ビフレストハイムの魔女
杁山流
プロローグ
失くしてしまったものが、たくさんある。
畑で拾った石に、なんだかよく分からない植物の種。偽物のコインとジュースの空き瓶。
ガラクタまがいのそれらは、いつだって退屈な世界をほんの少し面白くしてくれた。
でもそれらは結局、過去へと埋没していくだけの存在でしかなかったのだ。
大人になるにつれて、一つ、一つとゴミの山へと吸い込まれていく。一つ失う度に、私は一つ階段を上っていった。
それはとても誇らしいことで、でも、どこか寂寞とした感情を胸に落としていった。
いや、それでも、失くせなかったものだって確かにあったのだ。
それは、純粋に抱いていた夢であり、心から信じていた希望であり、兄が語ってくれた物語だった。
あの日の色あせない物語が、今日も私に語り掛けてくる。
遠い遠い昔の、まだこの世界に本物の“魔女”が存在していた頃のお話。
「森の奥には優しい魔女が棲んでいました」
「心優しい魔女は、願われればどんなに小さな怪我や病気でも治してくれます」
「やがて、国中の偉いお医者さんたちまでもが魔女を頼って訪ねてくるようになり ました」
優しい兄の膝に乗って、7歳の私は物語に耳を傾ける。
「ある日、一人の少年が魔女に尋ねました。
『魔女さん、魔女さん。あなたはどうしてそんなに優しいの?』
魔女は小さく微笑んで答えます。
『私は優しくなんてないの。私はただ、これが正しいと思うから、そうしているだ け』
少年は魔女の言葉がよく分かりませんでした。」
私の好きなシーンだ。小さな胸がひときわ高鳴る。
「そうして日々は流れていきます。
少年はある時、怪我をしてしまいました。
とても小さな怪我でしたが、少年は魔女に治してもらおうと森へと向かいまし た」
「久しぶりに見た魔女の姿に、少年は息をのみます。
痩せこけた魔女の姿に、少年は知りました。
魔女の力が、その命から生まれていたということに」
「人々の病を治し続けた魔女の命は、今すぐ消えそうなほどに弱っていました。
魔女にはもう、人々の病気すべてを治してあげるだけの力はありません。
『あら、怪我したの?』
魔女は少年に手を差し伸べます。
『私が治してあげる』
奇跡の力が少年の傷をいやしていきます。
そして魔女は最期の力を使い果たしました」
お終い。いつも物語は、ここで終わりを向かえる。
だから、私は純粋な好奇心から訊ねた。
「魔女さんは死んでしまったの?」
「たぶんね」
この春に医術士になったばかりの兄は、また少し大きくなった私に優しい声を紡ぐ。
「魔女さんがいなくなって、みんなどうしたの?」
「代わりに私たち医術士が生まれたんだよ」
「いじゅつしが?」
「そう。魔女が使った魔法に代わる魔術が生まれ、魔術をより身近にしたまじない が人々に広まっていった。私たち医術士はまじないを使って人を治すんだ」
「まじないってすごいのね!」
「いや、まじないは決してすごくない。まじないにできるのは、ほんの少し痛みを 減らしたり、良い薬を作る手助けをしたりすることだけ」
「じゃあまじないはすごくないの?」
「それも違うかな」
幼さゆえの単純な思考に、兄は呆れたりすることもなく生真面目に応えてくれた。
「魔女は魔法で奇跡を起こすけど、医術士はまじないで人に寄り添うんだよ」
「よりそう?」
「そうさ。ただ痛みをけすだけなら普通の薬で十分だ。医術士が必要とされるの は、不完全な力だけじゃなく、それを補うための心を持って人に接するからだ」
よくわからない、というように首をかしげる。
それでも、兄は噛み砕くことなく、そのままの言葉で語り続けた。
「本当は魔女だって私たちと同じだった。私たちと同じで、人を救う夢を見た。た だ一つ違うのは、彼女が魔法を持ってしまったことだけ。その力の使い方を間 違ってしまったことだけ」
「魔女さんは間違ったの?」
「そうだよ。魔女は間違ったんだ。でも、魔女の心は間違っていない。人を救いた いという願いは、私たちには必要不可欠なものだからね」
兄が優しく微笑む。その微笑みが、私は大好きだった。
だから、よく分からないなりに兄の言葉の意味を考えた。
考えて、考えて、夢を見た。
「私もいじゅつしになる!兄様みたいに、みんなを治せるいじゅつしになる!」
幼い妹の無邪気な夢に、兄は愛情深く頷いた。
それから十年。その言葉は私にとっての全てだった。
魔女のような心と、まじないという力を持った、兄のような医術士になりたいと理想を抱いた。
夢も、希望も、物語も。私が失わずにいた宝物たちは、私という人間の心に住み着いてその全てを作り出す源になっていった。
決して失うことはできない、私の根っこ。
だから私は、いつだって自分の理想に愚直に生きてきた。
理想を叶えることこそが、兄が望み、自分が求めた未来なのだと疑いもすることなく。
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