夏に染み入る

薄荷あめ

第1話夏に染み入る

 八月三日、蝉時雨に身を晒す。

 

 私はじりじりと焼けるように暑い日差しを背に受けながら、行きつけの古書店を目指し小田急線沿いを歩いている。

 先ほど電車が通過したばかりの線路は寂しげに佇む。

 

 百メートルほど前方に目を遣ると、アスファルトの地面のあたりがゆらゆらと揺らめいているのが目に映る。

 あの陽炎の一部になりたいと思い、歩みを早めども早めども、陽炎は必死な私をあざ笑い、ゆらめき、逃げていく。

 

 二三分経ったところで脇腹に痛みを覚え、歩みを止めた。

 三十年前ならばこの程度の距離を幾らか早く走ろうともものともしなかったが、今では小走りしただけで息を切らしてしまう。

 

 少し休憩するために道路脇の木陰にうずくまると、年輪のようにしわを重ねた首を流れる汗が足元に滴り落ち、干からび反り返ったムカデに衝突し、弾けた。

 きっと絶命しているのだろう、手持ちの飲料水をかけてみたが、ムカデは微動だにせず生き返りそうにもない。

 

 昨日の午後九時頃に自宅アパートの敷地内のカクレミノの枝先で羽化の真っ只中にいるセミを見かけたことを、ふと思い出す。

 焦げ茶色の殻は真っ二つに割れ、セミは真っ白なからだを上下左右によじらせていた。そして全身が抜け出ると、抜け殻にしがみつきながらゆっくりと羽を広げる。

 成虫となったばかりセミの羽はうっすらとエメラルドグリーンに色づき透き通っていた。

 しばらくその様子を眺めていたが、羽化を終えたセミは夜闇へ羽ばたき消え入ってしまった。

 

 電灯はバチッバチッと音を鳴らしながら不気味に光っていた。

 


 脇腹の痛みが収まるのを見計らい再び歩みを進めると、二十分くらい歩いたところで目的地に到着したが、当の古書店は相も変わらずさび付いたシャッターを降ろしていた。

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