名はない
俺だって、名前はない。
リオと俺が名付けた人も、00731-7の女の人も、この国では歓迎されていない人たちの一人だ。
バナージにはロドリゲスと名乗った。俺を買っていた妹からはダリという名を与えられた。そのどれもが、自分の肌に馴染まない。
バナージを背負い、リオと彼女を追いかけながら、俺は今この瞬間も、俺に羊の乳を分けてくれたこの人を裏切っていることを認識せざるをえない。俺はいまも、偽りの名で偽りの関係を築いている。
美しい朗誦を聞いたからこそ、それに感化されて布教を手伝うことになった。その教えをもっと知りたいと思った。だけれども、そもそもの大前提として、彼の宗教は肉親に恋愛感情を抱くことを禁じている。
知れば知るほど、俺は教えを破ることになる。禁忌に触れることになる。
道と呼べるのかすらわからない、〝地区〟とその他の区域を区切る、服の上からでも脚や腕の肉を容赦なくえぐる茨の生け垣の厚い壁を、全速力で走る。とうに俺の全身は血まみれだ。
――今ならば、縁を切れる。
まだバナージという人に深く関わっていない今しか、神を裏切り続けなくてはいけない苦しみから逃れることはできないだろう。
無事に逃げおおせたなら、俺はこの人の前から姿を消そう。俺はそう思った。
その前に、あの女の人に、名前を付けてあげたい。偽善と言われるかもしれないけれど、あの女の人を、番号じゃない名前で呼んであげたい。
「あっ」
余計なことを考えていたせいで、ほんの小さな小石に躓いた。
ちょうど視界が開けたところだった。このままでは、背負ったバナージを前に放り出してしまう。
――しまった
スローモーションの視界に、冷や汗が背を伝う。開けた視界の先がどんな風景なのかなんて、確認する精神的余裕もない。
「……はっ」
俺は誰かに支えられ、盛大に転ぶのを回避していた。
「まったく、長も妙な時期にご決断なされますなあ」
言葉遣いが妙に老人風で、それでいて肌には皺一つなく、腰も曲がっていない不思議な青年だった。
「決断……?」
助けられたお礼も言い損ねて、俺は目の前の人物をしげしげと見つめる。
「おや、この方々は一族の者ではないようですが。……長が気を許されているもでしたら、我々も受け入れましょう」
俺は我に返る。眼前には、蒼い目に彫りの深い、クリ族の末裔の特徴を持った老若男女が一堂に会していた。彼らは皆、なにか心に救う魔物から解き放たれたような、すがすがしい顔をしている。
「さあ、どなたかは存じませんが、共に参りましょう」
見れば00731-7の彼女も、長と呼ばれるリオの隣で、彼を守るように立っている。
「リオさんを怖がっているのは演出だったんだ」
俺は再度それを確認すると、仲間と思しき人々に囲まれたことで緊張が解け、へなへなと腰が砕けてしまう。
「ほう……それが長のお名前ですか?」
青年が興味深そうに俺に問う。
「いや、俺が勝手に」
「はい。それが私の名前です。参りますよ。遅れた者は容赦なく見捨てます」
俺の言葉を遮ってリオが発した言葉に、一同は一斉に「おう!」と返す。その様はまるで、彼の言葉にも関わらず長が我々を見捨てることなどあり得ないと信じ切っているようだった。その団結が、部外者であるにもかかわらず誇らしい。
一族同士が分かたれ、監視下にあったはずの彼らは、監視の目を盗んで訓練でもしたのか瞬く間に隊列を組み、身近に転がっていた木の枝や金属の棒を持って歩き出す。
そんな中、リオが俺の元に歩み寄ってきた。
「これからの道のりでは、戦闘が避けられません。――どうか、あなたも、御覚悟を」
「――無事運命を切り開けたなら、俺が皆さんに名前をつけて差し上げます! あなた方はもう、番号で呼ばれなきゃいけない筋合いはない!」
「ええ、私もそう思います。私も微力ながら戦いのお手伝いを」
俺に背負われていたバナージが、俺の腰を叩いて下ろすように言ってきた。そして、そんな柄でもなかろうに彼も木の枝を持ってみせる。
「いざ、解放戦線に」
「我々の運命に」
「勝利と神のご加護あれ!」
行進が、始まった。
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