第2話 葉月となぎさ

 オレは桂さんに連れられ、妻恋つまこい村という山間やまあいの村を訪れた。おそらく限界集落なのだろう。村人はお年寄りばかりで、オレの顔を見るなり「おや?」と首をかしげ、その3秒後には決まって「おまえ誰だい?」と訊いてくる。


「オレは工藤浩一です」

「まさか……この村へ引っ越してきたのかい!?」


 おどろく村人たちに、桂さんが事情を説明してくれる。それを4回ほど繰り返したところで、ようやく目的地についた。のきの広い、2階建ての大きな屋敷がそびえている。


「ここがわたしの家です」

「すげー立派じゃん! しかも――うわっ!? 玄関に日本刀がある!」

「祖父が集めていた刀です。たしか孫六まごろくとか……」

「ぜったい高いやつだ! もしや桂さんってお嬢さま?」

「い、いえ。父が村長をしているだけで……さ、どうぞこちらへ」


 だだっ広い居間へ案内されたオレは、ウェルカムドリンクの麦茶を飲みながら、桂さんと会話をしたり、オセロや将棋をしたり。

 記憶はぜんっぜん戻らないけど、たーのしーい!


 ……しかし、こんなに楽しいってことは、オレはよほど女性にえんのない生活をしていたのだろうか? と、そこまで考えたとき、脳裏にひらめくものがあった。


「――そうだ! 温泉だ!」

「温泉?」

「そう、オレは温泉の湯をくまなきゃいけないんだ! その温泉は男女の縁をむすぶ温泉で……」

「それって、この近くの妻恋温泉のことですか?」

「分からないけど……そんな名前だった気がする!」


 オレが勢いよく立ち上がると、桂さんは思案げに、

「工藤くん」と、オレの名を呼んだ。


「工藤くんはもしかして好きな人がいるんじゃ……」

「え?」

「そうでなきゃ、あの温泉を手に入れようと思わないですし」

「あ……ええっ!? そうなるのか!?」

「そうなります。だから、はやく記憶を取り戻さないといけませんね……」


 桂さんはつぶやくように言って、カレンダーを見つめた。

 ――8月20日。

 夏休みはそろそろ終盤だ。



 ●  ●  ●



 村の医者に頭を診てもらったあと、早めの夕食ということで、冷やし中華をごちそうになった。桂さんは父子家庭で、いつも家事を1人でこなしているらしい。


「うまい! ちょー美味いよ! 桂さんの冷やし中華!」

「ふふっ、ありがとうございます」

「チャーシューもこんなに分厚くてさ……たぶんオレ初めてだよ! こんな大きくてトロトロなチャーシュー食べたの!」

「そうですか? じゃあ、わたしのも1枚どうぞ」

「わーい!」


 オレは両手をあげて喜んだ。なにゆえこんな子供っぽいマネをするのか自分でも不思議だが、もしかしたらオレの家族に理由があるからかもしれない。たとえば、理不尽な姉によるしつけのせい……なんてね。


「工藤くんっていいですね」

「ん?」

「そんなふうに感情をハッキリ出せるの……すごいと思います」


 桂さんはオレのコップに麦茶をつぎながら、

「わたしはどうもヘタみたいで……」

「感情をハッキリ出すのが?」

「はい」

「それ、誰かに言われたの?」


 桂さんがうなずいたとき、玄関扉のひらく音がした。

「父です」と、桂さんが教えてくれる。

 オレが姿勢を正すと、居間の障子がサッとあいて、50代の男性が「ただいま」とあらわれた。


「おかえりなさい、お父さん。あの、こちらが電話で話した……」

「工藤浩一です。このたびはご迷惑をおかけしてすみません」


 オレが頭をさげると、桂さんのお父さんは小さくうなずいて、

「……それより医者には診てもらったのか?」

「はい。記憶喪失はたぶん一時的だろうと」

「そうか。一応、君のスマホを修理に出しておこう。スマホが直れば君の連絡先が分かるからな。明日までに玄関にでも置いといてくれ」


 そう言って立ち去ろうとする父親を、桂さんが呼び止める。

「お父さん、夕食は?」

「いつも通りだ。書斎に持ってきてくれ」


 ピシャン、障子がしまった。

 桂さんが緊張をゆるめるように息を吐いた。それからオレのほうを向いて、

「父はいつもそっけないんです。だから気にしないでください」

「うん」

 オレはうなずいて、冷やし中華の残りを、一層うまそうに食べた。



 ●  ●  ●



 ――ところで、オレはどうも枕が変わると眠れなくなるタイプらしい。


「まだ夜の11時かよ……」


 せっかく客室に布団を敷いてもらったのに、ぜんぜん睡魔が訪れない。仕方がないので天井の木目を数えていると、ふいに縁側のほうでミシリ……と音がした。まるで誰かが忍び足で歩いているようなその音は、縁側のほうから居間のほうへ向かっている。


