逃走

 リオが立っていた。今のいままで気配すら感じさせずに。

 今朝まで来ていたおんぼろの服はどこへやら、糊のきいた礼服に足元は革靴だ。そして鷹揚な足取りでこちらに二三歩近寄ると、俺の頭から足元までを嘗めるように見つめた。

 上下黒の礼服に、場違いにも見える紫のネクタイが妙に目につく。

「鎖が来たわ……あの首に掛けられた布は権力の犬の象徴よ!」

 逃げられないと悟ったのか、彼女は大声で泣き叫び、へなへなと腰をついて指でリオを指さしてはそうヒステリックに弾劾した。

 あの布を、俺は見たことがある。両親がアレをつけて働いていた。その色や模様でどこの地主の農奴であるかが見分けられ、脱走は厳戒に取り締まられた。暑かろうが寒かろうがどれだけ息苦しかろうがその首に巻かれた細長い布を緩めることは許されず、十二時間に対し休憩が数分で働き続けなくてはいけない。

 ――その代り、給料は破格だった。だから俺の両親は一軒家を、貸し家とはいえ持てたのだ。最下層民優遇策とは名ばかりの、人間をこき使う労働は、確かに俺たち家族に一時の幸せをもたらし、あっけなく消えた。


 時間が急に遅く進むようになった感じがした。リオに、かつての俺たち家族を見た気がした。そんな俺を見て、リオはなぜか不敵に笑う。


「逃げられませんよ」

 話せないものと勝手に思い込んでいたリオが口を開く。喉にあったはずの手術痕は、布が巻かれているせいか、ここからは見えなかった。

「さあ、どうかな」

 そう言う俺の声は無様に震える。首のない死神をリオに見たようで、身体の芯がさあ、と冷えていくのを感じていた。

 哀れな孤児といった、俺がつい昨日に受けた印象が、日焼けで向けた肌のように剥がれていく。それは痛みを伴って、かつどちらが本当なのかわからない。

「私から逃げられた者はいません」

「なら俺たちが最初になってみせる」

「俺たち……笑わせてくれますね。この路地を行く者は足枷を引く奴隷です。勢いよく駆けだしても、足に繋がれた鎖につんのめってどこにも行けやしない」

 ちくしょう話にならねえ。俺は動けそうにないバナージを横向きに抱え、ベニヤ板一枚でできていると踏んだ、路地を挟む家屋の壁に蹴りをいれた。木の模様を見る限り、ここを蹴れば横一文字に割れるはずだッ!

 果たしてパスゥ、という妙な音を立てて壁は破られ、カランカランと安っぽい音をたててトタン屋根がこちら側に崩れ落ちてくる。

 ――いや、これはトタンですらありゃしない。バナージを抱き、彼女の腕を掴み、崩れ落ちてくる瓦礫のなかに決死の覚悟で飛び込んだとて、それは無駄な勇気だった。背に当たったのは軽い紙かと思うほどの感触で、振り向けばそれが屋根だった。

「アルミ……? それとも」

「撥水性のある紙です」

 リオの声が俺の背筋を冷やした。背を取られた。こんな幼い子どもの動きを目で追えない。瓦礫を倒して目くらまししようと思い、確かに彼もそれを、俺たちの逃げる方向から離れるように避けたはずなのに。

 家があったはずの土地に俺たちは、放射状に倒れた瓦礫のなかで、路地にいたときと全く同じ位置関係で、動けないでいた。

「チッ……」

「もう万事休しましたか。つまらないですね」

 俺たちが逃げる意思を持って、それをどうしたわけか彼が察知してここに来てからというもの、ずっと品定めされていたのだと思い知る瞬間だった。

「どう殺そうか考えていたんですがね」

「お前とて理不尽だと思っているのだろう?」

 叩きつけるように言ったのは、否定されるとわかっていて・・・・・・のことだった。これほどに、同胞を監視し、その脱走を阻止し、こんなことを言ってる人間は、きっと地位の保障と引き換えに弾圧者に魂を売っていると考えるのが普通だ。

 ましてや、地区のなかのものを束縛する「玄関の鎖」などと言われているのであれば。


「ええ、大層理不尽ですね」


「……は?」

 想定外の返答だった。

「いやいや、あなたが聞いてきたんでしょう? 私だってこの支配は理不尽だということくらいわかっている。だが、私はゼロ。くじで選ばれた、ゼロ番目の人間。そして私は鎖」

