奇形の少年

 ここはどこだろう。どこか見覚えのある風景。

 そうか。ここは幸せだったころの俺たちの家――。

 俺たちはまだよちよち歩きの女の子に群がって、立っただの歩いただのとお祭り騒ぎしていて……父さんも母さんもみんな嬉しそうで。

 ん、あれはなんだ?

 外で何か騒ぎが起こっている。昼寝しようと思ったところだってのに、めんどくせえな。

 そんなとき、人がたれる音がした。肉が裂けるような音とともに。

「なんだ?」

 窓を開けていないにも関わらす、その音だけがやけに耳元で響いた。父も母も窓の側に立って、カーテンを開けた。そしてすぐに閉めた。

「何があったの?」

 幼い俺は母に尋ねた。妹はおもちゃに夢中になっている。

「なんでもないのよ」

「でも、誰か殴られてる」

 そのときの母の顔を忘れることができない。

「見てもいないのに、どうしてわかるの?」

 子どものためを思って親は残酷な場面を隠すことがある。それが子どもを、より残酷にしてしまうこともあると知ってほしかった。

 俺はたまらず外に出た。そこには、手足が変形し歩くこともできない物乞いが、近所の裕福な家の子に引きずられ、集団リンチに遭っていた。

 その物乞いの顔はしわくちゃで、どうみても年寄りに見えた。だが、その顔についた目は、老人にしてはあまりにも透き通っていた。

 その目が、俺を見抜いた。動けなくなる俺を、確かに見ていた。

 俺の心には恐怖があった。俺は彼を虐めていた人間たちより弱い立場にあった。この国では、純粋な国民しか土地を持てず、高等教育も受けられない。俺たちは移民の子で、真面目に働き財を成したものの、壁を二つ挟んだ金持ちの家々とは違い借家だった。

 俺たち家族は、彼らに目をつけられたら一瞬にしてすべてを失う。親が稼いでやっと借りられた雨漏りのしない家を出て行かなければいけない。

 ――特にその頃は、移民優遇策のしっぺ返しで反移民感情がこれ以上ないほど高まっていたから。

 虐められている物乞いは、働くことも許されない身分の人だった。伝染病で見た目が変わった者は、親が組織に売りに出す。その組織は、子どもの惨めな身体を売り物にして銭を稼がせる。子どもの物乞いに金銭を与えても、彼らの待遇はよくならないと言われている所以だった。

 物乞いは、物乞い中に死んだり行方不明になったりしたら組織によって捨て置かれる。この人も、組織から宛がわれたのであろう物乞いの定位置から外れて富裕層の慰み者になった時点で、今日の命はない。元々死んだ者として扱われているのだ。

 俺が立ち尽くしているのを見た富裕層の子は、さすがにやりにくくなったのか物乞いを置いて徐々に去りだした。でも、圧倒的に立場が強いのは、奴らだった。彼らは、彼ら自身が暴行を振るっていた事実を棚に上げて、俺が理不尽な暴力になにもできなかったことを言いたてるに違いない。

 純国民の町の道路には一面にタイルが打ち付けてあると聞いたことがある。虐めていた子らが走り去るときに、勢いよく物乞いは地面に叩きつけられたが、土がむき出しの地面のお陰で落下の衝撃は幾分か免れただろうなどとぼんやり考える。

「ロド!」

 母の声が聞こえた。俺は我に返った。そして振り返り、恨みがましく母を見つめた。母は、俺が家を飛び出した後、俺が開けっ放しにした戸を閉めた人だ。穢れから目を背けることで純潔を保とうとするその様は、罪を黙認した人間のやったことという点で酷く滑稽だった。

「母さん……」

「――怪我はない?」

 そのとき胸のうちに沸き起こったのは、怒りだったか、虚無だったか。

 俺たち家族は結局、動けない物乞いを置き去りにして、のうのうと温かいベッドで寒々と、互いの身体を寄せ合いながら一夜を過ごした。

 思えばこの日が、俺たちが狂い始めた最初だったのかもしれない。


 いや、そのずっと前から狂っていたのかもしれない。


 鈍い頭痛で目が覚めた。夢を見るなんて何年ぶりだろう。よく眠れなかったのは、きっとここが何もない荒野だからか。気づけば日は高く昇っている。

 こんな野にも町があった時代があったのだと、向こうからやってくる若い旅人は信じるだろうか。

 この町がロストタウンになった経緯を、妹から聞いた覚えがあるが、忘れてしまった。

「ミスナと共にあらんことを」

 旅人が挨拶をしてきた。頭を布で覆った、新興宗教の信者と思しき人間だった。

「ごきげんよう」

 ミスナというのは彼らの神らしい。似た衣装の者を鉱山の近くでも見たような気がする。あなたにも加護あれ、と通りすがった人間にも祈ってくれるとはなんとも気前のいい信者たちだ。それとも神がそう命じたのだろうか。

