070話 始まりのセレナーデ



 修の部屋で向かい合う二人。

 小夜は期待に満ちた眼差しを向け、修といえば実に不思議な気分だった。


(好きな相手が違うだけで、こんなにも違うのか――――)


 普段ディアに向けているのは、激しい衝動と燃えさかる炎のような熱情。

 対し、今。

 小夜へと向かう想いは。


(まるで冷たく光る月を、強引に引き吊りお下ろして、抱きしめて暖めたくなるような)


 一緒に居るという感覚も、また違う。

 ディアの時は、欠けたいた何かを手に入れたような、ぴったりとハマる様な安心感。

 だが今この瞬間、感じているのは。


(なんだろう、側に居るだけで暖かな何かに包まれているような……)


 守られている、まるで幼子の様に。

 母のそれであり、姉のそれであり、妹のそれであり、娘のそれであり、そして伴侶のそれである。


(だ、駄目だっ! 気をしっかり持て俺っ! あくまでこれは、小夜が恋人な時の可能性の感覚だっ! ディアが好きだ、愛してるんだ俺はっ!)


 くらくらと、甘い毒が体中を巡っているような。

 今すぐ、そのぬばたまの長い艶やかな髪を手に取りたい。

 その、陶器の様な白い肌に触れたい。

 赤い、ふっくらふるふるとした唇を奪いたい。


(――ぁ、く、そ――――)


 早く、早く終わらせないと、どうにかなってしまいそうだ。

 修は唾をごくりと飲み込んで、ふらふらと小夜に近づく。


「きゃ、――だめ、ですよ修くん」


「小夜を前に、我慢なんてしたくない」


 熱い息を吐く修に、小夜は鉄面皮が音をたてて崩れるのを感じながら、人差し指を彼の唇に当てて制止。

 折角の二人っきりの機会、幼馴染みだという事も思い出した。

 ――――忙しさに忘却せざるおえなかった慕情も。

 だから。


「ね、――少し、お話しましょう? 時間は少ないけれど『伝心』を使えばすぐに済みますし」


「それは……、いや、ああ、そうだな……」


 心と心を繋ぐ事、その世界すら越える現象なら、時間の経過を気にせず対話する事ができる。

 その事を、小夜は聞かずともたった一回の『伝心』で確信していた。

 修としても思い出話がしたい、だから異存なんてなくて。

 二人の心が繋がった瞬間、パンッ、と破裂寸前の何かが弾けた感じがして。

 色鮮やかに、思い出が目の前に映し出された。


『う、ううっ…………だ、だぁれ?』


『おれのなまえは、くぜおさむ! なぁ、いっしょにあそぼーぜー!』


 夏祭りの時の神社の境内、幼い姉弟と巫女服の小さな子が一人。

 木陰で寂しそうに泣いている少女に、二人は手を差し伸べている。


「そういえばあの頃は、姉貴と近所に冒険へ出かけるのがブームだったっけ。懐かしいなぁ……」


「わたしは修行を始めたばかりの頃ですね、伝統とはいえ幼い子供を、親戚に預けて全国各地へと……、当時は随分、親を恨みました」


 しみじみとなる二人を前に、回想は流れる。

 三人は直ぐに仲良くなって遊び、けれど。


『いやだなぁ……。もっと、みやこおねえちゃんとおさむくんと、あそびたいなぁ……』


『我が儘を言うものじゃありませんよ小夜様、貴女には家を継ぐ立派な巫女になってもらわなくては、ご両親も期待して小夜様を送り出しているのですから』


『はい…………』


 もう日が沈む寸前の夕暮れ時、親戚の巫女に連れられて小夜がとぼとぼ歩く。

 二人はやがて近所の廃屋にたどり着き、周囲にを誤魔化す結界を張って除霊を始めた。

 もの音がする度、小夜は半泣きで肩を震わせて。

 その祝詞はたどたどしく、時にはつっかえながら。


「この頃はまだ、始めたばっかりで怖かったんですよね」


「…………ああ、そうだったなぁ。俺がこっそり着いていった時もそんな感じだったなぁ」


 昼は修たちと遊び、心を癒し。

 夜は恐怖に震えながら、さほど親しくない親戚の巫女と除霊に回る日々。


「楽しかったです、嬉しかったです。……わたしの、初めての友達。修くんと都お姉ちゃんと過ごすだけで、夜への恐怖が少し和らいだ気がして」


「でもさ、怖かったんだろう?」


「ええ、それに気付いてもらった時、どんなにわたしが救われた事か……」


 思い出は次に移る。

 その日は都は居らず、修と小夜のみ。


『なー、いっつもかえるまえにさ、すっごくさびしーって、なんかこわいことがあるよーなかだけど?』


『…………うん』


『うん、じゃわかんねーって。なんでもはなしてくれよ! おんなのこひとりたすけられないんじゃあ、おとこじゃねぇって、あねきもおとーさんもおかーさんもいってたんだ!』