 よくわからない。俺はこの間にリオとの距離を離そうと後ずさる。だが、今まで黙っていたバナージがそれを止めた。

「下ろしてくださいますか、ロド」

「自分で歩けるのか?」

「いえ……ただ、彼に一つ確認しなければいけないことがありますので」

 バナージは俺が右足を下ろすと、探るように足を地面につけ、左手で背中を支えることでやっと立ち上がった。

 そしてバナージは、リオの方を向いた。一つ息を吐いて、リオの一際蒼い目を見つめる。

「ゼロは、識別番号の最後の、ハイフンのあとの数字ですね」

 番号? 確か彼女の番号は00731-7で、リオのは00723-0だったか?

「そうだ」

 バナージの詮索を、リオは面白そうに肯定する。

「あなたの言っていることを総合すると、最後の数字は区画内の住民で被らないように振り分けられ、各数字に役割が振り分けられているのだと思いますが、いかがですか?」

「その通りだ」

「もしかして、あなたは『同胞の脱走を許せば民族粛清も辞さない』とでも言われたのではないですか?」

 ここで一時の空白。そして乾いた笑い。

「だったら、なんだっていうんです?」

「なるほど、あなたはていのいい人質というわけだ」

 俺は驚いた。温厚で柔和なバナージが、こんな話し方をするとは思わなかった。体のいい、の口ぶりは相手を激高させることを目的としているようで、その顔をリオを見下すようで、俺は少し失望する。怒らせて本音を吐かせるにしても、こんな言い方は綺麗じゃない。綺麗な魂を持つバナージには似合わない。

 そう俺が思うと同時に、リオの眉が、左右非対称に醜く歪んだ。それを見なかったとでも言うように、バナージはまくしたてる。

「ゼロ番目の住民として数字が刻まれたあなたは、お上と同胞の繋ぎ役として使い走りにされる一方、蒼い目の一族の監視を怠ったら一族を滅ぼすと脅されている。しかしそんなことが可能でしょうか? いくら各地区に〝ゼロ〝を置いて監視させようと、一人で二十人近くいた集落の住民全員の行動を逐一支配するのは不可能だ。そんなことを依頼してなんになるんです? あなたは騙されている。私も、あなたも、弾圧者から逃げることは可能です」

「フッ、言わせておけば」

 リオの返答は短かった。バナージの思惑は外れたのだろう。どう監視体制の不備を指摘しようと、共に逃げてくれるわけではないらしい。

「私はみなを苦しめる鎖ではない。私自身だけ、鎖が巻かれているのです」

「――やはり、そうでしたか」

「バナージ、どういうことだ?」

「長、それを部外者に言ってしまわれるのですか?」

 

 00731-7の口調が変わった。リオが続ける。


「私はこのこの地区の二十人を率いる組長くみおさです。この地位はクリ族のある家系が代々受け継いでいます。その大事な家系の子である私にだけ厳重な警備をつけ、他の住民の脱走は防げずとも私だけは地区に留め置きます――私を殺すと言われてはクリ族は戻ってこない訳にはいかないのです」

 話が進むごとに、なかったはずの人の気配が路地の左右に増えていく。

「長――――ッ!」

 00731-7が00723-0を想う叫び声が路地に響く。周囲に現れた黒い影が、家屋から、天井から、軒下から飛び出してくる。契約を破った組長を、ここで絶やすつもりか。そもそもリオを恐怖の対象と印象付けた彼女の行動も、リオが大事な血統の持ち主だと万が一にも気づかれぬため――。

「あああああああッ」

 俺は思わず耳を塞いだ。リオが、手に持った笛のようなものを強く吹いている。

 音が終わると、黒い影たちがみな地面に倒れ込んでいた。

「一族に伝わる秘術です。効果は一時間――走りますよ?」

 俺とバナージは顔を見合わせ、彼女は目を輝かせた。

「長、とうとう――」

「さあ、あっちだ!」

 俺はバナージを背負い、彼女はリオに手を取られ、バチンと糸が切れるように俺たちは駆けだした。

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