第42話 やってもーたのと死後の世界感の話
みなさん
やってますか?
やってもうてますか?
話は春先まで遡りますが、
まずもって、コロナの影響はすごかった。
コロナコロナ言い始めた頃は僕はどっちかというと斜に構えていた。
3月、4月の頃か。
「暖かくなったらおさまるやろ」くらいに考えていた。
そっから「不要不急」のくだりが始まり、ゴールデンウィークは家で過ごし、
オリンピックが流れ、その他も色んな所に影を落とした。
経済活動は言わずもがな、
学校は2日に一回の登校になったし運動会も修学旅行もなくなった。
余力がなくて潰れた飲食店は少なからずあっただろう。店を出してすぐは開店資金を回収するまで自転車操業、というのは珍しくないはずだ。
夢をもって店を出したばかりの若者ならどうか。
脱サラして蕎麦屋を出したばかりのお父さんはどうか。
全国の蕎麦屋を食べ歩き、行きついた味の蕎麦屋で二年間修行し、街中の家を処分して水のきれいなところでようやく店を開こうとしていたお父さんはどうか。
それにつぎ込んだ早期退職の割増がついた退職金はどうか。
県外にもずっと出ていない。
毎年夏に山陰の海に行ってたのも我慢した。冬に下関に行くのもあやしい。
嫁が感染をだいぶ恐れているので何かよい薬が出来るまでは県外に出ないかもしれない。
市場ではマスクの他にもソーシャルディスタンスのためにアクリルボードが品薄だったようですね。机と机の間に立ててつばの飛沫対策とした。
なので物づくりの材料として注文しても中々納入されなかった。
そんな中、おっさんはしれっと大失敗をした。
調書や報告書風に
いつ、どこで、誰が、何をした、というと
朝方に
会社で
自分が
ということになる。
「自分が」というのが実に残念だ。
思い出したくないが今でも悔やまれる。
すごかったですね、精神状態が。
汗というか濃縮還元ですね。
煮汁をこえて煮凝り。
しぼりたてであり、かつ煮凝り。
純度100%のおっさんの搾り汁。
動悸というのも初めて経験した気がします。
緊張とはまた違う、、、自分の意識ではどうにもならないもの。運動したわけでもないのに呼吸が荒くなり、心臓が本当に周りに聞こえるんじゃないか、というくらいドクドクいいましたね。
本当に胸を飛び出るんじゃないか、というほどドクドクしました。
一時的に自律神経が一心不乱に乱れていたと思います。
何があったかと言いますと
会社の、うちの課のパソコンのデータを丸々消してしましました、ええ。
ここで書くのも、思い出すのも苦々しいですね。
話の始まりとしては、ぜんぜんそっち方面に詳しくないのですがなぜか会社でIT・OA担当を仰せつかっていまして。
会社のことなのであまり詳しくは書けませんがネットに繋げないパソコンに.NET frame work3.5というものをいれないといけませんでね、四苦八苦、悪戦苦闘しまして。
どうやらWindowsを再インストールする際に使うインストールメディア(ISOファイル)の中にそのファイルがあるということが分かりまして、インストールメディアをダウンロードして、、、紆余曲折あってデータを消してしまったんですね。
うちの課はパソコンにNASという、まあ外付けハードディスクですね、これをつけてその中にデータを入れていました。
NASというのはその中にハードディスクが複数入ってまして、レイド(RAID)という設定をすると例えば何かのデータを保存したら自動的に2つのハードディスクに保存されて、もしどちらかのハードディスクが壊れてももう一方は残っている、とか色んなことが出来るものです。
ですが人が操作してデータを上書きしたり消す分には普通に出来てしまうので、故障には強いですが誤操作には弱い。
そして、それを更にバックアップするものは無かったんです。
ワンクリックですね。
オチもなくて申し訳ないんですけどね、本当にやばかった。