『……うん』


『えんりょするなって、おれたちともだちだろう?』


 がしっと小夜の手を握り、幼いながらに力説する修。

 やがて小夜は、勇気をだして訳を話し始めて。


「この時、すっごく悩んだんですよ。普通の子に話しちゃいけませんって、何度も言われてたので」


「でも、話してくれたんだよな」 


「友達だって、言われちゃいましたから。……初めてだったんですよ? こんな事言われたの」


 事情を聞いた修は、即座に決断して。


『よしわかった! おれもかくれてついてく! なにもできないかもだけどさ、いっしょにいるよ!』


『うん! ありがとうっ!!』


 彼女の除霊に同行する意味を、危険性もまだ知らず。

 幼い二人は無邪気に約束を交わして。


「懐かしいな、俺もついて行っちゃったんだっけ。親に無断だったから、バレてしこたま怒られたっけ」


「でも、それでも。修くんは夜になる度にわたし達の後にこっそり着いていって」


「今思えば無茶したなぁ……あ、あの時の移動費、返してねぇ。アネキが出してくれたんだよなぁ……」


「後で一緒に返しましょう」


「だな」


 次々と思い出が浮かぶ、たった数日間の事なのに、十年以上も前の事なのに、こんなに鮮明に。

 中には泥だらけになって、三人一緒にお風呂に入ったり。

 時には、修の家で遊んだり。


「そういえば、夏休みの頃でしたっけ」


「そうだよな、だから俺も姉貴も朝から出かけたり、一日中遊んでいられたんだし」


 懐かしがる二人の口数は、やがてふいにとぎれて。

 幼き日の二人に、別れの時がやってきたのだ。


『……さよちゃんがみえない、もうちょっとちかづいてみよう』


 その日の除霊場所は公園、悪霊の力で電灯が消えて、自然も多く見通しが悪い。

 幼い修は、のこのこと近づいて。

 霊など見えないから、うっかり小夜達の除霊場所の中心地点まで行ってしまって。


『うわぁっ!? なんだこれっ! おれっ、さかさまになってるっ!!』


『しまったっ!! 子供っ!? 何故こんな所にっ!?』


『おさむくんを、はなせえええええええええ!!』


 泣きべそかく幼き日の修に、それまで震えながら立ち向かっていた小夜は、霊への恐怖を忘れ必死になって。

 そのとき少女は理解したのだ、人々の夜を守る本当の意味を。


「あの時は助かったよ、そしてごめん。足を引っ張ってしまって」


「いいえ、わたしが軽々しく貴男を連れてきてしまったから……」


 産まれた時より、最高峰の巫女としての素質を見いだされていた小夜だ。

 あっという間に、悪霊を除霊して。

 でも、めでたしめでたしで終わらなくて。


『はなせ! はなせよぉ!! さよちゃんをむりやりこわいめにあわせてたおとながっ!!』


『おさむくん! はなしてっ! なにするのっ!?』


 当然の事ながら、修は親戚の巫女に捕まって。

 彼を解放しようとする小夜もまた、同じく捕まって。

 抵抗虚しく、その巫女に二人は何かの術をかけられる。


「あれは物事を忘却させる巫術。修くんには、わたしの事を。わたしは修くんの事を」


「……これで、忘れてたのか」


 次の日から、小夜の心細い日々がまた始まるかと思えた。

 小夜の修行の邪魔になると、予定を早めて次ぎの場所へ移動を決定する親戚の巫女。

 他人になったまま、二度と会えないかと。

 だが。


『なにしてんのおさむ? さよのとこいくよ』


『ねえちゃん? 何しにいくの? さよってだれ?』


『は? ねぼけてるの? さよときょうも遊ぶやくそくしたじゃない!』


 その時、修についていかなかった都だけが覚えていて。


「姉貴……」


「都お姉さん……、だからあの時……」


 だからこそ、別れに二人はまた会えた。

 移動のために車に乗り込む寸前の、ギリギリのタイミングで、また出会った。


『ああ、小夜様と遊んでくれた子ですね? ごめんなさい、次の場所に移動する事に――っ!? え、その子は弟さん? ああ、道理で…………、まぁ、いいでしょう。お別れの挨拶ぐらいは』


