1-3
どうやら昨日の混雑は、今日が休診日だったからということらしい。
早朝にたたき起こされ、リラとチョウジには院内の清掃が言い渡された。
清掃自体は別にどうでもいい。実家の施療院でも日課として行っていたから何の問題もない。
「それでですね、私はそれでいいと思うんですが老士は駄目だとおっしゃって…」
それよりも、朝だというのに昨晩の勢いを失っていないチョウジの質問攻めがリラを苦しめていた。
箒で一はきするたびに、疑問が一つ投げられる。
「ユノ先生は最近お忙しいと伺っていますが、論文の発表の間隔が狭くなっていますね。しかしながら、発表ごとに内容がどんどん素晴らしくなっている。先日発表された論文も拝見しましたが、私なんぞは感服するばかりで…。リラさんも読まれました?」
「ええ、まあ…」
読むも何も、書いているのを真横で見ていたのだ。完璧にその内容は頭の中に入っている。
いい加減掃除に集中させてくれないだろうか。雑巾を絞る手に一段と力がこもった時、チョウジは今までで一番素直な疑問を零した。
「ところで、ユノ先生って実際はどんな方なんですか?」
単なる興味から出た問いだったのだろう。
しかしそれは、リラにとっては既に何度も繰り返された問いだった。
そして、そのたびに何度だって同じ言葉を返してきた。
「…私もここ十年くらいろくに顔を合わせていなくて。何分、忙しい人ですから」
それがリラの話せる、精一杯のユノの姿だった。
ユノは忙しい。
リラが気づいた時にはユノはもう医術士で、家にいないことがほとんどだった。 まともに顔を合わせるようになったのだって、ユノが巡診を休止した半年前からだ。
どんな人かと聞かれるたびに、自分が本当は何も知らないのだと突きつけられる。
「でも、優しい人ですよ。必ず、どんなに忙しくても父と母の命日には帰ってきてくれますし。昔は…そう、いつも物語を語ってくれました」
きっと、兄はそういう人なのだと、まるで自分に言い聞かせるように、言葉を噛みしめる。
「そうですか」
「そうですよ」
何かを察したチョウジが明らかに声の調子を落とした。それがどこか面白くてリラは小さく笑った。
チョウジにも多少は人の心の機微を読み取る能力があったらしい。
「優しくて、すごい人です。私なんてまだまだ、兄の足元にも及びません」
「そうですか?私はリラさんもすごいと思いますよ。その年で国試に合格して、もう一人で巡診に出てるなんて」
「これが初めてですよ。私は今、兄に試されているんです」
一人前の医術士への道のりは長い。
医術士になる方法は二つ。一つはチョウジのように学院に入学し、八年ほど学んで卒業すること。
もう一つは、リラのように“師格”とよばれる特殊な資格を持っている先達に弟子入りし、国家試験に合格するという方法だ。
国家試験は非常に難易度が高い。
そもそも、師格を持つからと言って必ずすべての医術士が弟子を持つわけでもない。むしろ学院卒の医術士が一般的で、卒業してからさらなる修行のためにチョウジのように弟子入りする者の方が多い。
リラも、兄の師匠がそのまま引き受けてくれたからよかったものの、誰も師になってくれなかった可能性も大いにあるのだ。
国試合格者は、それだけの幸運と実力を持っていることの証明。
だが、リラはそうとは思っていなかった。
「早く医術士になりたかったので、今の道を選んだだけです」
リラにも学院に通うという選択肢はあった。
でも、リラは早く医術士になりたかった。ならなくてはいけない理由があった。
だから、この道を選んだだけ。
「確かに。学院だって、卒業してからがはじまりですから。医術士の技量は、どれだけ自分を追い込めたか、ともいいますしね」
チョウジの言葉に、リラは頷くことしかできなかった。
「ほら、口ばっかり動かさないで、ちゃんと手を動かしなさい。それが終わったら次の仕事だ。やることはまだまだ一杯あるからの」
「「はい!」」
ジシャの声に慌てて手を動かす。もう、チョウジは必要以上に疑問を投げてくることはなかった。
一通り医院の掃除が終わると、二人は医院の離れにある調薬室に連れていかれた。
