【600pv】寄る辺なき神
春瀬由衣
First mercy ー救済が、始まるー
こんな俺のある朝
昨日の夜は雨が降ったのか。
他人事のように言えるのは、自分が多少は恵まれているからだ。屋根のない場所に寝床を構えた人間は、雨が降れば大概が凍えて死ぬ。今日も死体が多い。
すでに服が剥ぎ取られた死体もあった。あまりの寒さに死体はなかなか腐らない。服をあるだけ奪われた身体は、弾かれるように除け者にされ、動かされ、徐々に川に近づいていく――さながら物言わぬ行進のように。
「今日は空気がいい」
そう俺が呟くと、恨めしげにすれ違った老婆が睨んできた。この老婆はスリで生きている。
俺の身分が保証されているのがそれほど恨めしいのだろうか。金を稼ぐ手段が、非合法とはいえ存在するお前も、今まさに死のうとしている足元の病人に比べれば恵まれておろうに。
雨のお陰で、鉱山から巻き上がる毒物も流れただろうか。――おや。
「鉱山、崩れたんだな。ざまあみろ」
今度はすれ違った青年に同意の眼差しを向けられた。昨日の雨はそれほどひどくはなかったはずだ。そんな雨で崩れるとは、強欲に掘り進めたツケだろう。この鉱山の金含有量はそれほどよくないらしい。
大きな機材と大勢の奴隷を引き連れて、グルグルと地面を掘っていく。山があった所は山の形が鏡面のように窪んでいる。露天掘りというやつだ。奴隷は逃げ出さない。まずい脱脂粉乳でもないよりはましなのだろう。
俺が住んでいるのは、金のやり取りで訪れる金持ちを狙ったならず者が鉱山の周りに集まった貧民街である。そして俺は、その金持ちに気に入られた歌歌いだ。俺の身分は、金持ちによって保証されている。その代わりに、歌じゃない奉仕を強要される。
どうせ自分だけいい思いをしているのだろうと、金持ちの屋敷の帰りに身ぐるみを剥されたことがある。足元に転がっている死体のように。でも俺は生かされた。やらされたことが余りに不憫だったのだろうな。自嘲の顔を興味深げに足のない少女が見上げた。
この地は寒い。よって、低地の方が土地の値段は高いらしい。より暖かい方へ、この地では人は行きたがる。高い土地から見下した鉱山に、俺は今近づいていた。それを、俺は俺自身が巨大な壁を見上げるようになったことで知る。
銃を構えた痩せた人間が有刺鉄線の壁の下にいた。彼もまた、搾取される側の人間だ。そして、与えられなかった者たちに銃を向ける、その日の糧を稼ぐため。そのことに彼は疑問を持ったことはあるだろうか。
「名を言え」
立ち去れじゃない。この男、初めて見る顔だが、俺の“役目”を知っているのだろうか。
「与えられた名を言えばいいか?」
「与えられた名?」
「お前たちの主に俺は名を与えられた。生まれながらの名などない」
さては、知らなかったのだろうか。ここでやっと思い当たることのある顔をした。
「わかった。ではその名を言え」
「ダリ・ウェイア-だ」
「通れ」
有刺鉄線の向こうは、今まさに金鉱石の精錬をしている最中で、商人がその品質を見極めていた。あれは粗悪な金を売りさばく悪徳商人と名高いヘリスではないか。
「おっと……」
目が合いそうになって少々慌てる。あいつは俺の主とは違った意味で性癖がおかしい。
「――おっと」
音もせず背後に回られたことに気づく。これが俺の主だ。
「今日はちょっと来るのが遅かったねえ。罰としてあの男にお前を売り渡しちゃおっかな?」
「あなたの付けた痕は、俺を傷物にしたじゃないか。商売上手なあんたが値のつかない俺を売るような真似をするはずがない」
「嫌ぁねえ。私、褒められちゃったわ」
