第一章 知るための旅

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 竜の背骨のような国境山脈を横目に、列車は森の隙間を滑るように走り抜けていく。

 壮大な景色が瞬く間に流れていく窓辺で、黒衣の少女は深い眠りの底に落ちていた。

 輪郭を彩る月色の髪は光の反射で淡い青にも柔らかな金にも見える。瞳は固く閉ざされているが、穏やかに緩んだ口元から、愛らしさと同時に幼さを含んだ面立ちが想像された。

 しかし、その安らかな休息の時はそう長くは続かないらしい。

「…さま、…お客様!」

 右肩を軽くゆすられる感覚と遠くから響く声に、沈んでいた意識がゆるゆると浮かび上がる。

 重たい瞼を押し上げれば、現れた碧玉の瞳が心配そうにのぞき込む視線を捉えた。

「お客様、もうすぐ終点リファンに到着します」

 きっちりと黒い制服を着こんだ男性。木と鉄のきしむ音と、規則的な揺れに、ぼんやりとしていた頭が瞬時に覚醒する。

「ここは…?」

「ですから、もうすぐ終点のリファンです」

 的外れな第一声に、それでも男性は生真面目な返答を寄越す。

「嘘…」

「大丈夫ですか?」

 どうやら一人で寝こけていた少女に、心配した車掌が話しかけてくれたらしい。

 まわりを見渡せば、混雑していたはずの車内の人影はまばらで、外の景色も随分と田舎びている。

「あ…その、大丈夫です。そこで降りる予定だったので」

「そうですか。ではあと少し、良い旅を」

「ありがとうございます」

 一礼し去っていく姿を見送り、慌てて足元を確かめる。

 革製のドクターズバックと、アンティーク調のトランク。大事な仕事道具が詰まったそれらが無事であることを確かめ、安堵の息を吐く。

「緊張感のないこと…。兄様の言うとおりだわ」

 漏れ出たのは、自分自身への呆れ声。

 列車の揺れが心地よいからと、大事な仕事道具を放って眠気に負けている場合ではない。

 緊張のあまり眠れなかった昨晩を思い、窓の外に視線を移した。

「これが国境山脈…」

 流れるように過ぎ去っていく木々の隙間から、東の国境を担っている大山脈が見える。

 この列車は、西の皇都から東の大山脈麓までを一直線につなぐフィリラ幹線。最新の魔導技術によって国の端から端まで僅か半日での移動を可能にしている。

 生まれて初めて見る光景。生まれて初めて乗る列車。何もかもが新しい発見の中、黒衣の少女リラ・メディカは胸を弾ませた。

「初仕事、いよいよ始まるのね…」

 期待と緊張に胸が震える。

 リラの纏う黒の外衣は医術士の証。人を癒すための魔術を極めた者のみが着用を許されるそれは、リラの誇りだ。

 それを身に着けて行うこの旅は、れっきとした医術士の職務の一つだった。

 医術士の診療は基本的に、旅をしながら患者を診る巡診というのが基本だ。

 魔術を使えない医士とは違い、医術士はさほど母数が多くない。そのため、国中のすべての地域に医士を置くことはできても、医術士を同様にすることはできない。

 そのため、医術士は特定の拠点を持たず、一人前になると同時に旅立ち、自らの力を必要とする場所にその都度赴くのが一般的な職務形態となっている。

 医術士不足を補うために、このような形がとられているのだ。

 そして、医術士には各自研究を行うことも義務付けられている。巡診はいろいろな場所で情報を集めるための一つの手段でもあるのだ。

 そして今日、新米医術士のリラは初めて旅に出ることを許された。

 旅程は僅か10日ばかり。高名な医術士である兄ユノの代わりに、各地に点在する兄の患者を巡診するのが、リラに任された初めての仕事だった。

 苦節半年。黒衣を初めて身に纏った日から、今日という日をどれだけ待ちわびたことだろう。

 自分に任された仕事を遂行するために、生まれ故郷皇都を離れ、はるか東端の街リファンに一人やってきたのだ。

「町に着く前にもう一回、確認しておこう」

 がざごそとドクターズバックを漁る。無造作に詰め込まれた薬瓶や聴診器などの底から、五枚ほどの紙の束を取りだした。

 二人分の医療記録カルテ。その二人が、リラが今回兄から任された患者たちだった。

 名前に病名、出身地や職業から髪や瞳の色まで事細かに記録がされている。