NASを丸々インストールメディアにしてしまって。
辛かったです。
データ全消えです上書きされて。
このご時世ですから、うちの会社のようなIT関連じゃない会社でもデータで保存や管理をしているものもかなりありまして。
データ復旧のソフトを利用してある程度のデータが復活しましたが、拡張子はついていたのですが名称は戻らなかったので、ひとつひとつファイルを開き名前をつけていきました。
この作業を何十万回です。
でも何十万で済んだ、とも言えるかもしれません。もっとすごい量になる会社はいくつもあるでしょうから。
皆手すきに手伝ってくれました。
また、8GB分はハードディスクが上書きされており、データは元に戻りませんでした。
ですがファイル名がぐちゃぐちゃになっているので何が消えて何が残っているのかもすぐには分かりません。
たちまち仕事に必要なファイルも出すことが出来ません。
また、たとえばCADの図面に写真を貼り付けていた、というような別々のデータを関連付けていたものも、名前が変わっているため関連付けができなくなり、図面は復旧したが何の写真が貼られていたから分からない、というような件も結構ありました。
胃痛に耐えながら方々関係者に頭を下げ、毎日毎日データを開き名前をつけ、「あのデータは出てきたか?」の声に怯える日々。
生きた心地はしません。
ただ1つ言えることは
【何とかなる】
ということです。
少し時間が経った今だからこそ言える、当時はとても言えなかったことですが、なるようにしかならないけど、なるようになります。
時間がかかるけど。
時間が解決、というのはあると思います、世の中に。
それは真面目な人にはちょっと逃げてるような感じがするかもしれないけれどこれを使いこなす老獪さがあってもいいと思う。
いや、使いこなすべきです。
とある先輩が人間には良い時も悪い時もある、と言っていましたが歳をとると若い頃よりはよく分かります。
宇宙は波で出来ているからプラスにふったあとはマイナスにふり、マイナスにふったあとは必ずプラスにふる、というのです。
これはサイコさん的な感じではなく、はっきりと理由は言えなくても宇宙とはそういうものだと僕も思います。
局所的な視点で見ると多少外れる部分があったとしても大きな視点で見るとそうなります。
電磁波とかも波ですし、熱も物質の振動からくるもので、ある意味波と言える。
波がある、振動、運動があることで宇宙は存在すると言えるし、この宇宙の全ての波が完全に停止したら、この宇宙は本当の無になるかもしれません。
0(無)とは波がない状態
1(有)とは波がある状態
0から1は生まれない、と言われたりもしますが
なんらかの原因で無の状態に波が起こり0と+1、−1を繰り返す状態が"宇宙がある"という状態なのではないか。
宇宙の中で0(無)と1(有)は普通に共存し、行き来している。
ただ波が複雑化して全てが0になるタイミングがないから宇宙は続いている。
慣性の法則とかありましたもんね、動き出したらすぐには止まれない。
だからたぶん0は1になります。
ただそれもなんらかの外的刺激があるからだと思う。安定した0なら無のまま。不安定な0なんでしょう、きっと。だから揺れる。
揺れる宇宙で、揺れている物質で作られ、揺れている世界を生きているわけだから人間も当然揺れます。
波がある。
(おい、そこのお前、ついてきてるか?)
なので良い時も悪い時もあるのはすごく自然なことです。
極短いスパンで言えば良い時だけ、悪い時だけ、というのもあります。
宇宙的な視点で見れば波はある。
人間の人生も宇宙的な視点で見れば極々短い時間でしょうがそれでもそこに波はある。
あなたの体は物質、分子・原子と呼ばれる小さな粒で構成されるがそれももっとマクロ的な視点で見れば振動であり波です、たぶん。
(おい、お前、ページ変えようとすんなよ!)
