肩震わせて
リオは俺の持っていた碗を静かに奪った。サシャがリオを睨み付けたが、彼は気にしないそぶりだった。取り返そうと手を伸ばせば、ヘリスに払われる。すぐにその意味がわかった。リオは、美しいガラスの碗を、中身もろとも床にぶちまけた。
水っぽく高い音が狭い小屋に反響する。
「なにすんだよ!」
リオの目は虚ろで何も映してはいない。サシャが俺の胸を必死で押さえつける。ヘリスと奇形の青年は、リオの周りを音もなく取り巻き、彼を落ちつけようとする。俺は戸惑っていた。さっきまで、リオは普通にしゃべっていたじゃないか?
「いまは何も言うべきではありません」
奇形の身体を器用に動かして、青年がリオを外に連れ出した。そのあと、ヘリスが俺に小声で言った。
「なぜだ?」
「あの人は死にたがっています」
「薄暗い部屋にずっと閉じ込められていたらしいから、心が壊れたのかもしれない」
サシャが補足する。それにしたって、彼は前はそんな風じゃなかったのに、
「お前はかの一族のことを大して知らないでしょう。北方にあったというクリ族の国は、架空のものです。クリ族の帝国が土地を涸らし、土着の民族を軽んじたという記録はどこにもない」
「なに……?」
「ならば聞きましょう。それほど繁栄した国の支配層の一族にしては、末裔の数が少なすぎやしませんか? それこそ、迫害されていた側の興した国が、識別番号をつけて管理できるほどには」
俺は言葉を失った。他民族の政治参加を許さず、厳しい迫害を行っていたクリ族が圧倒的に少なく、その後に興った国のクリ族ではない民族の方が圧倒的に多い。本当にクリ族だけが牛耳っていた国があったのなら、地元住民を高位の官職につけないと国が持たないだろう。――矛盾。
「そ、それでも……ラーマ王国の迫害で徐々にクリ族の末裔が少なくなったとか」
「ラーマ王国が迫害しているのはクリ族だけではないでしょう。あなた方、至って普通の移民も疎外して、迫害して。私有財産権すらろくに認めぬまま。そんななか、クリ族だけを、一国の支配層だった民族が絶滅寸前になるまで迫害しなければならなかった意味はありますか?」
ヘリスの論理に、俺は膝をついた。その通りだ。前身となったクリ族の国とやらが一族独裁の国だったとして、その後に革命軍が国を興したとして、その国が多様性を認めないのはちゃんちゃらおかしいのである。そして悪名高い旧帝国の支配層の末裔を憎しみのあまり迫害するのはわからなくもないが、それなら移民まで疎外する理由まではないのである。
ふと窓が赤らんだ。どうやら俺は夜明けの瞬間を目撃したらしい。
落ち着いたらしいリオを連れて、奇形の――いや、あの薄い胸の青年が戻ってきた。
「お前……」
「ほう……こちらの姿の方が記憶に残っていますか。確かに、こちらの私の方が、時間軸的には最近ですがね」
そういって彼は右足のふくらはぎを胸まであげた。それは身体の柔らかさというよりは、関節が外れたような動きだった。そして、膝を音をたてて外し、あらぬ方向に曲げてみせた。
サシャが思わず息を飲んだ気配が感じられた。もしかしたら目を背けているのかもしれない。けれど、俺は視線を離せなかった。戸を開けて外に出る前の、ついさっきこの小屋で俺が見た彼の姿そのものだったが、それはあの日――俺が家の前で富裕層に痛めつけられているのを見てみないふりした少年の姿そのものだった。
カタカタと身体を揺らして俺の元まで彼は歩いてきた。俺は思わず肩をすくめたが、彼はフフと笑い、足を元通りにしただけだった。
「私があなたを妹さんから離れさせたことを恨んでいますか」
俺が鉱山から去った日の胸板の薄い男の姿の姿に戻って彼は言う。
「――いや」
言葉に詰まる。あの日を境に、俺の人生は変わってしまった。恨むべきか有り難がるべきか迷っていたら、再び衝撃的な告白が次々と俺を打った。
「実は、私はあなたの妹さんから頼まれていました。素性を明かせず自分の元にいるあなたを守ってほしいと」
「――ミーシャが?」
「ところであの鉱山を仕切っていたのはサウード家であったことは知っていますか」
「――え?」
「ミスナ教が急速に、強大な財源を後ろ盾にして、創始者の存命中に教団組織まで設立できたのは、けして預言者と呼ばれる教祖の仁徳でも、教えの内容の素晴らしさでもない。平等を謳う神の教えを広めるために、教祖は人種差別の巣窟であるラーマ王国に拠点を構え、資金を確保していたのです」