褒めてなどいない。強烈に皮肉ったつもりだったのだが、この女は鈍いのか、あるいはわざととぼけてみせたのだろうか。
「で、今日はあんたをどうやって喜ばせればいい」
「じゃあダリ、初めに私の膝を掻いて」
さっと真顔に戻り高いヒールを足場の悪い場所にも関わらず履きこなす彼女を俺は追う。これでも掘れない鉱脈をゴリゴリ掘り進めて売りさばく剛腕経営者だ。決して敏腕ではない。
そんな彼女の性癖は、普通じゃない。そのせいで、俺は、普通の乞食としての生き方を奪われた。
この世界はディストピアだ。誰かたちの悪い劇作家が俺を舞台上に産み落として、だから俺は親がいないのだ。……いつまで演じればいいのだろうな。
「膝をどう掻けばいい」
女は豪華な椅子に腰かけロングスカートを捲し上げた。下着を見ないようにして俺は膝だけを仕方なく見つめる。
「指先で、掻いて。その無遠慮に伸びた爪で」
「無遠慮は余計だ」
彼女に対してタメ口を使うのも、彼女の要請によるものだ。
「いいじゃない、事実なんだから」
確かに俺の爪は伸び放題だ。爪を切るような精密な刃物は高価で、限られた人しか持っていない。貧しい者のなかでも比較的恵まれている者は彼らに金を払って爪を切り、底辺に居る者は道端の石ころに指先を擦り付けて爪を砥いだり爪を切るためじゃない刃物で爪を切ったりするが、多くは失敗して怪我をしてしまう。深爪の貧民は最下層だ。
幸い俺は、この女に快楽をもたらした後は身体を綺麗にしてもらえるから、爪切りの心配はしなくていい。だが、今回は長く呼ばれなかったから爪は伸びている。
――そういえば、なぜ今回は間があいたのだろう。
「――ッたっ」
「強すぎるわ」
何もグーで殴らなくてもいいじゃないか。
「膝に傷がついちゃったじゃないの。まあいいけどね」
「……次はどこがいい」
「そうね。首筋を舌で舐めてくれるかしら」
舌を持ち出すのは“プレイ”の最終章も最終章、フィナーレのトランペットが高らかに鳴り響くときじゃなかったのか。二プレイ目でもう舌か。今日はやけに気が早いんだな。
「イカせて」
「もうイクのか?」
久々だから飢えているの、と彼女は言った。
「了解。じゃあ手荒く行こうかね」
俺は彼女の首筋に手をやり、彼女の長い髪を片方にまとめた。綺麗な首だ。吸いつきそうなほど白い肌の色。それは彼女の“恵まれた”出自を物語る。
「あたしの生まれを想像するの、禁止」
この女はなぜか俺の心をいつも見透かす。
「了解――ほら、気ぃ抜いてると無様になっぞ」
「……んひぃ」
こんなにこの女は感じやすくはない。
「……ひっ、ひっ……」
なんだ、泣いてたのか。
俺はこの女の奴隷、性の玩具。こいつのためなら下半身も曝さなければいけない。でも、この女がそれを要求したことはなかった。
一応、俺はこいつのお陰で食いっぱぐれはしない。一応、爪も切ってもらえる。今日の帰り道誰かに拉致られて死んでも、この女には、せめて気にかけてもらえる――次この女が俺を呼びだした時、何時ものところにいない俺を。
その分の恩くらいは返してやってもいい。この涙は、なかったことにしてやる。
「嫌だ……嫌だぁ」
男が器を間違って生まれ落ちたと思いたいほどの強気で人の心を省みない奴が、“鳴く”とがあるなんてな。
「――絶対ぃ、ユルザナイガラぁ」
何語だと問いただしたい言葉が、脳内で再生された。ユルサナイ、ゆるさない、許さない。よかった。こいつ、自分を失ってまではいないんだな。
俺はその日、そのまま返された。
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