狼煙

 その日の夜に、リオは姿を消した。

 アーチャーと名乗った奇形の青年が、確かにリオを見張っていたはずなのに、気配すら感じさせず、窓だけが開いていたという。

 正直にいうならば、錯乱して自死しただけなら幸いと思わざるをえない。ヘリスが、周辺の土地を買い取ってその平原のただ中に立てた小さな小屋は、盗聴や盗撮の危険がなく、近づく者にはすぐに対応でき逃げる者をすぐに追える。守銭奴ヘリスが唯一、自費で購入したこの土地はこれ以上なく密談に適していた。

 その小屋から逃げ出して、寝ずの番をしていたサシャにも勘付かれないというのは明らかに異常だった。

「万一……この状況下で、リオが多神教徒軍に復帰でもしたら」

 ざわ、と身体中の産毛が逆立つ。

「自分が憎悪を駆り立ててしまったと、責任を感じていましたから」

「ありえなくはない……最悪の可能性だがな」

 何事もなかったかのように指揮官が復帰すれば、リオが帝国オピアに亡命していたというセンテンスの信憑性がなくなってしまう。また多神教徒軍が士気を取り戻し矢でも射かけてきたら、サウード家側もこれ幸いと兵士を唆し戦場に再び立たせるだろう。

「三者ではなく二者で利益を分配できると、奴らはほくそ笑んでいるかもしれねえな」

 武器商人として今回の戦争に関わったヘリスは、帝国オピアの皇帝の書いた親書の経済制裁の相手である「サンソウ家」の一員である。そのヘリスがいなくなり、サウード家と多神教徒の内通者で、利益を分配すれば一組織の取り分が多くなることになる。

「多神教徒側の内通者の名は、確かクリスでしたか」

 アーチャーは弓矢を肩に掛けた。地力で叶わぬ分、類いまれない視力で遠くの敵を前もって牽制できるのが強みだった。そのアーチャーの長所を際立たせるために使う武器は、主流である力のいる長弓ではなく弓を横に使うクロスボウだった。

「計画は変更ですね。これから出かけましょう。サシャさん、ロドリゲスを背負って走れますか」

 ヘリスは槍を持っていた。サシャは手のひらに籠手をつけ、対人格闘に備えている。

「ああ。任せろ。――ロド、あの意味のない訓練に耐えた成果が、いま役に立つぞ!」

 男気すら感じられるサシャの言葉に気圧され、彼女の背におぶさる。そして俺たちは、混乱する地峡を抜け、帝政オピアへの脱出を図る。

 ――それは並大抵にできることではない。いまや、多神教徒軍が籠城している都市国家以外のヴィンチ地峡全土を掌握していると言ってもいいミスナ教団の目は、どこに潜んでいるかわかったものではないからだ。

「――行きましょうか」

 ヘリスの言葉で、アーチャーが戸を開けた。


 ザン、と弓の震える音。


「チッ……」

 ヘリスの舌打ち。


「生きることが第一優先事項です! 地下から逃げましょう!」


 戸を閉め、アーチャーが叫んだ言葉に、ヘリスが躊躇した。

「地下道から逃げるのは……」


「躊躇している場合ですか!」


 アーチャーが叫んだ。ヘリスが息を呑み、神よと呟いたあと、彼自身の足元を強く、靴のかかとで突き下した。

 ガタ、と木枠が嵌まる音がして、そこからは早かった。音楽のようで微妙に拍を掴みかねる、奇妙なリズムで、強さも変えて床を叩き続ける。そして、その度に枠が嵌まったりずれたりする音がしていく。

 アーチャーが切羽詰まったように窓を開け、二三の矢を放ったとき、それは開いた。

「まるで……床自体が鍵……?」

「舌噛むよッ!」

 ふわりと胃が浮き上がったかと思うと、俺は〝落下していた〟

「い゛ったっ」

 俺の心づもりができないうちに地下道への入口に飛び込んだサシャを恨みつつ、負ぶわれて足を引っ張りかねない存在の俺はそれ以上何も言わずにサシャの背にしがみつく。

 サシャは女の子だから嫌がるかもしれないが、鍛えられたこの背に掴まっていれば安心だと思える、見た目以上にがっしりした体躯に信頼を寄せる。そしてできれば、もうちょっと思いやりを……

「ア゛ア゛ア゛……」

 サシャは真っ暗な地下に早くも目を慣らしたようで、迷路のような道を素早く的確な判断で疾走していく。俺は体勢を整えることもできないまま、サシャの急転回で目を回していた。

「ロド、気を確かに持て!」

「わ、わかった、うう」

「これから私たちは……サウード家の牙城を崩す!」

 回らない頭を、さらに打ちつけられたようだった。

「どこに向かってる?」

「預言者セフレタ=サウードの潜伏地、ピカロスへ!」

「ピカロスだと……?」

 俺の頭は今度こそ覚醒する。

「預言者と直接、対決するつもりか?」

 サシャは答えなかった。一瞬の静寂に、聞こえるべき足音より多い音が聞こえる。

「穴をふさぐ時間まではなかったからね……あの追っ手どもも追っかけてきてるんだろう」

 そんな無茶な。敵地に乗り込むのに後ろからも追われているなど、俺たちに逃げ場はないではないか。

「あがるぞ!」

 今度は身体が地面に押し付けられるような感覚が俺を襲い、サシャが高く飛び上がったことがわかった。

 ザッと音がして、サシャの足が地につくのが感じられる。しかしその位置は、明らかに今まで走っていた地下の道よりも高い位置にあった。

 地上に出たのか……?