「すごく…混沌としていますね」
それがリラの第一声だった。
室内に満ちる乾燥した植物の匂い。窓辺に敷かれた筵の上には採取したばかりの薬草が風にさらされている。
残りの壁には全て薬棚が置かれ、国中のありとあらゆる薬草たちが目いっぱい詰め込まれていた。部屋の隅に置かれた机の上では薬研や乳鉢、製丸器が陣地を奪い合い、その隙間で風にあおられた薬術書がひっそりと存在を主張している。
人一人くらいならば余裕で入りそうな大釜がいくつも無造作に転がっている光景は、むしろ圧巻とも呼べるほどだ。
「綺麗好きな姉弟子が見たら発狂しそうです…」
「ん?衛生面はちゃんとしているぞ」
そういう問題じゃない。口には出さないが、リラはそう心の中で叫んだ。
「とりあえずレイサンを調合してくれ。かなりの量が必要だから、二人掛でやると言い」
「分かりました」
指示を受けチョウジがすぐに動き出す。この場所においてリラは他所者だ、下手に動いてこの混沌空間を悪化させるわけにもいかない。
「レイサンというと、二日酔いの時に飲む薬ですよね。水分調節をする効果のある」
「そうです。この街、大酒飲みの人が多くて。多めに作っておかないとすぐなくなるんですよ」
大釜を片手で転がしながらチョウジは苦く笑った。
「レイサン…ですか」
医術士が作る薬は大まかに三種類に分類される。
第一に、薬効を持つ天然物を生成せずに使用する生薬。第二に、生薬を複数調合することで効果を高めた生成薬。第三に、近年徐々に普及し始めた人工的な合成物の調合によって作られる錬成薬だ。
特に生成薬と錬成薬は、まじないを使うことでのみ調合が可能な術薬という種類にも分類される。
レイサンはこの生成薬の中でもまじないが必要な術薬にあたる薬だ。
「リラさんはやっぱり薬の調合が得意なんですか?」
「あー…それが、実はあんまり得意じゃなくて」
「ご謙遜を。メディカ家の方は揃ってまじない調合のすごい技術をもっていると聞きましたよ」
「そんな…」
リラが言葉に詰まる。
確かに、メディカ家は專ら生薬と生成薬の研究を代々行ってきた。ユノも薬の調合に関しては一家言持っている。
が、全ての人間がそうであるとは限らないのだ。
「頼りにしてます。あ、そこの甕の水を汲んできてもらえますか?」
「分かりました」
「えーっと、トルフィアとアンブラ、それからモナムの粉末を混ぜて」
甕の水を器に移す間に、チョウジが粉末状にした薬草たちを同じ分量ずつ、竈の上に固定した大釜に入れて混ぜ合わせていく。
一通り混ぜ終われば水を流し込み攪拌。後は火をつけてひたすら煮込む必要がある。
「リラさん、火をお願いしても?」
「分かりました」
竈に薪がくべられていることを確認し、手を翳した。
薪が燃え上がる姿をイメージし、指先に集中する。
『
炎の簡易定型呪文。
指の合間にある“孔”と呼ばれる部分から魔力が放出され、言葉によってイメージが付与される。
指向性を得た魔力はイメージ通りの現象を具現化させ、大釜の真下で炎が上がった。
「すごい火力。リラさんは魔術も得意なんですね」
「魔術は…ですね。火の魔術はさほど難しくないですし」
魔術は、魔力にイメージを付与して世界を書き換える力だ。その中には、医術士の使うまじないも含まれる。
人の魔力は心臓あたりにある魔力高炉という器官で生み出され、魔力回路と呼ばれる血管のような場所を通って全身を巡っている。
現在の魔術士たちが魔女の末裔であると考えられているのは、この魔力高炉や回路が遺伝によるものであることに由来している。
高炉で生み出された魔力そのものには何か現象を起こす力はない。中には奇病の原因となるような例外もあるが、魔力は基本的に体外に放出される前に術者が現象を“想像”することによって指向性を得る。
その想像による指示付けをより簡単にしたものが定型呪文と呼ばれる言葉だ。
短い言葉によって自分の中に刷り込まれたイメージを再生させ、より簡単に魔術が発動できるようにする。
玄人ともなれば自分独自の言葉で魔術を発現させられるようになるらしい。
簡易定型呪文であれば、魔術士の中でも魔術を専門的に扱うわけではない医術士だが、それでも使うことができる簡単なものが多い。
