放射冷却の夜

 晴れた夜は寒い。ここに暮らす人々が口を揃えて言う経験則だ。そして、それは死の予感を連れてくる。死神が雲の瞼を開けたぞ、と人々は口々に言う。

「さみいなあ」

 明日も、一定数の人が死体になるんだろうなあ。

 そんなことを薄い布にくるまりながら考える。

「そういや、俺、爪切ってもらうの忘れてた」

 爪を見てため息をつく。

 ここの人たちは惨めだ。だがそれなりに工夫して生きている。

 酒があれば酩酊する代わりに凍えなくて済むし、野犬を手なずけた者はその犬の体温を分けてもらうことができる。ただ前者は悪意を持った人間に寝どころに来られたら命はないし、後者にしても犬を飼うには己の食費を削らなければいけない。

 要は、寒地の鉱山に群がる貧民どもに試練が与えられれば与えられるほど、人間の生きざまが浮き彫りになるのだ。

 ――半分部外者の俺は、それを観察するのを楽しんでいる。

「睡眠こそ人生の質、と考えている人は犬を飼い慣らし凍えずに済むが、眠り過ぎて昼まで寝てしまい体内の栄養が足りずそのまま永遠に眠り続けるかもしれない。明日の朝食べるご飯のためにどこで生ごみを探すか夜通し考える人は寝られない代わりに他の人間より効率よく食い物にありつける。ただ、眠りが足らず死ななければの話だが」

 何もかも保証されたはずの富んだ者を見ても、生きていないように見えるのはなぜだろう。歌うように貧民の生きざまを口ずさんだ後にヘリスを思い出してしまった。気分が悪い。

「何に価値を置いていいかわからないんだろうな」

 ヘリスだけは許さないが、あの女は同情に値する。

 あれは、この俺に惚れてしまっている――。


 あけっぴろげな空が誰かの体温をそっと奪っていくのと同じで、彼女の親はあまりに純真すぎた。幸せになりたいと願ったせいで、ほんの少しお金が欲しいと願ったせいで、彼女の両親は生まれたばかりの娘の教育もなおざりにして怪しげな投資話に手を出した。それは国際手配されている麻薬密輸組織への言わば入口で、雪だるま式に“子”を増やしていき、金を巻き上げることを要求されているのだと気づいたときには遅かった。

 お前たちは犯罪に手を染めた。娘の将来を保証されたかったら“もっとやれ”

 彼女の両親は組織の末端で、いつトカゲの尻尾切りにされるかもわからない労働をさせられている。一方彼女は、国際的な富豪の養女になり、家を継いだ。そしてやらされるのは麻薬密輸組織の資金源の捻出。結局は同じ組織で飼い殺しにされただけだ。そして、彼女の両親の安否を俺は知らない。

 ――彼女の、ではなく俺のでもあるのだが。

『私は売られたの』

 いつだったか、彼女が山を出ることを許された数少ない機会に彼女は俺を見つけた。何度か会ううちに、彼女は胸の内の毒を吐き出すように俺と交わった。そしてあるとき、確かに彼女はそう言った。でも違う、両親は彼女を売ったわけではない。その証拠に、彼女の五歳上の息子を死んだことに偽造して彼女の元に遣わした。

『男なら、妹を守れ』

 俺はその言葉を胸にずっと貧民に身をやつして彼女の動向を追った。

 妹が養女として囲われた家を特定し、ホコリと白アリと蜘蛛の巣が交錯する軒下で何日も耳を研ぎ澄ませ続けた。

 富豪のくせに警備が甘いのも、いまから思えば察しがつく。富豪とは名ばかりで、彼は麻薬密輸組織の資金をプールしておくための預かり所に過ぎなかった。彼は広大な敷地の屋敷に住んでいながら、いつ死んでもいいようなそんざいな扱いを受けていたのだろう。

 そのうっぷんが、宛がわれた義理の娘に向かった。彼は老いていた。自分の後釜を”用意された”ことが気に食わなかったに違いない。彼は俺の妹を手荒く愛撫した。まだ小等学校に入学すらしていない、初潮もまだの少女に、筆舌に尽くしがたい乱暴をしたのだ。

 彼女が獣の皮でできたソファーで義理の父の愛撫を受けている頃、俺はその床下でずっと待った。彼女が眠り、男が外に出るのを。

 男は外出し、彼女は眠りについた。俺は彼女の寝息を確認すると台所と反対の位置にある厩舎で発砲し馬を興奮させ、急いで迂回し誰もいなくなった台所で屋敷の主人の夕飯に致死性の毒を入れた。男は糖尿病を患っており、ある種の食べ物は口にできなかった。どちらが主人のための夕飯かを見分けるのは造作なかった。

「あいつがやっと解放されると思ったのに」

 思わず泣いていた。その時の俺は若かったのだ。主人が死ねば養女は解放されると、甚だ滑稽な思い違いをしていた。主人が死ねば、妹がその家の主人の足枷をはめられることになる想像ができなかった。

 屋敷の令嬢が外に出されるらしいと聞き、俺は喜んだ。だが、連れて行かれたのはこの鉱山だった。ここで死ぬまで銭を生らし続けろと捨て置かれた。女は、とても惨めに恵まれている。

「俺は奴を遠くから見ているだけでいい。それが贖罪」

 俺が関わったらことが悪くなる。俺はそう思って、ずっと砂糖にたかる蟻のように鉱山関係者の懐から金目になりそうなものを掏っては売って日々の足しにした。心から、生粋の貧民になって、妹のことを忘れて生きようと思っていた。――なのに。

