一章 格ゲーと四億とボクシング

春の初雪

 幸いにも骨には異常なかった。顔中に絆創膏やら脱脂綿やらを貼り付けている俺を見てもクラスメイトは何も言わなかった。


 ボクシング部なんだから当然だ、というところだろう。先月の新人戦だってたった一つのかすり傷すら付けずに勝ち残った俺だったのだが、それでもボクシングという格闘技はあまり一般人には理解がしてもらえない競技らしい。


 さてこれからどうしようか? 今まですべてのことをボクシングに捧げてきた。そういうつもりだった。たった一日でそれをすべて失ってしまうなんて、考えたこともなかった。


 放課後になっても俺は教室の窓から外を眺めるばかりで、ただ流れていく雲に手が届かないという錯覚ばかりを覚えてしまう。

 いっそ新しいジムを探してプロに転向でもしてしまおうか。そんなことを考えていたら俺の机を誰かが大きな音を立てながら叩いた。


「あの。格ゲー、やりませんか?」


 勢い良く叩かれた机の音とは違い、かけられた声はか細く小さい女の子の声だった。


 長い黒髪、丸く透き通るような黒々とした瞳。ぽってりと膨らんだ頬とみずみずしい唇に幼さを感じさせる。一体誰だったか。いや何度か噂に聞いたことがある。うちの学年じゃ一番の美少女だとクラスの男どもが騒いでいたような気がする。隣のクラスの、名前は何だったか。


「放課後の誘いなら他を当たってくれ。今はそういう気分じゃないんだ」


「その傷、ケンカですか? そういうんじゃなくて画面の中で一対一の真剣勝負って素敵だと思いませんか?」


「ボクシングはリングの上で一対一の真剣勝負だよ」


 もちろんこの傷はケンカでつけたものだ。ボクシングのものじゃない。それでも言い返さずにはいられなかった。ゲームの中の勝負がくだらないとまでは言わないが、血と汗を流して練習して恐怖と闘いながら相手を打ち倒すそれを、同じようには語られたくなかった。


「ボクシング部、なんですか?」


「あぁ、昨日まではな」


「昨日までって事はもう違うんですよね」


「まぁ、そういうことになるが」


 まさか先輩の差金さしがねで多勢に無勢で襲われた上、追い出されたとまでは言えなかった。言ったところで何か解決になるわけでもない。初めて話す、それも女の子相手に振る話題ではないことぐらい俺にだって簡単に理解できた。


 それにしてもおかしな奴だ。放課後と言ったってまだ教室にはいくらか生徒が残っている。それなのにこんな顔中傷だらけの男にわざわざ声をかけるなんて。少なくとも俺と同じかそれ以上におかしな奴だと言うことは間違いなかった。


「じゃあこの後暇ですよね?」


「いや新しいジムを探そうかと」


「それ今日じゃなくても大丈夫ですよね? そんなに傷だらけだし。だから早くいきましょう」


 俺の答えなんて最初から聞くつもりはなかった、というように、その女の子は強引に俺の手をとった。傷ついた右手の拳が痛む。それでもそれほど嫌じゃない、なぜかそう感じていた。この子は新しい場所に俺を連れてってくれる。そんな錯覚がした。

 それはただ可愛かったからだなんていう中途半端な理由じゃなくて、どこか今の俺に似たものを感じさせるような気がしたからだった。


 手を引かれて廊下を進む間、いろんなやつと目が合った。当たり前だ。前を歩いているのは学校でも有名な美少女。それが顔中傷だらけの男引っ張っていっているのだから、誰が見たって気になることに違いはない。


 それでもそんなことを考えているのは俺だけみたいで、相変わらずこの頭のおかしな女の子は何も気にせずどんどんと迷いなく部室棟の方へと足を進めていった。


「着きました。ここですよ」


「ここ、何部だ?」


「だから格ゲー部ですよ」


 自信満々に言った女の子に対して、部屋の中はあまりにもこざっぱりとしていた。あるのは一組の机と大きなモニター、それから据え置きのゲーム機が一台。教室の端には少し古めのパソコンが見えた。机にはバカでかいコントローラーも二つ並んでいる。


 部活動ならもう少し道具も揃ってよさそうなものだが。ついでに言えば部員も一人もいなかった。どう見たって部活というには寂しすぎる光景だった。


「これほんとに活動してるのか?」


「本当はまだ正式な部活じゃないんです。でもあと一人部員がいれば部活に昇格だし、顧問だってSTG《シューティングゲーム》部の町口まちぐち先生が兼任してくれるって」


「それで最後の一人求めて俺に声をかけたってことか」


 それにしたってチョイスがひどすぎないか。あれだけ人がいたって言うのに、わざわざこんなケガ人を選ぶなんて。いやケガ人だから何とか言いくるめられるとでも思ったんだろうか。


「何かやってみたいゲームとかありませんか?」


「いやゲームはもうずいぶん長いことやってないからな 」


「じゃあ私のとっておきのオススメがあるんですけど」


 そう言ってその女の子はやや古いパソコンの電源をすぐに入れた。最初からそう決めていた、そんな雰囲気のする素早い動きだった。見た目通りの古さを発揮したパソコンは、起動するのに一分ほどかけてゆっくりと立ち上がった後、早くと急かす女の子の言葉も無視して何度もクリックされたアプリケーションをようやく画面に映し出した。


「格闘、超人?」


「昔出た同人の格闘ゲームですよこれ結構すごいんですよ」


 ただのゴシック体のフォントに、安っぽいメラメラと燃える炎のエフェクトが写るタイトル画面。同人ゲームというだけあってかなりシンプルな印象だった。eスポーツが流行し始めた頃、こんなふうに同人の格闘ゲームやSTGが大量に作られたという話はよく聞いていた。


 まさに玉石混交ぎょくせきこんこうで、雑誌に何度も取り上げられるものもあれば、ほとんど誰からもプレイされずに埋もれていってしまったものもある。これはおそらく後者の方だろうな。ほとんどゲームをプレイしない俺でも、そのタイトル画面からなんとなく察しがついた。


 ゲームの内容は予想通りのクソゲーっぷりだった。実写取り込みを使ってモーションを作ったキャラクターの動きはいいとして、内容の方はあまりにもバランスが壊れていた。ドロップキックで延々画面を往復する。昇竜拳で飛んでいったキャラクターが画面に帰ってこない。かと思えば、急に地面から生えてくるように出てくることもあった。


 そして極めつけはコレだった。


「開幕を飛び道具で削って、それからこうすると」


「おい、キャラが消えたぞ?」


「はい。これで時間切れタイムアップで私の勝ちですね」


 俺に向かって得意げな表情を浮かべる女の子はまるでそれが当然の権利だというような顔をしている。いやどう考えてもおかしい。これが認められるなら、そもそもゲームとして成り立っていない。


「いや、今のバグだろ」


「違いますよ、即死コンボです。私は開発したんですよ。とちめ、初雪式はつゆきしきとでも呼んでください」


 まったく悪びれる様子もない彼女は、今しがたバグってフリーズした画面を指さしながら、俺の方にウザいくらいのしたり顔を浮かべている。今一瞬言い淀んだような気がしたんだが、気のせいだったろうか。


初雪はつゆき、そういえば名前を聞いてなかったな」


「はい。私の名前、初雪って言うんです」

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