 修には、小夜が誰か分からなかった。

 都が突然の別れに、驚き叫んでいる理由も、涙を浮かべてる理由も。

 けど、胸にこみあげる何かがあって。


 小夜も、都のことは覚えていた。

 けど不思議とちゃんと思い出せずに、けど見知らぬ男の子のへの想いが、知らない想いが溢れて。

 でも何も言えずに、ただ都だけと別れを惜しんで。

 ドアを閉め車が動き出したその時だった、修が動いたのは。

 大声を出し、必死に小夜を呼んで。

 小夜もまた、何かに突き動かされるように窓をあけて顔を出す。


『いつか、いつか、おれのいえでいっしょにくらそう! ずっと、ずっといっしょにいよう! おまえのさびしいきもちなんて、ふきとばしてやるから!』


『やくそく、やくそくです! いつかきっと、いっしょに』


 迸る声に込められた意味は分からない、目の前の存在は初対面の筈なのに、不思議と言葉が胸から出てきて。

 約束と共に、二人はまた分かれた。


『ねー、おさむ。あんたさよのことすきなの?』


『あねき、さよってだれ?』


『まじか、もうわすれるとは……。これがひとなつのこい……?』


 結局、大人のかけた巫術は強固。

 次の日には忘れてしまって、残るは首を傾げる都だけ


「けど、きっと想いはわたしの中に残ったんです。だってその日以来、夜も、一人で居ることも怖くなくて」


「今思えば、誰かを守るって。泣いてる女の子一人救えないで何が勇者だっていつも考えてたけど。……これが、始まりだったのかな」


 想い出は終わり、伝心から二人は現実に。

 同時に、人々の夜を守る名家の筆頭巫女から、一人の少女に小夜は戻って。

 以前までの能面のような無表情とは違い、思慕も口調も、感情を露わに修に語りかけた。


「……修くん。きっと、運命だったと思うんです」


「運命?」


「わたしと貴男がもう一度出会った事が、今こうして二人っきりで居る事が」


 ディアさんと出会ったのと同じように、とは言わなかった。

 それはきっと、言ってはいけない言葉だと小夜は思ったからだ。

 口にしてしまえば、彼女を羨んで恨んで、ドロドロと暗い感情に捕らわれてしまう。

 一人の人間として、恋をしようとしている乙女として、矜持が許さない。

 でもだからこそ、聞かずにはいられなかった。


「おさむくんも、運命だと思ってくれますか? わたしと貴男は出会うべき運命だったのだと、再会を喜んでくれますか?」


「それは――――」


 即答できなかった、それは違うと、即答出来なかった。

 今の修は、小夜に恋している修。

 同じだと答えたかった、小夜と出会う運命だったのだと。

 結ばれる運命ですらある、と。


(違う、違う、違う、違うっ!! 俺はディアと、ディアが好きなんだっ!!)


 もし、最初に再会した時に思い出せていれば、何かが違ったかもしれない。

 魔王を倒す旅路で思い出せていれば、帰ってきて真っ先に彼女に会いに行ったかもしれない。

 この暖かな感情は、嬉しいと思う気持ちは、愛おしいと感じる心の震えは、全て、全て、あり得なかった「もしも」だ。


「…………ぁ。っ、――――ごめん」


「そう、ですか……残念ですっ」


 歯を食いしばって首を横に振ったおさむは、寂しげに笑う彼女を抱きしめたくて、でもそれはダメで。

 堅く、堅く拳をにぎりしめる。

 そんな修のようすに、小夜はそっと寄り添って。

 力を入れすぎて白くなった握り拳を、ゴツゴツとしした拳を、そっと両手で包み込む。


「優しくて、真摯で、……でも残酷な修くん」


 こつんと、その逞しい胸に小夜は額を寄せて。


「ごめん」


 ――――沸き上がる愛おしさが、本物の修が抱いた感情であればよかったのに。


「謝らないでください、わたしはそんな貴男だから、恋をしたいって、もし結ばれるなら修くんが良いって思ったんです」


 ――――今の自分が、本当に彼女を好きな自分であればよかったのに。


「ごめん、ごめん小夜……」


 修は唇を噛んで、上を向くしか出来なかった。

 たとえIFの心だろうが、その中に居るのはディアを好きな修。

 それが一時の嘘であれ、誰にも知られない空間の出来事であっても。

 同時に、二人の異性に愛を告げる事など、受け入れる事など決して、決して、断じて出来る筈がない。


(あれは、幼い頃の淡い恋だったんだよ……、今の俺にとって風化してしまった筈の、幼い恋だったんだよ…………)


