第6話 亜子の温泉レクチャー

 幸いにも、亜子さんは温泉での出来事を覚えていなかった。

 気絶したのは湯あたりのせいだと思っている。


「ぼくがのぼせるなんて……」

 首をかしげる亜子さんだが、まさか事実を教えるわけにはいかない。

 オレが亜子さんの秘密を見てしまったことと、おしっこの件は、このまま忘れてもらおう。


「ところで」オレは訊いた。「亜子さんは大学を卒業してから探検家になったんですか?」

「そうだよ」

「オレ、てっきり19歳くらいかと」

「くすくす……正解だよ。ぼくは15のときに大学を飛び級で卒業したんだ。だから君たちと2つ3つしか変わらない」

 

 どうりで若いはずだ。

 オレは続けて質問した。

「探検家になるのは夢だったんですか?」

「夢……というより使命かな。匂薔薇におうばら家は、もともと徳川の一族なんだ。だから本家が勝手に埋めてしまったお金を探しているのさ」


 なにやら込み入った事情がありそうだ。

 なぎさが「ふえー」と声をあげて、

「あたし、夢とか使命とか考えたことない。葉月は?」

「わたしも……浩一くんは?」

「オレもないな。というより記憶喪失なんで答えられん」


 亜子さんは「そういえば」と、あごに右手をそえて、

「君は記憶喪失なのに、なぜ山登りをしていたんだい?」

「それはですね」


 オレは話した。

 妻恋温泉をくんで帰る――それがオレの目的であることを。

 その目的を果たせば、失った記憶が甦るかもしれない……そんな考えがあったことを。


 オレが話し終えたとき、遠くのほうで――ずどおおおん!! まるで巨人が足踏みしたような轟音と振動。


 亜子さんが舌打ちし、

「またどこか崩れたのか」

「く、崩れたって……」

 なぎさが不安そうな顔をする。

 それを見て、亜子さんは自分の失言をフォローするように言った。

「大丈夫さ。頂上までの安全なルートは確保してあるんだ。荷物をまとめたら、すぐに出発しよう」



 ●  ●  ●



 ところで日本で1番長い洞窟は、岩手の安家洞あっかどうだ。総延長は20kmを超え、かつては奥州藤原氏の財宝が隠されていると噂された。

 だが、この妻恋山の洞窟は、その安家洞を超えるという。 


 亜子さんが先頭を歩きながら、

「山頂までは5時間くらいかな。歩きっぱなしというわけにはいかないから、1時間ごとに休憩をはさもう」


 オレは亜子さんに尋ねた。

「ヘビがあらわれたらどうするんですか?」

「おっと忘れてた」

 亜子さんは立ち止まると、オレたちに小瓶を1つずつ手渡して、

銀鼠ぎんねずヘビはハッカの匂いがキライなんだ。だからこうしてハッカ油を服に染み込ませれば大丈夫さ。でもね……」


 亜子さんはオレを見つめながら、

「本当に危険なのは、毒ヘビより温泉なんだ」

「温泉ですか?」

「うん。この洞窟にはたくさんの温泉が湧いていてね。しかもそれぞれ源泉がちがうんだ。硫黄泉もあれば含鉄泉もある。ということは、温泉の数だけ、いろんなガスが発生しているってことさ」


「じゃあ……」葉月さんが尋ねる。「硫化水素とかも……?」

「そうだね。他にはメタンやアンモニアなんかも。だから温泉に近づくときは、必ずぼくに尋ねてほしい」


 オレたちは「分かりました」と口をそろえ、それから洞窟の暗がりをどんどん進んだ。しばらくして、道が左右に分かれている場所へ出た。


「ここでいったん休憩しよう」

 亜子さんの指示で、オレたちは手ごろな岩に腰かけた。

「ん……?」

 オレは隣の葉月さんがモジモジしているのに気づいた。

 もしかして……トイレか?


 オレは右手を上げて言った。

「亜子さん。ちょっとトイレに行きたいんですけど……」

「それなら右の道へ行くといい。5分ほど歩けば温泉が湧いてるから、お湯で洗い流せるよ」

「分かりました」


 オレが立ち上がると、葉月さんも立ち上がり、

「わ、わたしもいっしょに……」

「うん」


 オレたちは早足で歩いた。温泉へ着くと、葉月さんはベルトを外しながら、

「こ、浩一くん、耳をふさいでください……」

「ご、ごめん! それと後ろを向いてるから!」


 耳をふさいで……10分は経ったろうか。いまだ葉月さんから反応がない。

 オレは「振りかえりますよー」と断って、温泉のほうを向いた。

 すると……葉月さんが温泉につかってる。なんで?