 神など信じない俺だが、向けられた善意をあえて無視するほど人見知りでもない。

「何の御用でこんな僻地に?」

 ちょうど休憩でもしようと思ったのか、若者が荷を解いて、中から瓜の中をくり抜いた、西の方でよく使われるという水筒を取り出した。それを飲んで、同じく休憩していた俺に話しかける。

「ええまあ、ちょっと、生きる手段を探していましてね」

 苦笑していった言葉は、決して感傷的、哲学的な意味ではない。文字通り、明日から俺は何で日銭を稼いだらいいのかわからずにいた。生きている価値もない人間だったが、飢えて死ぬのは勘弁願いたい。

「そうでしたか」

「そんなことより、お酒を飲まれるので?」

 彼が持ち出した水筒が、西の国では飲酒に用いられることが多いと聞いていたので、俺はそんなことを聞いた。宗教のなかでは飲酒を禁じるものが多いので、怪訝に思った次第である。

 彼は一瞬不快そうな顔をしたのち、俺の視線に気づいて苦笑した。

「ああ、これは羊の乳です。私たちは酒を飲むことをクルーンで禁じられています」

「クルーン?」

「私たちのよるべき聖典です」

 新興宗教と言えば、なんだか物騒な印象を持っていたのだが、俺は信者の彼の紳士的な態度にその印象を撤回した。何を以て紳士的と思ったかといわれると、彼が飲まないかと水筒を差し出してきたからだ。

「羊の乳ゆえ好みが分かれますが、喉がお渇きでしょう」

「有り難く、頂戴します」

 正直、癖が強い乳だった。しかし、俺は空腹と喉の渇きも手伝ってごくごくと飲んだ。そしてはっと我に返る。

「飲み過ぎてしまいました」

「構いませんよ。予備はありますから」

 予備ということはやはり飲み過ぎてしまったのだろう。気まずくて俺は話題を変える。

「それはそうと、あなたは何の御用でこちらに?」

「私は主の亡命先を探しています」

「主とは?」

「ミスナの啓示を受けた預言者です」


 この先には露天掘りの鉱山と貧民街しかないと言えば、彼はこの先にある町を候補から除外したようだった。

「決して貧しい者を軽んじているわけではないのです。都市国家の長が、私たち信者への弾圧を行っています。彼らから身を隠すために、ある程度繁栄している都市との連携が必要なのです」

 言い訳のように俺に言ってきたが、そもそも気にしてはいない。

「預言者は商いをされており一定の財産は手に入れられています――それでも、命の危険は常に主につきまとっています」

「商いを……その預言者に、あなたは会ったことはあるのですか?」

「いえ、私は最近入信した者ですので。というのも、預言者の詠唱は身近な人しか聞けないのです」

「亡命先を探しているのは、あなただけなのですか?」

 俺が尋ねた。彼一人で、かつ徒歩で探しているようでは、何年経っても見つかるまいと思ったからだ。

「いえ、私だけではありません。専門の組織が信者のなかから独自に結成されて、彼らは五人以上のグループを作って任務を行っています。――ミスナの啓示を信じていると言えば、よからぬ偏見に晒されることもありますので」

 よからぬ偏見とかどんなものか、宗教に詳しくない俺でも容易に想像できた。彼らの宗教は全人類の平等を謳っている。特に、この国において移民や障害者には参政権すら与えられていない現状をよく弾劾した。貧民や若者からの人気はそれで爆発的に上昇したが、富裕層や純国民からのヒステリックな反発は避けられないだろう。