 苦悩する修を感じ取って、小夜は喜びを悲しみを覚える。

 これが素の修なら、直ぐに引き剥がされて逃げられていただろう。

 この体温が、ドクドクと高鳴る心臓の音が、分からなかっただろう。


 でも、小夜が好きな修でも、それが仮初めでも。

 出てきたのは謝罪の言葉。


(諦めてしまいましょうか? それがきっと、修くんとディアさんにとって、最良の結末の筈)


 でも、でも、でも。

 もしそうなったら。


(わたしの気持ちは、何処へいくのでしょう……)


 淡いあの日の想い出、そんなもの思い出さなければよかったのだ。

 思い出さなければ、修とディアの恋路を見守る良き友人の一人でいられた。

 彼と結ばれろ、なんて神のお告げを、どちらにもその気は無いから、なんて言い訳が出来ていた筈なのだ。


(たぶん、わたしの恋は叶わない。――でも、それでも)


 せめて、少しだけでも。

 彼の心に自分という存在を刻みつけたい。

 修が苦しむかもしれない、きっと小夜自身も後悔するだろう。

 それでも、それでもなお、心は叫ぶ。

 体の良い言い訳もある、もしかすると彼女は二人の事を見越していたのかもしれない。

 けれど、でも、だから。


「修くん、……わたしは、狡い女です」


「小夜、何を――っ!?」


 夜の帳のような美しい黒髪を持つ巫女は、敗北を選ぶ事にした。

 この場から一刻も早く去る為、目の前の男に自分を刻む為に。


「今はひとときの夢、誰にも知られない只のユメ」


 巫女服の上をはだけ、彼の手を誘導して。

 出来る限り嫣然と微笑んで。


「ね、直に触れてください。わたしの体を確かめてください。もしもの想いも、ディアさんへの代わりでも良いです」


「何を言ってっ!? 小夜、そんな事止めてく――――んんっ!?」


「ん、はぁ、ん、ぁ、んむ――――」


 小夜は修の唇に、自分の唇を寄せて。

 恐らくまだ彼が体験してないであろう、深い、深いキスを。

 舌と舌と絡ませて、唾液を交換する様な、淫靡で情愛そのものを。


(抵抗してくれ俺の体っ!! 振り払わなきゃいけないだっ!! 気持ちいいなんて、感じちゃあいけないんだよっ!!)


(どうか、拒否しないでください修くん。どうか、どうか――――)


 そして、永劫とも一瞬とも思える一分間の後。


「どうぞ好きに貪ってくださいませ、旦那様」


「~~~~っ、ぁ、ぃ~~~~~っ!!」


 小夜を愛する自分の、言葉にできない快楽と衝動に飲み込まれそうになったその時。

 修と小夜の二人は、元のリビングに戻る。



「元に戻ったっ!? ――――小夜っ!?」



「…………えへへっ、負けちゃいましたね」



 その瞬間、小夜を愛する修の姿は無く。

 意識はディアと共に居る、本当の修へ。


(小夜の服も元に戻ってる? …………助かった。――いや、助かったのか? え、あれ? ヤバいんじゃないの俺っ!?)

 

 チラチラと互いを意識しあう修と小夜が、一同気になりつつも。

 シーダはジャッジを下した。


「小夜さんの敗北! ええと、その、…………なんというか。頑張れ馬鹿弟子?」


「うううううう、何て事してくれたんだよ馬鹿師匠おおおおおおおおおおおおおおおっ!?」


「はうあっ!? マジで何があったのじゃパパっ!?」


「オサム様っ!? 剣を、ゼファを下ろしてっ、危ないですからっ!?」


「落ち着きなさいオサムっ!! どうせ勝てないでしょっ――っていうか小夜、アンタも止めなさ…………? え、本当に何があったのアンタ達ぃ!?」


「――――ぽっ」


 シーダに襲いかかろうとする修、顔を両手で隠し首筋まで真っ赤にしてニマニマするも、どこか切なげな小夜。

 姉として何となく事情を察した都と、全部見ていたシーダだけが、あちゃー、てへぺろと訳知り顔。

 リビングは、混沌状態に陥ろうとしていた。


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