 恐る恐る目を開けると、目を射る朝日に思わず手をかざす。その拍子に、俺はサシャの背から落ち、地面に尻もちをついた。

 また目を開ける。サシャの背の向こうに見えるのは、ピカロスと呼ばれる、サウード家が拠点を置く都市国家。元々居た支配層は一掃され、事実上預言者の独裁状態の町。

「覚悟はありますか、ロドリゲス」

 俺は横を向いた。ヘリスがいた。

「預言者セフレタは、自らの肖像画を描くことを頑なに禁じました。だから、我々は倒すべき相手の顔を知りません」

 広大な土地を牛耳る商家のちょうにしては異例なほどに、ごく一部の人間以外は預言者の顔を知らない。それはクルーンという経典にそう指示があるから。崇高な存在を画に描くことを禁じた意味が、わかった気がした。

「そこで、我々は必然的に、あなたに似た人間を探すことになる」

「――え?」

「あなたと預言者は異父兄弟です」

 薄々勘付いてきたことだったが、面と向かって言われるとなかなか堪えた。やっぱり、預言者は、俺を〝教えに邪魔な存在だから〟消そうとしている。

 感慨にふけっていたら、俺が気づき損ねていたもう一つの事実をヘリスから述べられた。

「あなたは、同じ顔を持つ兄弟を、もしかしたら手にかけないといけないかも、しれません」

「――わかった」

 俺はなにもわからぬまま頷いた。そして、立ち上がり、地下道から追いついた後ろの軍勢の先陣を肘鉄で沈める。

 狭い地下道を追ってきたのだから一人づつしか通れまい。だから楽に闘える……そう思っていた。

「――リオ?」

 俺たちを見下ろせる位置にある櫓の窓から、背を押されるようにして顔を出したのは、先ほどまで自分たちを一緒にいた存在――逃げたはずのリオが、なぜここに?

「チッ……これはまずいことになった」

 アーチャーが矢を引き絞った。

「恐らく、あの小屋の周りを、多神教徒軍に包囲されていたのだろう……どうしても戦争がしたい一部の人間によって。そして、自由になりたくて逃げだしたリオを再び担ぎ上げたのだろうな。そうでなければ、少なくとも大事な指揮官と思っていたのなら、危険な先陣なんて駆けさせないはずだ」

 そう言って、アーチャーは照準をリオに定める。リオは唆されて櫓を降り、死んだ目で俺たちに剣を向けた。

「悪いが、死んでもらうぞ。指揮官の帰還により蒼い目の民に勢い付かせるわけにはいかない」

 茶番は、うんざりだ。彼はそう続けた。俺はリオの命乞いを始める。

「何も殺さなくてもいいでしょう? リオは担がれただけの男……」

「だからこそです。思い出してください。サウード家と多神教徒軍の一部は、戦争で得た利益を分配する、共栄関係にあります。リオを仕留められなければ、敵であるはずの多神教徒軍内通者によって預言者の身が安全なところに移されかねない!」

「俺たちが預言者を見つけ出すことを、こいつらは許せない、と」

「時間がない! かかるぞ」

 肉が切れる音がして、尻もちをついた状態のリオを押しのけるように出てきた蒼い目の民が横っ飛びに吹っ飛んだ。俺は思わずリオを引き寄せる。俺を巻き添えにはできないと踏んでか、アーチャーは次々に地下道から出てくる人間を射ていった。この距離ではいくらクロスボウでも的を外すことはないらしく、急所をやられて誰もが一撃で倒れていく。

 そして律儀なことに、アーチャーは倒した屍から、矢を引き抜いた。

「無駄遣いできるほど、恵まれた戦力ではありませんからね」

 そう言って、俺の腕からリオを奪う。

「な、なにを!」

 アーチャーはリオの髪に、懐から出した瓶で黒い液体をかけた。そのときのリオの悲しそうな目が忘れられない。そうして、リオを突き放す。

「どこへなりとも、お逃げなさい。今度は、自分の意思で人生を歩むことです。死にたいなら死んでも構いません。しかし、私たちのやることを邪魔だけはしないでほしい」

 地べたにへたり込んだリオを尻目に、俺たちはピカロスという町に歩を進めた。

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