識別番号の下二桁

 まぶたに温かさを感じて、俺は目覚めた。けれど、それは太陽の明るさではなかった。

「ほら、いくわよ」

 聞いたことのない、いや、もしかしたら昨日俺たちを非難する声のなかにあったかもしれないありふれた声が俺の耳から伝わり、頭を弾けるように覚醒させる。

「……お前は?」

 目を開けると、バンダナを首に巻いた女性が立っていた。

「私のことなんてどうでもいいでしょう? それよりあんた、盗賊か人殺しか強姦魔か知らないけど、上手くやったわね」

 話し声にバナージも目覚め、外がまだ暗いことを確認して怪訝な顔をこちらに向ける。そして女に気づき、彼女が手に持つものに気づいた。

「……手燭」

 俺は思わず口にするが、彼女は気にしない風で喋り続ける。

「日が昇る前には労働場に着いてなければいけない。ちょっとは調べておきなさいよ。それにあんたたちは新人だから、入れ墨もいれなければいけないわ」

「なんでそんなもの持ってるんだよ」

 話の結末がわかっていて、そう聞かずにはいられなかった。抑圧されている人間が、火をその手に持つことが許されているなんて。その火を使えば、彼らにとって忌まわしいこの町を焼き尽くすこともできるだろうに。

「なんでって……日が昇る前に目覚めるためよ? こうやって皆を起こして回る役目が今日は私の担当だった、ただそれだけ」

 違う。――俺は伝わらぬ意図に頭を抱え、しかし何も言えなかった。奴隷が火を持つことを許されるのは、彼らが火を与えても反乱を起こさないからだろう。でも、それを言ったところでこの人はわかりはしない。それが虚しさとなって俺の心を染める。

 ――それより、俺たちが労働をするとはどういうことだ?

「早くしな! 新入りを躾けるのも私たちの役目なんだからね! ……まったく、あんたたちは真っ当な歴史観も持っていないらしいから、骨が折れるわね。お叱りを受けるのは私たちなんだから、せいぜいおとなしくしておくことよ」


 死刑に値する罪を犯した人間が、稀に〝地区〟に逃げ込むことがある。道すがら、いかにも面倒だと言いたげに彼女はそう言った。

「まさか、その意図がないのに来ちゃったとはねぇ。それは確かに知らないわけだわ。私たちの罪を知らないから私たちに同情的になっちゃったのも理解できる。昨日はごめんなさいね、全部知っていて偽善者ぶっているのだと思うとちょっと苛ついたのよ」

 やはりあの声のなかにあったのだ、と思うとともに、思わず目をそむけたくなる道を進む。足の踏み場がないほどに生ゴミや布きれ、金属くずの類いが落ちていて異臭に胸が詰まりそうだ。

 そもそも、さっきの板一枚が壁といった風の長屋の集落から作業場とやらに向かう道が徐々に狭くなっているのは気のせいだろうか。圧迫感は従属観を植え付ける彼らの見えない精神の檻? ――それでも息は吸わなければいけないけれど、一度に多くを吸いたくなくて、必然的に呼吸は速くなる。ハッハッと息をしながら俺はかすかに頭痛すら覚えていた。

「……どうしたの、具合でも悪い?」

 彼女は俺の背をさすってくれた。そして言った。

「薄々勘付いているだろうけど、穢れた地区に入った者は一生の労働に従事するならば罪を免ず、そんな不文律があってね。血が穢れている者と肉体が穢れた者で仲良く穢れた獣を捌こうってわけ」

 スッ、と視線が彼女に向いた。罪を犯した者を肉体の穢れとして表現することにも興味を持ったが、それだけじゃない。下を向き辛うじて吐き気をこらえていた俺は、彼女の醸し出す雰囲気が少しだけ変わったことに気づいた。それはさながら嵐が近づいているときの頬に感じる冷気のような……。

 盗み見た彼女の横顔は、俺が下を向いていると安心した上での、苦渋、理不尽に耐えていながらそれを気付かれまいという心。意外だった、彼女がそんな顔をするなんて。

 荒れ地のトカゲがそうするように視線が地面に向くように眼球だけを動かした俺は、相変わらずの悪心おしんをこらえながら確信した。政府がこの民族に施した呪いは、相互監視。思えば昨日の〝拒絶〟も不思議な反応だった。俺たちが彼女ら蒼い目の一族への同情、義憤を口にした瞬間、長屋のあちこちから沸き立つように上がった非難に、面食らったことを思い出す。それはまるで示し合わせたかのようで、いま思えばどこか必死だった。

 一族の子をみな強制収容し、教育や矯正を施しては、その子を家族に返す。いかにも子らに寄り添い、親の嘘をあばいてやる風に装って、洗脳する。そうやって嘘の歴史を教えられた子どもたちは、彼ら自身は意図しないスパイになる。家族の言動を観察し、喜々として教師役に伝えてくれる。それがいいことだと信じて。

 そんな手口を、俺は知っている・・・・・・・


 そうやって家族を売り渡したのは俺なのだから――。


「ウッ……」

「バナージ!」

 とうとう異臭に耐えきれず、バナージが膝をついた。できれば膝もつきたくなかったろうに、彼は胃の辺りを懸命にさすって吐き気をいなしている。先につらそうにしてしまった俺は、かすかにバナージへの罪悪感を抱いた。