 喉が焼ける。こんな酒の飲み方をしてはならないことくらい解っている。だが飲まずにはいられない。俺は、俺の顔を忘れた妹に、本気で惚れられてしまったのだ。

「俺はお前を苦しめた張本人だと、言えたら楽なんだがな」

 死神は、いつ俺を貪ってくれるのだろう。


 また朝が来た。いや、正確に言うとまだ俺の目が覚めるような時間じゃない。なぜ俺の目が覚めたか、それは寝どころの外の変な喧噪に起因する。

 ヤク中同士の喧嘩沙汰か、はたまた商売上のトラブルかは知らないが、睡眠を阻害されて黙っているのも癪だ。

「おい、何事か」

 静かになった。それほど意識していなかったが、相当不機嫌そうな声になっていたらしい。

 スリの老婆が簡単に耳元で呟いてくれた二三の言葉をもとに推測すると、俺に用がある何者かがここらの住民と揉めているのだろう。どっちみち起きることにはなっていたのか。

「お前の客だろう、何とかしろ。用事が済んだらさっさと返せ。こいつがここらにいることが不愉快極まりない」

 古参の住民である金属屋の男が、ひ弱そうな青年をこちらに突き出した。顔が少し腫れている、手荒い歓迎を受けたようだ。それはそうだろう、この男、見たことがある。悪徳商人ヘリスの、小間使いだったか。

 ――ヘリス。悪酔いした酒と、ちょうど思い出していた妹のことが頭によぎって、俺は自分の声が冷酷になるのを止められはしなかった。

「何の用だ」

 俺は彼を屋根の下にも入れずに問いただす。俺だってこいつには関わりたくない。ヘリスは幼い妹を愛撫した、あの老人の手下であったではないか。見間違うはずもない、屋敷を張っていたときに出入りするのを見たことがある。そして――

「わ……私を誰と思っているのだ。私はヘリ」

「用は何だと聞いている」

 胸ぐらを掴む。俺の火薬に、これほどまでに早く火をつける人間は初めてだ。これでも業界では慈悲深い方なはずなんだがな。

「うあ、やめろ。息が、できない」

 嘘だろ、と俺は思った。こいつは、あるいは……。

「チッ」

 厄介な人間が来てしまった。俺が胸ぐらを掴んだのも計算内なのかもしれない。

「外へ行こう……できるだけ遠くへ」

 伝染病は、なるべく住民らには移したくない。一応、俺の住処を荒らされたことはないから、恩はある。

 俺が歩き出すと、俺の前の人だかりがすっと裂けた。海を裂いた神話の男はもっと綺麗だったろうに。そして、ひ弱な青年も、意外なことにしおらしく俺の後をついてきていた。

「――ここらでいいだろう」

 青年は長袖の袖部分で口を覆っている。ここは俺たちのような風呂に入る習慣をもてなかった人々も入るのを嫌う、生ゴミや有毒物が無造作に捨てられたエリアだった。

「臭いは何とかならないのかッ」

「さあな。お前が性病を持ってなければ話は別だ」

 この性病はなかなか厄介だ。数ある性病のなかでも、なぜか病原体が空気感染する。もはや、性病なのかどうなのかも不明なくらいだ。

「失礼な、俺は性病など持っていない!」

「ほう……」

「――用を手短に話そう」

 臭いに耐えきれず青年が切り出したのを見て、ここに呼び出した目論見の一つが達成されたのに満足したからだ。

「聞こうか」

「あの女からは手を引け。お前の素性はわかっている」

 ――何?

「質問を質問で返すようで申し訳ないが、お前は何を知っている?」

 動揺を悟られまいと鷹揚に返してみせたが、青年は眉一つ動かさずこう言い放った。

「思い当たることがありそうだな」

「――ッ」

 相変わらずひ弱な……ひ弱そうな顔もちで、こちらが冷や汗をかくようなことを平然と言ってくる。印象で人は測れないと、知ってはいたが、これは予想外だった。

 ヘリスのやりそうなことだ。奴はこの青年を交渉の駒として今まで使ってきたのだろう。見た目に反して鋭い視線を内に秘めているのは大きな武器になる。そして、胸面の薄さは性病の奇形だと勝手に思っていたが、ヘリスだったらやりかねない。これは奴のお抱えの医師が偽造したモノだろう。

「駒の人生は面白いか」

 肯定も否定もしないことで先方も理解しただろう、俺があの女、妹と今後関わらないことを。

「駒、か」

 青年はもう自分の本性を隠しもしない。

「俺はお前と同じ身分だった。あの人が、俺の身体を作り替え、飼ってくれたから俺は生きてる」

「自分の身体を壊されたのにとんだ忠誠だな」

「壊されただと? お前は何か勘違いをしている。俺はあの人に会うまでは歩くこともできない奇形に悩んでいた。ただ寝かされ物乞いをする俺をあの人は拾い、無様に曲がった足を矯正し肺に刺さった骨を取り除き、手の指を牛の脂から作ってくれた。俺の宗教じゃ牛は神だから脂なんてもっての外だったが……俺の神はその時あの人に変わったんだよ」

「――そうか」

 それ以上言うことはなかった。俺はその青年と、その生ゴミ置き場で別れた。


 別れ際、小間使いの分際で青年がこう言い捨てた。

『お前の女はヘリスさまがいただくことになった』


 寝過すなんて人生初かもしれない。いつか来る別れが来ただけ、そもそも今までだってそれほど親密な関係だったわけでもない。俺の贖罪を勝手にやっていただけだ。

「ユルサナイ、か」

 妹が泣いたことと、青年の言葉が重なる。

 贖罪を勝手にやっていただけ。見守っていれればそれでよかった。それなのに、こんなにも夜は寒い。

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