鈴の音

 東方の擬音語で、鈴が鳴る音を「リン」と表すらしい。彼のその名は、親に名付けられたものではなかった。

 家なき子として生まれ、道行く旅人たちから施しをもらうことで生き延びた。何日も水すら口にできないことがあり、裕福な商人の持っていた水筒を奪って飲み干したことがある。それ以前にも犯罪まがいのことに手を染めたことは多々あった。しかし、それが最後になった。

 セフレタという名の商人は、彼に名前をくれた。砂漠で貴重な水を奪ったにも関わらず、使い走りとして雇ってくれた。学のない自分に商いを教えてもくれた。

 ある日、彼は洞窟に瞑想に行ったきり、しばらく戻らなかった。やっと顔を見れたと安心したのも束の間、彼は恐ろしいものを見たと触れ回り、騒いだかと思えば部屋にこもったきり出てこなくなった。

 神の啓示を得たとわかったのは、一週間経った日のことだった。

 鈴のような良い声をしていると名付けられた彼は、その名に負けることなく預言者となった主のために奔走した。よく通る声で、神の教えを詠唱し、支持者を増やしていった。

 兄貴分のセフレタは、リンを布教の功労者としてよく褒めたたえてくれた。くしゃくしゃにした顔で、頭をガシガシと撫でられたことを誇らしく思い出す。

 それが、いつ変わってしまったのだろう。

 セフレタはいつしか独裁者になってしまった。自分を弟分ではなく、本当に使い走りとして扱い始めたときから、見えない壁が築かれ始めたのを感じていた。そしてそのきっかけは、セフレタの異父兄弟が、異国で生きているらしいと彼が知った時期であるように、少なくともリンには感じられた。

 セフレタが初めて、商人としての一線を超えたのは、ラーマ王国に商業進出する際に、政府要人に賄賂を渡したときだった。

「主さま……」

 一線を超えたあとは、雪崩のように全てが変わってしまった。宗教は営利集団になり果て、預言者は神の名を騙り土地を支配した。

 リンにとってのセフレタは、優しかったころの、人の目をした隊商の長としてのセフレタだった。彼は、そんな主を変えてしまったモノに、ある種の恨みを抱いた。

「ロドリゴ=セレナ……お前が……」

 異国の地でのうのうと生きる、主と同じ血を引くモノが、許せない。酷い仕打ちを受け、要塞と化した預言者の屋敷を追い出されてもなお、リンの忠誠は根本的に揺らいではいなかった。

「主さまを壊したのは、お前だ!」

 まだ見ぬ青年――ロドに、憎しみを募らせるリン。声と同じく整った顔が醜く歪み、唾を吐き捨てる。彼はロドという青年が、主とよく似た風貌であることを掴んでいた。陽たる預言者のかげを廃するべく、彼は逃げてきた都市国家ピカロスの堅牢な櫓の、地下に息を潜めている。

 リンには、ロドがここに来るという確信があった。それは確信というよりは、怒りに満ちた、こうあるべきという理想かもしれなかった。

 ざん、と音がした。それは先の戦いで聞いた弓のつるの震える音に似ていて、しかし少し違う音だった。


 ここに自分と同じ顔をした異父兄弟がいる――。

 サシャの背から下り、自分も殴りかかってくる敵を組み伏せながら進む。サウード家と懇意だったヘリスの案内で敵の懐まで無傷で歩けた俺たちは、味方を撃つ可能性があり弓矢を使えない敵を尻目に、ドンドン進んだ。

 味方が少なく敵が多いのは、ここではほんの少し有利に働いた。こちらは向かってくる者を撃っていけばいいが、敵の弓兵は高所に位置していながら、自陣のただ中に敵が現れた混乱で敵にとびかかる味方のせいで俺たちを撃つことができない。

 でも、敵が学習するのも時間の問題だった。地の利があるのが敵であることも、数で劣っているのが俺たちであることも、変わりはない。

「後ろ!」

 サシャの張りのある声に、俺は慌てて振り返り短刀を横一文字に振りぬこうとして――止めた。


「貴様が、ロドリゴか」

「――俺の名を、なぜ知っている」

 俺よりもやや年下と思われるその男は、敵を目の前にしてご丁寧に名乗ってみせた。

「私はリンという。セフレタさまの、使い走りだ」

 フッと俺は鼻を鳴らした。使い走りに用はない。

「死ね!」

「いいのか、俺を殺して」

 俺の手はまた止められた。忌々しい、戦いに要領のえない問答など不要だ。弑すべき異父兄弟の部下ならば、敵だろう。問われるまでもない、俺は殺す。

「まあそう急くな」

 やけに自信のありそうな言い方に引っかかった。

「案内しよう。俺は貴様の敵の居場所を知っている」

 俺は周りを見回した。ヘリスにアーチャー、サシャは、隊列を取り戻し始めた敵の戦術に苦戦し、やや離れ離れになっていた。そして、リンと名乗った彼に手を引かれて連れてこられた場所は、倉庫の影で敵からは目をくらませられている。

「我々の味方なのか?」

 俺は問うた。

「ああ。私もセフレタさまのやり方には納得していない。貴様の本懐を遂げる手助けをしよう」

 信ずるべきか否かは、わからなかった。しかし、仲間とは離れている。敵の頭を叩けば、苦戦を強いられている仲間が脱出できるかもしれない――。

「本当に案内してくれるんだな?」

 俺は腕で進むべき道を指し示すリンに誘導され、人一人が通れるほどの隠された戸をくぐった。


 この瞬間に、俺は判断を誤ったのだ。


「サシャ」

 アーチャーが苦労してサシャに近づいてくる。

「アーチャー、ロドが」

「ああ。見失った。どこに行ったのだ」

 焦燥を顔に浮かべ、繰り出す攻撃に迷いが生じる。戦場での迷いは、命取り。

「ウッ」

 サシャは肩から腹にかけて大きく斬られ、意識が遠のく。反撃をしようとしてふらつくサシャの体重を支え、その過程でアーチャーも傷を負った。

 ヘリスの苦悶の声も、遠くから聞こえた。

「この女とロドリゲスの命が惜しくば、我々に従え」

 ロドも敵の手に落ちたと悟ったアーチャーは、唯一受け答えができる者として、仲間の命を優先させる決断を下した。

 ガシャリと音をたてて、彼の持つ愛用の弓は地面に落とされた。


 ――チャッ

 舌打ちのような音のあとに、首元に冷たい感覚を覚える。

 背筋の震えが、〝嵌められた〟と告げていた。

「折り畳み式の短刀かなにかか」

「その通りだ」

 動揺を悟られまいと腹に力を込めたが出てきた声はなんとも頼りない。これが俺の最期なのだとしたら、報われないと俺は思った。

「お前も、預言者のやり口が気に食わないのではなかったのか」

 どうせなら、納得して死にたい。あのときのリンは、本当にセフレタにうんざりしているように、俺には見えたのだ。あれは演技だったのだろうか。

「ああ、気に食わない。そして、主さまをそうさせたのは、ロドリゴ、お前だ」

 冷たい感触が首を伝い、遅れるように痛みが線を描く。ああ、俺は首を切られているのだ。――そして、この男は俺とセフレタの秘密を知っている。

「――俺が憎いか」

「憎い……これ以上なく!」

 冷静な策士に見えたリンの感情が揺らぐのを感じた。

「ウッ」

 俺はリンの腹を肘鉄で突き、怯んだ隙に来た道を引き返した。

 その先の、さっきまで立っていた戦場に、仲間の姿はなかった。

 鈴の音が、頭のなかでリンと鳴った。俺は道を間違えたのだと不意に悟った。

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