「ロドさんは、よく、耐えられますね……」

 異物をぶちまけてしまうことに、躊躇うバナージの心を、彼女は恐らく悪気無く貶める。

「耐えられないなら、吐いちゃえば? 別に誰も文句言わないわよ?」

「で、でも、下水道に」

「下水なんてないわ。もちろん上水もね。私たちは川から水を汲んでるの」

 えっ……。

 俺は言葉を失う。

 ここはオアシスではなかったのか。砂漠に現れた、水と緑の楽園では、なかったのか。この汚れた道すらも、彼らの精神を縛る自虐の呪いだというのか。

「逃げましょう」

 彼女が霊でも見るような目でこちらをみた。バナージも、今それを言ってしまうのか、と責めるように眉を寄せ、しかし重力には逆らえず身体を丸ませて嘔吐した。彼が話せないのをいいことに、俺は畳みかける。言ってしまった以上、この人は少なくとも味方にはしておかなければ、俺たちはあの閉鎖社会で村八分に遭ってしまうから。

 畳みかけようとは、した。しかし、俺の脳内に、このたかが一晩で自分すら当たり前と慣れてしまった、看過できない違和がその鎌首をもたげる。喉から放出された気塊が、音にならずに宙をさまようのを、目の前の彼女さえ虚をつかれたように見守った。

 人が一人通れるか否かの、冥府と現世を繋ぐ細い道のような道を、俺たちは昨日来た方向とは逆に進んでいる。俺たちが地区に入ったのは思いの外簡単だったが、地区の人間の職場は大通りから離れたところにあるらしい。

 ――ならば、なぜあの少年、リオの家は通りからすぐ近くのところにあったのか。その答えは、こちらの意図を測りかねた戸惑う声色で彼女が言った言葉に集約された。

「玄関の鎖――貴方たちが昨日寝泊りした家。あの家の住民は、私たちを……監視し、逃走を防ぎ結社を壊し、名付けを断ずるわ……」

「……え?」

 相互監視、とは言い難い全容だった。

「リオ……俺はあの子に名をつけました」

 彼女はああ……とため息をつき、肩をすぼめた。

「あなたたち、殺されるわね」


 不意に彼女のバンダナがめくれた。そこには忌まわしい痕が。


  00731-7


 これが彼女の識別番号か。


「この地区の人たちはお互いをどうやって呼び分けているのですか」

 俺は顔をあげられなかった。バナージが吐き終わった吐瀉物としゃぶつを感情もなく眺めながら、問う。汚いはずのそれを見ても俺は酸っぱいものを口に感じなかった。そのことが、自分が鳥籠の装置のなかで順調に奴隷化している兆候のように思えて、悲しくなった。現に彼女もこの道に疑問を抱いている素ぶりをみせなかった。この道で吐いたことも、少なくとも最近はないのだろう。俺は目をつぶる。

「決まってるでしょう。数字で呼び合うの。私は31サン・イチ、あなたが名付けたあの男の子は23ニ・サン、さすがに全部言うとめんどくさいから下の二桁で判別しているわ。それがどうしたの?」

「……あなたにも名前を付けてあげます」

「はっ?」

「どうせ規律を破った罪で殺されるんでしょう? ならさらに罪を重ねても変わらない」

「何を言ってるの?」

 喉の奥に何かが引っかかったような不自然さで、彼女サン・イチが言った。言いたいことを飲み込む蓋が、ほんの少し揺らいだような違和。

「付けたくてつけるんですよ、それがどうかしました?」

 今度こそ、俺は畳みかける。どうせ曲げられた正義がここに横たわっていて、俺たちはそれに準じて死ぬのなら、ミスナ神に教わった俺たちの正義を示してからにしたい。あまりに非力で、神の奇跡を何万分の一も演じられはしないけれど、せめて――

 ――意趣返しのつもりはなかった。でも、価値観の違う者と話すときの辛さを解ってもらえたら嬉しい。あなたにとって優しくしてもらうのが罪であるなら、俺の世界では人間を番号で識別するのは罪なのだ。だから、つける。


 彼女が、声を詰まらせた。


 そして、叫んだ。心なしか、声が枯れているように思えた。


「そんなの、罪じゃないに決まってるでしょう!」

 彼女自身のなかでは何万回と叫んだ言葉なのだろう。


 バナージが身じろぎする気配が伝わる。なんてったって、ここは狭い道路だ。そして俺も、彼女に掛ける言葉を見つけられないでいた。

「そんなの、そんなの……私たちのために怒ってくれた人が罰せられるなんておかしい、私たちだってわかってるわよ……」

「あ……」

 彼女に名前がないから、俺は励ます言葉さえ出てこない。それはとてつもなく無礼なことだ。

「だけど、従わないと玄関の鎖しにがみに引き戻されて終わりよ……」

 彼女は泣いていた。よくはわからないが、あのリオという少年が規律を破った者を密告し処罰させるのだろう。

 酷いことをさせてしまった。そのことに、やっと気づく。俺は、彼女の隠していた潜在意識を引きずり出し、挙句に彼女を傷つけている。そして恐らく彼女も、俺たちの末路を辿る。

「ひっ」

 バナージが喉を鳴らした。俺は振り返る。

「お、お前……」

 そこには、リオが立っていた。

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