預言者の罪

「やれやれ……、」

 そう言ってミスナという神からの啓示を受けた賢人は、一人の人間に事実上の死刑宣告をしようとしていた。

「やれやれ……私とてこんなことをしたくないのだが、な」

 そういう顔の口角は、本人が気づいてはいまいが、やや上がっていた。そこに神の選んだ実直な青年の姿はない。洞窟にこもり日々社会の乱れを憂いていた心清き人の面影は微塵もなかった。

「私は神に選ばれたのですよ……そんな私に、私生児の兄弟なんて必要ないですからねえ」

 ――それは、驕り。あるいは、増長した憎しみであったかもしれない。預言者にさえならず、ただの商人であったなら、心の底にしまっておけたかもしれない歪み。それを、彼自身の増大した立場が露わにした。

 彼の母親は不倫をした挙句に国を出奔した。父を早くに亡くしていた彼は、伯父の元に引き取られ、やがて商人として名を上げた。実直な青年であったが、己に愛を注がず不貞を犯した母親を、本能的に許せずにいた。

「選ばれたことには意味がある……意味を持たせないといけない・・・・・・・・・・

 母親はラーマ王国に逃れたと彼は聞いていた。一族の掟では、不貞を犯した女は問答無用で死刑だった。その掟を逃れ、異国の地でのうのうと生きている。彼は憎しみによる好奇心で、母親のことを部下に調べさせた。母親は、異国の地で子をなしているらしいと聞いた。なにかがじわりと腹の底でうごめいた気がした。

 ラーマ王国はかつて、移民への大迫害を執行した。もはや生きてはおるまいと、名も知らない血を分けた兄弟を憐れんだりした。生まれながらの罪人つみびとである兄弟は、不貞を犯した母親とともに死んでいるだろう、そう思いたかった。

 その兄弟が、生きている。そしてよりにもよって、自分の宗教の傘下にいる。その可能性を聞いたときに、彼の心は壊れたのかもしれない。

「預言者さま」

 彼を呼ぶ声が聞こえた。

「なんだ」

 唇に浮かんだ薄ら笑いを引っ込め、慈悲深い顔を貼りつける。それは預言者として身に着けた技能・・

「サーヴァさまより伝言です。例の少年、自分が預言者さまの威光を妨げる存在であると、知っていた可能性があります」

「サウード家の血を引く悪魔の子であると、知っていたと」

「は……」

 かしこまる伝令に、不安の色が浮かぶ。

「本当に、かの者をあの戦場に行かせるので……?」

「当たり前だ。あの者が生きていれば、私の言葉に説得力が出ぬではないか」

「ご自身のために殺す、と」

 伝令は、かつての預言者を知る者として、決死の覚悟で預言者のエゴを問い質した。

「――控えよリン。私は神の言葉を話しているのだぞ」

 それは、預言者自身も気づかぬほどの冷たい声色。

 自身の、自身が疑いもしなかった聖性に、異論をつけられた気がした。だだをこねる子どものように、預言者は伝令を睨み付ける。

「リン、そなたは私の一番の理解者だと思っていたが」

 私への愛情はないのかと母親に噛みつくように、

「神の言葉を話す者が、身綺麗でいなくてどうする」

 己の傲慢にも気づかぬまま、

「リン、お前は明日から来なくていい」

 決死の勇気で諫言かんげんした人間を死に追いやった。

「――預言者さま」

「まだいたのか」

 悠然たる風格を示しているつもりで、その実幼い虚栄。そんな絶対権力者に、力なき伝令が手を伸ばす。いつからか変わってしまった主に、かつての姿を重ねるように。

「死ぬ前に一言だけ、言わせてくださいませ……預言者さまは、神の代弁者であって、神そのものではありませぬ……!」

 預言者の、貼りつけた仮面の顔が、般若の顔で塗りつぶされた。それはもう、醜い聖人の一面に、リンと呼ばれた少年は身をすくめる。それでも、慈悲深かった彼の面影に、彼は願いを込めて語りかける。

「――聖職者という身分は作らぬ、神の声を聞くことができたとしてもそれは人間だ、特権階級にはしてはならない、それらはあなたから聞いた言葉です」

 恐怖で声が枯れ、みっともなく涙が頬を伝おうとも、リンは叫ぶように声を張り上げる。

 リンは、預言者が率いていたキャラバンで働いていた見習いの駱駝引きだった。駱駝を怒らせ荷物を落とし、商品を台無しにしてしまったときも、商談の最中に眠気に耐えきれず欠伸をして取引先をひどく激怒させ、常連の取引先を無くしたときも、預言者はリンの涙をぬぐい、一緒に謝ってくれた。

 その彼が、いまや高価な書斎に座し、非力な自分を見下してくる。肝が縮み、涙が溢れようとも、兄と慕ったあの人の大きな手は自分を支えてくれない。

「ウガッ……」

 気が付けば、その手で殴られていた。

「頭が高いぞ、リン」

 恐ろしく冷ややかで、底のない闇をたたえた目がリンを射る。

 地面に這いつくばったリンは、もう何も言わなかった。軽く腫れた頬を指先で触り、楽しかったあの日々との断絶を、確かに噛みしめる。

 高値のつくペルシャ絨毯に、自分の血がわずかについたことを確認し、リンはゆっくりと立ち上がった。

「失礼いたしました」

 リンは最敬礼をした。そして、目の前の主人を見ることなく、視線を下に這わせたままに、扉をあけて、廊下に出た。

 ここを出れば、生きて帰っては来られない。それをわかっていて、止めてくれないのか。

 どこまでも冷えた心で、リンは退出した。

 ゆっくりと、リンは廊下を歩く。生気を失った顔をすれ違う誰もが覗き込み、彼の出てきた方向を見て納得した。そして気まずげに視線を逸らし、何事もなかったかのように各々の用事をこなしていく。


 その夜、リンは脱走した。

 絶大なる権力を誇る預言者に逆らうことは、それ自体でとてつもなく勇気のいることだ。そして、歯向かった者も逃げることはせず、座して死を待つ者が多い。それは、脱走したときの預言者からの報復が怖いからだ。

 脱走した信徒は、ものすごい勢いでその顔と、識別可能な身体的特徴ー例えば傷痕や肌の色などーを幹部全員で共有される。

 その後待ち受けるのは、どこまでも付きまとう悪い噂。

 人を殺したとも、借金を抱えているとも、似顔絵をばらまかれ過度に噂を流され、それが消えることはない。なぜなら、教団が定期的に宣伝するからだ。そこまでの労力をかけて、教団を抜けるということに恐怖感を植え付ける。その恐怖感を、リンは打ち破った。

 ――リンには、悪評を流されて悲しむ係累が、いなかったから。

 志は清かったはずの、実直な青年が、こうなってしまったことを、ミスナはどう思っているのだろうか。自らが彼を選んだことに、罪悪感などというものを感じたりするのだろうか。

 それもこれも、人間のなかで唯一神の言葉を聞き得た預言者の心が闇に落ちてしまい、神の口が封じられたいまはわからないことだった。


 リンが去ったのちの部屋で、預言者は書斎に戻っていた。リンが脱走する前の時空である。

 なにやら書類に目を通すが、作業が手に付かない。

 なにか重大な忘れ物を、どこかにしてきたようで、心がせわしなく空転する。拠り所を失った雛鳥のようになにかを探すが、それが何であるか、彼にはついにわからなかった。

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