1-2
両手に大荷物を抱え、リラはリファンの駅に降り立った。
フィリラ皇国東端の街リファン。フィリラ幹線の終着点の街は、リラが想像していたほどド田舎というわけではなかった。
石造りの建物と、それを囲う草木。大通りにはいくつかの店が軒を連ね、買い物をする街人の姿が所々に見える。
山から流れ来る瑞々しい生まれたての空気と、ゆっくりと流れる時が交ざり合う中に、穏やかな人の営みが垣間見えた。
皇都とは違う、潮風の混じらない木々の香りに胸が高鳴る。
一目で街を気に入ったリラは、大きく息を吸い込んだ。
新鮮な空気で肺腑を満たし、黒衣の裾をはためかせて一歩を踏み出す。
リラがこのリファンで第一にすべきことは協力者に落ち合うことだ。
医術士は特定の医院に所属しないため、国中を旅する間は各地の医院に間借りすることが多い。
その拠点を貸してくれる地元の医士を協力者と呼ぶ。
「ジシャ老士ね」
兄からの紹介状を手にリラは街を歩きまわる。列車で眠ったおかげか、心なしか体は軽かった。
しばらく歩いて分かったことがある。
どうやらこの町には医院は一つしかないらしく、そこの主がジシャという老医士であるようだ。皆は尊敬の念を込めてジシャ老士と呼んでいるとか。
ユノもかつて何度も世話になったらしく、思い出話の中にその名を何度か聞いたことがある。
御年80近いにも関わらず、ジシャ老士はこの町と近辺の複数の村の医療を一手に担っているらしい。
今回リラは四日間のリファン滞在の間、ジシャ老士の下に身を寄せてその仕事の手伝いをすることになっている。
それは宿泊させてもらうことへの返礼であり、そもそも臨床の経験が皆無に等しいリラを鍛えようというユノの意図が明白に表れている。
無論、それに対する反論はない。
反論はないのだが、
「兄様…、この地図ではどんな賢者も迷いますよ」
手紙に添えられていた兄お手製の地図。正直、まったく分からない。
カバンで両手がふさがっているため、立ち止まって荷物を置いては何度も見直すが、やはり分からない。
直線が何本か書かれただけの、地図と呼ぶのも気が引ける一品。筆跡もさることながら、速度を重視して手抜きになるところはいい加減治した方がいいと思う。
とりあえず、リファンのなかでも山側にあるということだけは分かっている。
医院はこの町にその一つしかないのだから、本当に分からないときは人に聞けばいいのだ。
地図に頼ることは早々に諦め、リラは歩き出した。
結局のところ、ジシャ老士の医院は駅前の大通りとひたすらまっすぐ歩いた突き当りにあった。地図を見るまでもなく、一度も曲がる必要がなかったのだ。
無駄に街中を歩き回った挙句、通りがかりの人を捕まえ訊ねたことでようやく辿り着くことができた。
必要以上の疲弊に先が思いやられる。
「ここがジシャ老士の医院…」
リファン唯一の医院、と聞いて想像していたものよりも遥かにこぢんまりとした外観。
胸に生じた一抹の不安は無視し、“診療中”というドアプレートを信じることにした。
「お邪魔します…」
恐る恐る扉を開ければ、視界に移るのは人人人。順番待ちの患者でごった返した院内に、驚きの声が漏れる。
「すごい人…」
「もしかしてリラ・メディカ先生ですか?」
リラが患者の圧に押されていると、看護士の一人がリラに気付き声を上げた。
「はい、そうですけど…」
『先生』という呼称にくすぐったさを覚えながら、リラは手招きされるがままに付き従う。
「お待ちしていました。老士から話は伺っています。ただ…見ての通りの混雑具合でして、リラ先生さえよければ挨拶は後にして、外来の手伝いをしてほしいと」
来て早々申し訳ない。看護士の表情がそう言っている。
思った以上に人手が足りていないらしい。
「分かりました。微力ながら務めさせていただきます」
最初からそのはずだったのだ。断る理由など一つもなかった。
看護士は小さく頷くと、いくつかある診療室の一つにリラを通した。
持ち込んだドクターズバックから最低限必要なものを取り出して、患者を迎え入れる。
「風邪ですね。処方箋を出しますので、お薬を受け取って下さい」
「胃腸風邪ですね。脱水には気を付けて、当分はおかゆなどのお腹にやさしいものを」
「捻挫でしょう。ひどく腫れていますが、骨には異状はないようです」
次から次へと途絶えることなく流れ込む患者を一人一人捌いていく。
この街唯一の医院と言えど、所詮は街の医院。
訪れる患者の多くが、やれ熱が出ただの、腹が痛いだの、頭痛がするだの。その診断結果は軒並み、どこにでもある普通の日常病ばかりだ。
型通りの診察を行い、判断を行う。