「し、しかし、ラーマ王国は移民排斥の国ではないか。西方の教祖とやらが、なぜあの国のなかで平然と商売ができる?」
「一定量の紙幣を、ポンと渡したらしい」
サシャがぼそりと呟いた。
「ええ。あの宗教の教祖は、賄賂の常習犯ですよ」
「死なせて」
俺にその声が聞こえていれば、リオを殺さなければいけないこともなかったかもしれない。
俺はうつむいたままの彼がなにか口を動かしたのを横目で捉えつつも、ヘリスたちのもたらす真実に食らいついて離れられなかった。
ヘリスはリオに落とされた俺のための菓子を、また作ってくれた。俺はそれを頬張り、冷たい食感を楽しみつつも、これまでで一番気になっていたことを尋ねようとする。
「ちなみにだけど」
「はい?」
「ヘリス……貴様が、俺に毒を飲ませたのはなぜだ」
脚の感覚がなくなるほどの毒を飲まされたことは、過去のことは水に流せと言われても、さすがに嫌悪感が拭えない。この際に、けりをつけておいたかった。
「ああ、あれですか」
ヘリスはこともなげに言った。
「徴兵からあなたを遠ざけるためです」
「徴兵とは、サウード家の……」
「この戦争に、駆り出されることです。ただ、よほどあなたのことが大事だったのでしょう、あなたと共に行動していたキャラバンのセオドアとかいう男に、あの神経毒はすぐに自然解毒されると伝える前に、あなたに毒を飲ませた男をセオドアが殺し、極秘裏に協力関係にあったルイス家当主も殺してしまったのは、痛かったですね」
「あなたはルイス家と協力関係にあったのですか?」
「ええ。サウード家に表向きは隷属している身で、外部からの情報を得られる貴重な拠点でした。ただ、あの家の内部の諍いは気にしていませんでした。それが仇となりましたね。――あの家の当主がしきりにセオドアに棄教を迫っていたのも、彼から私の教団への裏切りが漏れることを懸念してのことだったようですし、私はあの家を滅ぼしてしまったに等しいでしょう」
「死なせて」
「なんか言ったか?」
ヘリスとの話を邪魔された気がして、俺は苛つきを隠しもせずリオに敵意を向けた。その瞬間、リオの顔が歪んだ。
「私は……私は所詮、駒に過ぎないんだ」
「何を言って……」
「皆さんの思惑なんてわかっています。私自身が熱弁を振るい、憎悪を駆り立て、戦争に向けて背を押し出し続けた民たちに、お前たちは間違っていたと告げなければいけないのでしょう? 私が導いた民を、あなた方とともに糾弾しなければならないのでしょう?」
「待て、お前は軟禁状態にあって軍の指揮に影響していないのではなかったのか」
聞いた話との整合性のなさに俺はヒステリックにリオを追い詰めた。
「私はあくまで担がれただけの哀れな首長であってほしかったのでしょう?」
やはり精神がおかしいのかもしれない。リオの声も、態度も、正気の沙汰とは思えなかった。
「私が、率いたんだ! 私が、我々蒼い目の民を差別するラーマ王国憎しの弁をとったんです!」
「落ち着け、リオ!」
「リオさん! とりあえずお水を!」
俺とサシャが慌てるなか、ヘリスと青年は何やら思案しているようで、俺は二人に目を向ける。
「なにやってんだよ! 水かなにか持って来いよ!」
「いや……これは想定外の事態です」
「何なんだよ!」
「リオさんは初めから
哀れな傀儡としてなら、ヴィンチ地峡を混乱させた罪をリオには被せなくてもよい、ということだろうか。
「それに、初めは彼らの敵が王国だったというのも気になります」
青年が言った。
「これは……思ったより、闇が深そうですね」
明言を避ける青年の配慮も知らず、サシャが無遠慮に、何かいいことを思いついた子どものようにこう叫んだ。
「それって、絶対リオを引き込んだ奴がサウード家と通じてるよね!」
リオの駄々を捏ねるような挙動が、止まる。
「だってそうでしょ? ラーマ王国が悪だと吹き込んで、そういう風にリオに大衆を扇動させたのに、途中からリオを閉じ込めて敵をミスナ教団にすり替えるなんて、絶対『武器商人が得た利益を三分割しようとしている多神教徒軍の内通者』ってその人のことだと思うな!」
リオが、完全に壊れた瞬間だった。
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