「おいおい……まさか泥棒か?」


 オレはそっと廊下へ出た。廊下の突きあたりを曲がってすぐ――手洗い所から光がもれている。もし用を足すならドアを閉めるはずだが、ドアは3cmほどあいていた。

 

 そういえば……トイレには大観たいかんの絵が飾ってあったっけ。よもや絵画泥棒か。

 オレは忍び足でトイレの前に立ち、「こらっ!」と叫びながらドアをあけた。

 すると――


「「!?」」

 オレも相手も凍りついた。トイレの中には、見知らぬ少女が1人。パンツをずり下げたまま、こっちを向いて硬直している。ちょうど用を足す瞬間だったのか、「ちょろちょろちょろ……」つつましい水音がきこえてきた。


 やがて気の遠くなりそうな沈黙のあと、

「ああああんた……誰なの……?」

 少女が声をふるわせる。ツインテールの、どこか猫を連想させる少女だった。


「オオオオレは工藤浩一だ」こっちも声がふるえた。「どどど泥棒かと思って……」

「あ、あたしは泥棒じゃないわよ。葉月の友だちで……トイレを借りにきただけ」

「そ、そうなのか。すまなかったな」


 ――バタン。ドアをしめる。

 だがドアはすぐまた開き、勝気な目をした少女がまっ赤な顔で大声をあげた。


「このヘンタイいいいぃい!!!!」

「すまん!! わざとじゃないんだ!!」


 オレは逃げた。縁側へ向かい、そこから庭へおり、サンダルを履いてダッシュした。そのすぐ後ろをツインテールの少女が追いかけてくる。


「まてえっ!! このヘンタイ痴漢すけべ男!!」

「痴漢はしてないだろっ!?」

「舌なめずりしてたでしょーが!!」

「してないっ!」

「あんたの目が舌なめずりしてたのよ!」

「濡れ衣だ! だいたい、ぐうぜん見えただけで……ひっ!? 石を投げるな!!」


 ヤバいぞ……つかまったら殺される! 社会的に殺される!

 オレは必死に足を動かした。村をめちゃくちゃに走った。少女はどこまでも追いかけてきた。まるでリアル青鬼だ。オレは泣きそうになった。


 ――そして15分後。


「「はあ……はあ……」」


 おたがい肩で息をする。全力疾走したせいか、なんだかさわやかな気分だった。

 ツインテール少女は「やるじゃないの……」と、オレを睨みつけながらも、どこか許してくれそうな口調で、

「あたしは美浜みはまなぎさよ。なぎさって呼びなさい。あんたは工藤……なんだっけ?」

「浩一だ。工藤浩一」

「そう。じゃあ浩一って呼ぶわね」


 なぎさは薄い胸をそらしながら、命じるように言うと、「つかれたあー」と地面に座った。白いワンピースのすそから、ほっそりした脚がのぞいている。桂さんとは違ったタイプの美少女だ。


 なぎさは汚れるのもかまわず地面に横たわり、

「もう歩きたくない! ……そうだ! 浩一、あんた村へもどって、それから自転車であたしを迎えに来てよ」

「はあっ!?」

「いいでしょ。それでチャラにしてあげるんだから。それとも……ここでおしっこ見せてくれるの?」

「自転車で迎えに来ます!」


 オレに拒否権はなかった。いそいで村まで戻り、桂家の納戸なんどにしまわれていた自転車を借りて、ひいこら言いながら、なぎさのもとへ向かった。

 そして、なぎさを自転車の後ろに乗せて走りながら、オレは話した。今日のことを。


「――そういうわけで、オレは記憶喪失なんだ」

「ホントに何も覚えてないの?」

「ああ。自分の名前と、ここへ来た目的以外は」

「目的って?」

 なぎさが耳元で尋ねる。


「どうやらオレは妻恋温泉のお湯をくんで持って帰らなきゃいけないらしい」

「それじゃあ」なぎさはオレの背中をつかんでいる手を少しゆるめると、「浩一にはきっと好きな人がいるのね」

 桂さんと同じセリフを口にした。

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