「排斥の機運が高まるでしょうね……」

 同調しながらも気になったことを聞く。

「あなたが一人なのはなぜなんです?」

「私は、頼まれもしないのに勝手にやってるだけですよ」

 カラカラと彼は笑った。

「それはそうと、あなたのお名前は?」

「私はバナージと申します……あなたは?」

「俺は……」

 妹から宛がわれた名、ダリ・フェイアーを名乗る気にはなれなかった。俺はこの名を捨てるべきだろう。

「ロド……」

「ロド?」

「ロドリゲス、それが俺の名です」

「よき名をお持ちだ」

 バナージの言葉に俺は苦笑いを浮かべただろう。それを彼はどんな意味にとっただろうか。

「あなたの信じる神の教えを、聞かせてもらえませんか」

 統一国家も持たず都市国家がポツポツとあるだけの彼の故郷であるのだろう西方の国々を、日ごろ俺は軽蔑していた。だが、そんな場所からこんな人が出てきたのなら、話を聞いてもいいと思った。俺に羊の乳を分けてくれる人ならば。


 俺はすっかりミスナの神の虜になっていた。もっともっとと詠唱をねだり、バナージは嫌な顔一つせず、少し羊の乳を口に含むことはあったが、長時間に渡り俺の願いに応えてくれた。宗教に関して無学な俺には細かいところは未だわからないが、バナージと名乗った青年の声は、世の真理を表すがごとく厳かで、それでいて感情豊かだった。まるで神が、慈しみを以て戒律を授けたかのような響き。

「拙い詠唱ですが」

 彼は謙遜した。俺はかぶりをふってその謙遜を遮る。

「この俺は、久しぶりに感情というものを思い出した気がします。凍っていた魂が溶けだして、痛みを覚えている……」

「それは、私の詠唱が傷を露わにしてしまったということでしょうか?」

 彼は言った。

「違います、あなたの歌は、俺に人間性をもたらしてくれた……感謝します、バナージ」

 無宗教の俺が、啓示を聞いて涙を流していた。神も粋なことをする――教えを歌にして伝えるなどと。上を向けば夜の帳が落ちてきている。

「あなたは、この詠唱に心を動かされるのですね。お顔立ちから想像はしていましたが、やはりあなたはサウード家の人間のようだ」

 ポツリと呟かれた言葉に俺は反応する。生まれ……移民である俺は自分のルーツを考えたことなどなかった。

「俺は西方の民の顔つきをしているのですか」

「はい。一目見てそうと直感しました」

「それはまた、どうして?」

 彼は少し考えたのち、俺の目を真っすぐ見て言った。

「あなたの眉は太く、彫りは深い。武骨ではあるが義理深い。詠唱で泣かれたのが決定打です」

 俺自身、自分のルーツだけでなく見た目にも無頓着であったと知る。

「俺は……義理深くなどありません」

「そうでしょうか? 貧しい者にありがちな、施しを得れば略奪するような粗暴さがありません。スラムに生きる若者は、時に暴力に身を投じてしか生きていけないことがある。――そしてみすみす正しき道に戻る案内人を自ら殺してしまう」

「それは違う、俺は――」

「あなたの頬のこけ具合を見ればわかります。失礼ながら服装も。あなたは貧しい暮らしを強いられながら、暴力や犯罪には手を染めなかった。それはあなたの心の清さが招いた結果でしょう」

「それは……違うんです」

「何が違うと言うんです?」

 俺は返答に窮した。血のつながった妹から、決して清廉とは言えない施しを得ては、何よりミスナの神が禁ずる身内への恋慕を犯している。奇しくも、バナージが最初に歌ったのは『触れてはならぬ』という章で、異性にみだりに触れることすら神の意思に反すると、しとやかに歌った曲だった。

 俺は鉱山労働者の過重労働と経営者の強引な経営のおこぼれに与った。それは罪である。少なくとも、俺に人間性を取り戻してくれた彼の宗教では、罪になろう。そして妹に持ってはいけない感情を抱いた――。

「ロドリゲスさん?」

 俺は言えなかった。罪を懺悔することが、バナージという青年一人にできなかった。

「俺は――」

 喉に何かが貼りついたように声が出ない。

 教えなど知らぬまま死にたかったと思った。自分が穢れた存在であると、気づいてしまった。そして気づかせてくれた人間が今目の前にいる。気づいてしまったからこそ、俺は真実を隠し自分を偽るという罪をさらに犯すことになる。

「無理を、しないでください。お疲れでしょう、そろそろ休みましょうか」

 バナージの労わりが、苦しかった。俺は、彼の寝息が聞こえてきた後、声を殺して嗚咽した。

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