なのであなたにもし悪い波がきているとして、それがあなたの性格に難があるとかの原因がない、ただただ風向きが悪いとか運が悪い状態になっているとしてもそれは自然なことです。
ごくごく自然。
ふつうのコトです。
若い人でもスポーツをやっている人には体験があるかもしれません。調子は悪くないのになぜか結果がでない、とか。絶好調からスランプに陥るとか。
こういうのを経験がある人は、今は騙し騙しやるしかない、とか、何をやってもダメだからちょっと休もう、とか、自分なりに対処方を持っていたりする。
体験として知っている。
理由は無くても調子が悪い時、風向きが悪い時、運が悪い時、というのはある。
来る。
ただ、そのマイナスの山のところでやめてしまうのはどうか。
戦国時代で有名な武将でも無敗な人はいないでしょう?徳川家康も何とかの戦いで負けて何とかというところを敗走してビビって何とかを漏らした(うんち♡ね)ところを自分への戒めに絵師に描かせている。でもその後は将軍になり、三百年続く江戸、徳川幕府を作ります。ライオンでも成長すれば百獣の王ですが赤ちゃんの時はハイエナに殺されます。
自分にいい波がくるまでいかにうまく逃げるか、うまく負けるかはとても重要だと思います。
負け方、負ける技術、負けることができるか。
最近芸能人の自死が多いです。
その中のある方が、僕はファンなわけではないのですが同い年であったため、多少ショックを受けたのです。
自分で言えば、まだ人生にやりきった感はないし、子供も成長途中です。
たとえば今「末期癌ですよ」と言われても死んでも死に切れない。
その方に何があったのか
何かに悩んでいたのか
それとも幸せ過ぎたのか
バスケットボール選手のマイケル・ジョーダンが良い状態のうちに引退したように、幸せ過ぎてその最中に、いい時に人生を終らせてしまいたいと思ったか。
hideの時に言われたように出し物なり演技の練習をしているうちに誤って亡くなってしまったか。
これはおっさんの死後の世界感ですが
どうなるか、本当の意味では分からない、と思ってるんですね。
まず申し上げると自分は家は親が仏教だった流れで仏教徒なのでしょうが、いわゆる無宗教です。親も熱心に仏教を学ぶわけではなく、そのまた親も仏教だったため葬儀を仏式で行っているというタイプで、比較的日本人に多いのではないでしょうか。
生活の、文化の中に仏教的な考えがかなり染みこんでいるのでしょうが、生きているうちはあまり仏教に頼らず、死んだ時に利用する。
で無宗教なりに自分なりに科学的視点、宗教的視点からフェアにフラットに考えた時に、死後に全く無になるのか、意識だけがあるのか、あの世があるのか、どうなるのかまったく分からない。
テレビ番組で生き返った人が三途の川を見た、というのをやってたりしますが、
生き返っているのでね。
死にカウントされていない可能性がある。
ノーカンの可能性がある。
かといって完全に亡くなっている方に話を聞くことは出来ない。
これは宇宙の始まりと終わりを話すようなもので、拉致があかない。いつか答えが出るのかもしれないがそれはおそらく今ではない。
現時点でのおっさんの答えは「分からない」となる。
でですね、話はここから
というわけでもないんですけどね。
おっさんも死ぬほど悩んだ時期がありました。高校の頃のことですが今となれば他愛もない理由でも当時は生きていること自体がつらかった。
来る日も来る日も悩んで、高校も三年の夏休み明けから何週間か休んだんです。辛くて苦しくてつらくてつらくていっそ死ねば楽になるのか?と思いました。
またセックス・ピストルズのベーシスト、シド・ビシャスやニルバーナのカート・コベインなどの好きだったロッカーが若くして死んで伝説のように言われ、そこへの憧れも少しあったかもしれません。
しかしある日僕は思いました。
死んで楽になる、という補償はないと。
死後のことが分からないのであれば、今より辛く苦しい世界に行く可能性も無くはありません。
もし死んで今より苦しければ
もしそれが延々と続いたら
今より苦しいかもしれないところにわざわざ自分から行くのか
そう思うと僕は、
とりあえず今この世界では自分はドン底に落ちてこれ以上なく苦しんでいる。もし死んで今より苦しむことになる可能性があるなら、それよりはここで苦しまなくてすむようにしていった方がいいんじゃないか?
と思うようになりました。
自死の全てを否定するわけではありません。どうしょうもない悩みや痛み、苦しみはあると思います。
治る見込みのない病気であるとか。
ただ、もったいない自死もだいぶあるのかな?とも思っています。
夫婦げんかであわや離婚かって時も山を越えたら次の日からまた普通に家族として過ごし、その後どちらかが死に別れるまで何十年一緒に暮らすってこともザラにありますよね。
で、何が言いたいかって言いますとね。
よく分からないんですね、これが、、、
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