しようと必死にもがいているこのか弱そうな女の子なのだ。
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