「私は魔術がとんとダメで。まじない程度なら大丈夫なんですが。魔力量もさほど多くないので、長丁場になったらどうしようかと」
「そうなんですか…」
う~んと頭を抱えて悩むチョウジに、リラは煮え切らない返事を返した。
まじないは魔術の一種だ。中度呪法とよばれる魔術に対して、まじないは軽度呪法、つまり比較的簡単なものが多い。
魔術も簡単に使えるメディカ兄妹が珍しいほうで、まじないは使えるが魔術を使えない、という医術士は実は少なくないのだ。
それでも、医術士として技術を高めるには最低限の魔術の技量が不可欠だ。
チョウジも言ったように、医術士は時に患者に寄り添って何時間、長い時は何日間もまじないを行使し続ける必要がある。それには高い集中力と魔力量が求められるのだ。
「私だって苦手なものはあります。先ほども言ったように、薬の調合だって本当に苦手なんですよ」
そう呟いて、リラは視線を炎に戻した。
リラが起こしたイメージは薪を燃やす炎。これであれば想像することは簡単だ。
だがその代わり、細かい炎の調節は自分の手で行う必要がある。薪の量と配置を調整し、火の強度を操る。
二人とも無言で目の前の作業に没頭した。ぐつぐつと煮立つ薬液をかき混ぜては薪をくべ、またかき混ぜる。
そうしてしばらく経った頃、チョウジが声を上げた。
「リラさん、そろそろ頃合いみたいです」
どうやらもう十分煮詰まったらしい。色の濃さと粘性が増した薬液はいかにも苦そうだ。
このままでも薬として飲めなくはない。が、これでは非常に苦くて飲みにくいだけでなく効果が薄い。
それを飛躍的に高めるためにはまじないによる加工を施す必要がある。
「リラ君、君がまじないをしなさい」
部屋の隅でずっと薬研で薬草を粉砕していたジシャが、名指しで指示を出す。
そうされては、リラには逃げようもなかった。
「…分かりました」
リラの顔が強張る。緊張しているのか、妙にぎこちない動きで薬液に手を翳した。
『
定型呪文を呟き集中する。
指の合間から流れ出る魔力に、イメージを付与する。
成分の分離は、根菜に付いた泥を落とす作業に似ている。苦みを消すのは、粘土を丸めるようなイメージで。
魔力が指令を得て影響を及ぼしていく。
水面がゆっくりと動きだし、徐々に水の色が二色に分かれていった。
上手くいきそうだ。リラがほんの少し油断した瞬間、
「きゃっ!!」
「うわっ…!?」
爆散。
成分を抽出するはずが、何故か薬液は破裂音を立てて部屋中に飛び散っていた。
「リラさん!?大丈夫ですか?」
「大丈夫です…」
髪から薬液を滴らせながら、リラは応えた。
大丈夫かと問うたチョウジも、甚大な被害を被っている。
「すみません…」
そのとき、部屋の隅で一部始終を眺めていたジシャ老士が立ち上がった。
怒られる、と覚悟を決めてリラはジシャを仰いだ。
薬液まみれな部屋の中、何故か一人無事な老士は神妙な顔で言う。
「ユノ君から、まじないがとてつもなく苦手な妹君とは聞いていたが、まさか本当だったとは」
「ご存じだったんですね…」
汚れ一つない白衣。
どうやら全て知った上での采配だったらしい。思えば、昨日の診療の時も医術士であるにも関わらずまじないに関する仕事は一切回ってこなかった。
リラは試されていたのだ。
そのことに今更気づき、居た堪れなさに襲われる。
「本当に、苦手だったんですね…」
チョウジが驚嘆の声を漏らす。
そう何度も言ったではないか。そう反論したかったが、できる状況ではない。
秤と大樹の家紋。
それが刻まれた黒衣を着るというのは、家を背負うというだけでなく、医術士として一定以上の技量を必然的に期待されるということを意味する。
チョウジのような反応を示す方が、普通なのだ。リラが今まで知らなかったというだけのことで。
「……すみません」
蚊の鳴くような声が漏れる。
リラ・メディカはまじないが使えない。
仮にも医術の大家に生まれながら、その才能は絶望的であった。
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