己の心に勝つまで

「……行こうか」

 リニャの声色がやや暗い。ニヴァは農耕国家であり、田畑を耕す農民が国民の七割を占める国だった。緩やかな丘陵の頂上に神殿があり、それを囲むように世襲制の政治家たちの屋敷があり、その周辺に、豊かな雨水で肥えた土地が広がっている。気候は温暖で雨量は多く、作物の栽培に適した気候だった。

 田畑の周りには放牧された牛や羊がのんびりと草を食み、それを追う牧羊犬が細やかにそれらを誘導する。それが、いつもの風景だった。思い出せる限りの期間この国は不作に見舞われたことがなく、対応不足で今は国民の九割が重度の栄養失調にあった。

 およそ人間が生存するのに必要な作物や肉は自分で供給できてしまうこの国は、その驕りから他国との交流をなおざりにしてきた。他の国々が一斉に飢饉に見舞われた年も、ニヴァは雀の涙ほどの食糧しか拠出せず、自身らは優雅に毎日を送ってみせた。

「鳥のくそより臭い国、か」

 飢えで死んだ老人が無様に捨てられた郊外を歩く。腐敗臭が鼻をついた。牛も豚も飢えた人々によって見境なく皆殺しにされ、未処理の獣の骨がそこかしこに捨てられていた。そこにはハエがたかり、近くを通ろうものなら羽音が脳内を揺らすようだった。

 元々、第一次産業に過度に依存したこの国は家畜の糞の臭いであふれていると揶揄されてきた。そのニヴァが、その悪名をさらに高くしてしまったのが、ヴィンチ地峡を襲った大飢饉の年だった。

 リニャが呟いた言葉で、揶揄されていたのはこの国の民たちの心だった。鳥の糞よりもなによりも、この国の国民の心は腐り果てている。そういう意味のブラックジョークだった。

「ホントにこんな国に援助なんてしてよかったんですか?」

 最近キャラバンに入ったばかりの少年が、さも不満ありげに口を尖らせた。彼にとってニヴァを許すことは難しいだろう。しかし憎悪をほおっておいては彼のためにならぬと思い、リニャは優しく諭す。

「そう思うか」

「あったりまえじゃん。ニヴァ国が狭い心しているから、俺んちのじいちゃんは飢えて死んだんだぜ?」

 五十年も前のことも、憎しみが連鎖して語り継がれ、こんな小さな子どもすら知るところになっているのか。リニャは眉を曇らせる。

「そうか……サチ、あの人を見てごらん」

 そこにはあばら骨が太陽の元にさらされている死体があった。それを、大きな羽根の鳥がついばんでいる。腐った肉が骨から引きはがされ、ハエの群れの形が変わるのが遠目にもわかった。

「ん……」

「目を逸らすな。よく見るんだ」

 サチと呼ばれた少年は、頭を掴まれて死者を見せられる。そのまま引きずられるように死体に歩いていく。そしてグイ、と顔を死体に近づけられ、思わず息を止めた。

「よく見ておけ。無様に死んだ人間の死体だ。そしてどう思う? どう感じる? お前はこの死体を足蹴にできるのか? この人が、お前の爺さんを殺した犯人なのか? お前にはそれがわかるのか? 仮にわかったとして、足蹴にしたとして、何が変わる――?」

 フルフルと顔を横に振り、後生だから離してくれと目で訴えかけてくる。それを見てリニャは、仕方ないという風に肩をすくめ、手を離した。

「やれやれ」

 馬車の中から、心配そうに仲間が見てくる。一刻も早く乾燥豆を届ける方が先決だとリニャは判断し、何も言わず、嘔吐するサチを置いて馬車に戻る。恨めしげな視線を感じないわけではなかったが、あえて無視した。置いていくのも一興であると思ったのだ。

「小さい子にはきつかったのではないでしょうか?」

 リニャの右腕としてセオの追放後重用されているミナという金髪の女性がリニャに恐る恐る進言する。

「いや、幼いからこそだ。復讐は上手くいかないように神が裁断される。お前とて知っているだろう。〝神の裁可を代行するなかれ〟――罰は神が下すものだ。それを正当な手続きを経ず遂行すれば、神の名を騙る重罪にも等しい……神の名を騙ったものは業火の地獄で苦い実を永遠に食まねばならぬ。サチが己の心に勝たなければ死後の安寧はない。奴のためなのだよ」

「それはそうですが……」

 ミスナ神は私怨による復讐を禁じている。それがどれほど信徒に苦痛を与え、どれほど残虐非道なものであっても、神の定めた公的機関を介さずに復讐をすることは認められていない。