 

 オレは両手をメガホンの形にして叫んだ。

「葉月さーん! そろそろ戻らないと!」

 すると葉月さんはニッコリ笑いながら手をふった。

「浩一くーん! こっちへおいでよー!」

「ええっ!? そんなヒマないぜ!?」

「来ないなら、わたしがそっちへ行くねー!」


 葉月さんが裸で駆けてくる。

 うわ、すんごい体……ってそうじゃねえ! 葉月さんがいつもと違うぞ!?


「浩一くーん!」

「葉月さん! 見えてる見えてる!」

「んう? 見えてるって何が?」

 葉月さんはキョトンとした顔でオレのそばまで来ると、いきなり体をくっつけてきた。


「ひえっ!?」

「あはははっ! 『ひえっ』だってえ」

 オレが悲鳴を上げるのを、葉月さんが面白そうにケラケラ笑う。すると今度は、

「ねえねえ浩一くん。おままごとしようよ」

「お、おままごと!?」


 ど、どういうことだ!? まるで葉月さんが別人じゃないか!

 オレがうろたえていると、背後に人の気配。

 振りかえると、なぎさと亜子さんがいた。


 なぎさが親友の豹変ぶりを目撃して、

「は、葉月……あんたどうしちゃったの……?」


 一方、亜子さんは「やれやれ」と肩をすくめ、「どうも温泉にやられたみたいだね」

「温泉にやられた!? どういうことですか!?」


 オレが尋ねると、亜子さんは洞窟の天井を指さした。

「岩場にヒカリごけが生えてるだろう? あれは酩酊めいてい成分をたくさん含んでいるんだ。その成分が温泉に溶けだしているから、葉月ちゃんは酔っ払ってしまったんだね」


 亜子さんが説明し終えると、葉月さんがオレに抱きついた。

 たちまち、なぎさの怒声が飛んでくる。

「こら浩一! デレデレしない!」

「しっ仕方ないだろ!」


 ……とはいえ、さすがにこのままじゃ、酔いが覚めたとき葉月さんが可哀想だ。

 どうにか服を着せてあげないと。


「葉月さん。いい子だから服を着ようね?」

「やだっ! おままごとしないなら着替えない!」

 ツンと顔をそむける葉月さんに、なぎさが口をとがらせた。

「葉月! あんたいい加減にしなさいよ!」

「べーっだ! ぺちゃパイのくせに!」

「…………」

 

 きっと親友から悪口を言われたのは初めてだったのだろう。

 なぎさは貧血を起こしたように倒れてしまった。それを亜子さんが介抱する。


 葉月さんはオレを振りかえり、

「ねえ、おままごとしよう?」

「……分かった。でもその代わり、おままごとしたら服に着替えるんだぞ?」

「うん! 約束するー!」


 指切りげんまんをして、オレは葉月さんと向かい合って座った。

 できるだけ裸を見ないよう、喉のあたりにピントを合わせる。


「わたしがママで、浩一くんが赤ちゃんね」

「オレが赤ちゃん……?」

「そうだよ。だからほら、ここに頭を乗せなくちゃ」

 葉月さんが自分の太ももをポンポンする。


「そんなことできるわけ――」

「じゃないと、わたし着替えないよ?」

「くっ……」


 オレは覚悟を決めた。

 目をつむり、葉月さんの太ももに頭を乗せた。

 葉月さんの太ももはしっとり湿っていて、めちゃくちゃいい匂いがした。


「浩一くん、目を閉じちゃダメ。ひらきなさい」

「くうっ……葉月さんゴメン!」


 オレは目をひらいた。

 とてもすばらしいおっぱいがあった。

 バンザイするしかない。こんなおっぱいの前じゃ。


 葉月さんがにっこり笑った。

「浩一くん。おっぱいの時間ですよー」

「ぶっ!? それはマズい!」

「何がマズいの?」

 

 葉月さんが首をかしげる。

 ――その直後、葉月さんの瞳に理性が戻った。


「あれ? わたし……」

 葉月さんの顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。

「なんで……どういう……」


 葉月さんは唇をふるわせ、涙目になると、すべてを思い出した顔で、

「……きゅう」

 そうつぶやいて、気絶した。

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