 それらは全て何度も読み返されて、既に頭の中に叩き込まれていた。

「にしても、“ヨトの吐息”に“賢者の涙”…。奇病の中でも希少症例のオンパレードだわ」

 奇病。

 それは、魔力を持つもののみが罹患すると言われる謎の病。その原因から治療法まで、全てが未だ解明されおらず、その症状も多岐にわたる。

 あまりに難解過ぎるがゆえに、ろくにいままで研究もなされていなかった病たち。それらに手を差し伸べたのがリラの兄だった。

 病とすら認められず捨て置かれた、未知なるがゆえに忌避されてきた。そんな、求めても救いを与えられない人々に手を伸ばし、その病に名を与えた。

 史上最年少の国試合格者。奇病研究の第一人者にして権威。それがユノ・メディカという医術士だ。

 先の春、医術士になったばかりのリラもまた、同じ道を進もうと志している。

『旅に出て”奇病研究”というものについて学んでみるといい。』

 尊敬する兄にそういわれたのが約一月前。

 本当はもっと早くに旅に出たかったが、許可が出なかったのだから仕方ない。

 一年のほとんどを国の方々へと旅に出て情報を集め、戻ってくればその情報を基にひたすら頭をひねる。新しい発見があれば、次向かう時に持参し、あれやこれやと試してみる。

 一分一秒たりとも無駄にできない旅路。それが、奇病研究の基本だ。

 しかし、当のユノが、リラが旅に出ることをなかなか承諾しなかったのだ。

 ユノはリラの師匠ではない。リラの師匠は別にいるが、諸事情から合格してすぐにリラは野放しにされ、半ば仕方なくユノがリラの面倒を見ることになったのだ。

 しかしながら、ユノも中々に忙しい。

 いくら可愛い妹とは言えど、付きっ切りで何でも教えてあげることができるほど時間に余裕はなかった。リラだってそのことは分かっている。

 とはいえ、この半年間、伊達に師匠に見捨てられ、多忙な兄に捨て置かれていたわけではない。

 兄の診療室の医療記録カルテを何度も何度も勝手に読み返し、ありとあらゆる医術書の知識を頭に叩き込んだ。自宅を兼ねた施療院の温室にこもり、何日も薬草を観察し続けた。

 薬だって、何度失敗しようが関係なく、繰り返し繰り返し色んな調合を試した。

 それは、試験に合格するための知識ではなく、実際の現場で生かすことのできる生の知恵。

 頭の中の知識たちが、自らの力を発揮できる場所を求めて今か今かと疼いている。

 それがようやく、今日という日を迎えることができたのだ。

 今回の旅で診察するのはたった二人。今のリラにユノが預けていいと思ったのは二人だけ。

 それでも、十分だ。

 今のリラは、少しでも前に進みたかった。停滞したあの施療院を出て、世界を見て、何かを変えたいのだと希望に焦がれていた。

「私だって、もう一人前の医術士なんだから…」

 ぼそりとつぶやく。

その手には医療記録カルテに添付された一通の手紙が握られていた。


『リラへ。

 正直君を旅に出すのはまだ早いと思っているのが本音です。ですが、君は言っても聞かないだろうからとりあえずお試しで旅立たせようと思います。君は世間知らずの割に、妙に危機感が欠如しているところがあるので、心に留めておくように。

 怪我と病気にだけは気を付けて、珍しいものだからって何でも口にしないように。生水は絶対口に飲んじゃだめだよ。良い結果報告待ってます。     

                             ユノ・メディカ』


 走り書きの、あまり綺麗とは言えない筆跡。

 兄らしいと言えば兄らしい。かといってリラとしては全面的に素直に受け入れるのをためらう嫌味たらっしさを感じる手紙。

 ここに書いてあることが、兄の本心なのだろう。

 自分を甘やかしたいのか突き放したいのか、兄の考えていることはよく分からない。

 が、とにかく許可は許可で、これはまたとない好機なのだ。

 逃すわけにはいかなかった。

「まもなくリファン。リファンに到着します」

 先ほどの車掌の声が車内に響き渡る。

 医療記録カルテをカバンにしまい、ついでに握った跡のついた手紙を丁寧に伸ばしてからそれもしまう。

 忘れ物はないか、二度確認し終えた時、列車は静かに駅に停車した。

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