 信徒同士の結びつきや社会を重視するミスナ神は、社会に重大な悪影響を与えかねない凶悪犯に関してのみ死刑を認めており、仮に死刑に値する罪を犯した者でも、それを許可なく殺せば被害者側に死刑が告げられかねない。

 それは場合によっては被害者や遺族にとって酷な宣告になりうる。けれど、頑なにミスナ神は復讐を禁じ続ける。それは、ひとえに憎しみの連鎖を止めるためだとリニャは考えていた。

「人間は関わりのなかで生きている。どんな悪人にも、連れがいるかもしれないし、子どもがいるかもしれない。どんな人も殺してしまえば涙する人はいるんだ。――そう思わないと、こちらの心が穢れてしまう。独り者の罪人なら・・殺してもいいのだと、考える人がでてきてしまう」

「よく存じております」

 ミナは静かに答えた。説得するのを諦めたようだった。そうしている間に嘔吐していたサチも馬車に復帰し、馬を引く任務を年上の少年に代わってもらい荷台に座り込んだ。

「お、歩いてこれたか見上げた奴め。豆の上に吐くんじゃねーぞ!」

 重い話も一転、明るい声でリニャは激を飛ばす。合図をすると、御者が綱をとり馬はいななき、一行は進み始めた。


「……どうぞ」

 ふてくされながらも、サチは麻袋につめられた一人分の乾燥豆を、受け取りにやってきたニヴァ人に渡していく。

 雨が降らぬ苦しみは、飢饉の最中にいる人間にしかわからないだろう。はた目からみれば、空が雲に閉ざされることのない好天続きに見えるからだ。しかし、気持ちいいほど赤々としている太陽から視線を落とせば、腐ることすら追いつかぬ死体やひび割れた地面がある。憎き太陽を恨み、下しか見ない人が多かった。

 そんな目から光が失われて久しい彼らが確かに袋の重みを感じ、袋を開けて口角をほころばせるのを、複雑な感情でサチは見つめていた。

「どうだ? 進捗しんちょくは」

「担当分の半分を配り終えたところです」

 サチはリニャに不愛想に答える。目も合わせようとしなかった。肩をすくめてリニャはサチの隣に立つ。

「……悪かったな」

「――え?」

「さっきのことだ。飢えで死んだお前の爺さんも、あんな風に骨と皮だったのだろうな。連想させてしまったかと思って」

「……別にいいです」

 サチは相変わらずリニャの顔を見なかったが、その声色は幾分か和らいでいた。

「僕はいまもこの人たちを許せません。だけど、いまこの人たちが飢えるのを黙って見ていたくないって、思ってる自分がいたんです。何でかはわからないんですけど」

 リニャは驚いたようにサチを見つめた。そして父のように温かく微笑んだ。

「そうだな。ニヴァ人だってそこまで恩知らずじゃない。お前が己の心に勝って彼らに施せたことが、将来俺たちが困ったときに、きっといい風に返ってくる。偉かったな、サチ」

「……うん」


 ニヴァへの食糧援助を終えた後、キャラバンは北に向かった。宣戦布告からすでに一週間が経とうとしている。そろそろ、同胞たちと合流すべきだろうとリニャが思ってのことだった。

 頭の隅に、ロドリゲスとバナージのことが浮かんだ。

「あいつら……ちゃんと訓練受けてるんだろうな?」

 リニャは、ロドリゲスとバナージが特攻部隊にされるなどまったく聞かされていなかった。

「生きて帰れよ」

 リニャの願いもむなしく、死が運命づけられた戦場に、二人は配属される。

 リニャは知らなかった。ロドリゲスを、預言者の手の者に引き合わせてはいけなかったことに。

「しかし、なんでなんだろうな。その点セオって意外と雑だったのな……」

 教団の直属部隊であったセオドア・ルイスの隊商。リーダーが保管している名簿には、リニャがセオドアから継いだときには、ロドリゲスの名がなかった。

「お陰でサーヴァさんにみっちり説教されたじゃねえかよ……『お前の隊商に出入りしているロドリゲスはどこか』ってさ。ロドの後を金魚の糞みたいについていくバナージはちゃんと書かれてたのに……サーヴァさんったら俺が『ロドは出入りも何も俺たちの仲間メンバーです』っていったら大層お怒りになってなァ」

「どうかしましたか?」

 最近リニャは独り言が多くなっている。しかし本人は気づいていない。ミナの言葉に我に返り、「いや……気にするな」とだけ口にしたリニャは、それ以降黙りこくってしまった。

 嫌な予感が、あったのかもしれない。

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