それ自体、リラにはあまり経験はなかったが造作もないことだった。
無論、だからといって手を抜くことはしない。が、少し面白くないと感じているのも事実だった。
終了時刻を大幅に過ぎてから、漸く待合室は静けさを取り戻す。
だが、一息つく前にリラにはまだやることがあった。
「ジシャ老士。改めまして、今日からお世話になりますリラ・メディカです」
聴診器を首にかけたまま、リラは黒衣の裾をほんの少し持ち上げて礼をする。
その姿に、白衣のジシャ老士は人の好い笑みを浮かべた。
「あぁ、ユノ君から聞いている。悪かったの、説明もなしにいきなり働かせて」
「構いません、当然のことですから」
「よく教育が行き届いている。いつも薄ら笑いを浮かべていたあのユノ君の妹とは思えん、真面目そうな娘だ」
そういって褒めるジシャ老士は、現役の医士というよりも近所のおじいちゃんのような親近感がある。
「チョウジ!お前も挨拶したらどうだ」
ジシャの呼びかけに、医院の奥からリラとそう年の変わらなそうな黒衣の青年が姿を現した。
「初めまして、チョウジと言います。先の春に学院を卒業したばかりで、今はここで修業させてもらってます」
そういってどこか頼りなさげな笑みを浮かべてチョウジは手を差し出した。
自分の手を重ね、改めて自己紹介を交わす。
「初めまして、リラ・メディカです」
リラの名を聴いた瞬間、ほんの一瞬だけチョウジの目が驚きに開かれた。すぐにそれを穏やかな笑みの下に隠し、空いた手で頭を掻いた。
「いやー、メディカ家の方と話すのは緊張するなぁ…」
チョウジの目がリラの黒衣の一点を見ている。
大樹と天秤の紋章。今やたった二人、リラとユノのみが身に着けることを許されたメディカ家の家紋だ。
かつては、代々皇都で宮廷医術士として皇帝に仕え、医術士はおろか民草においてもその名を知らぬ者はいないといわれていた。
「そんな…。今となっては没落した家。期待されても何も出てきませんよ?」
「またまたぁ」
チョウジはそういって軽く否定するが、リラの言っていることは間違いではない。
栄華を誇った一族も、今やその存在は過去のものとなってしまった。
学院と法制度が整備され、優秀な医術士が数は少ないながらも安定的に供給されるようになったことで、メディカ家は特権的地位を失った。
世襲制だった宮廷専属医の位も失い、今となってはもう、リラとユノの二人しかその血を継ぐ者は残っていない。
最近では、ユノという麒麟児の誕生によって再び注目を集め始めてはいるが、没落したことに変わりはないのだ。
「学院ではユノ先生はもちろん、メディカ家の方々の話がよくされるんですよ。あれは本当ですか?メディカ家の方は、医術書で文字を覚えるという…」
「あぁ、それは…確かにそういう人もいますね」
聴診器をおもちゃ代わりに、医術書で文字を覚える。世間にはメディカ家にまつわるそんな伝説もあるらしい。
が、当事者からしてみればそれはあながち間違いではなかった。
リラはともかく、まだ父が存命だったころは、ユノはそのような環境下で育ったらしい。
ユノはリラに対してそういう教育方針を示したことはなかったが、それでも、他家の子どもよりははるかに医術を身近に感じながらリラは幼少期を過ごした。
学院では、そんなメディカ家の噂が今もまことしやかに囁かれているようだ。
「すごい!」
「そんなことはないと思いますよ。普通です」
「これチョウジ、嬉しいのは分かるがそこらへんにしておきなさい。リラ君が困っておる」
チョウジの勢いに圧倒されかけていたリラを見かねたのか、助け舟が出される。
ジシャはリラに同情の視線を向けた。
「下手に兄貴が有名人なために、妹はつらいのぅ」
「いえ、比べられるのは構いません。むしろ、光栄です。それに見合うだけの力をつけねばと思わされるだけですから」
「そうかそうか。なかなかに豪胆な娘さんだ」
リラの心の奥を覗くようにジシャは目を細めていた。
「長旅で疲れているだろうが、仕事は山ほどある。明日からもきびきび働いてもらうから覚悟しなさい」
「勿論です。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
リラの丁寧なあいさつを締めに、今日はこれで解散となった。
その夜、あてがわれた医院の二階の部屋でリラは泥のように眠った。
明日からの仕事への期待と緊張。心地よいベッドはそれらを優しく包み込み、積み重なった疲労を癒そうと、すぐさま睡魔に身をゆだねた。
そうして、一日目の夜が明けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます