生んでる生きている

大黒 歴史

生んでる生きている

「この前やっと行ってきたよ、病院」


「そう」


 入り口から奥に向かって縦長の店内に、カウンター席が数席ある。そのうちの一つだけが、うなだれた様子の女性で埋まっていた。


「やっぱりそうだってさ」


「ま、そうだろうね」


「なによ、冷たいなあ」


 テーブルに突っ伏した状態から顔だけを上げて、女は潤んだ瞳を店主に向けた。


「だってあんた結婚してからどれくらいよ。もう1年以上でしょ」


「あと少しで3年」


「その歳で避妊もせずになんだったら、そういうことなんでしょうよ」


 「あー」と呻きながら、女はもう一度テーブルに顔をうずめた。


「そうなんだけどさー…」


 店内には歌詞のない音楽が流れている。


「ショックだった?」


「そりゃそうよ。これでも女なんだからね」


「でも今は治療とかだって、結構充実してるんでしょ?」


「まあね」


 女はグラスに注がれたビールに口をつけた。


「でもね、人はどうか知らないけどさ、“産んでなんぼ”みたいなところがあったから。いざそれができないかもしれないってなると、じゃあ私は何のために、とか余計なこと考えちゃってさあ」


「産んでなんぼ、ねえ…」


 流れていた音楽が少しだけ激しくなった。


「あんた、よく私の前でそういうことが言えるよね」


 すでに上がらなくなった頭をテーブルにまかせ、横向きになりながら黒目だけを店主の方に動かす。女はクスリと小さく笑った。


「ごめん、愛さんは男だったね」


「女よ」


「はいはい」


「バカにしてんの」


 店主は女の頭をペシッとはたいた。うつ伏せのまま長い黒髪がはらりと流れると、女は肩を震わせて笑った。


「ごめんごめん。そういうつもりじゃなかったんだけどさ」


「まったく」


 店主は呆れながら、壁にかかった時計に目をやった。


「旦那、そろそろ帰ってくるんじゃないの」


「今日は飲んでくるって言ってたから、平気だよ」


「あらそう」




 流れていた音楽が止んでしまうと、空調の音がやけに目立った。無愛想な生活音をカモフラージュするようにして、店主は流しの蛇口をひねった。勢いよく流れる水の音と、いくつかの食器が重なり合う音がしている。


 ようやく次の楽曲が流れ始めると同時に、女がぐわっと勢いよく体を起こした。驚く店主の手から、皿が一枚、流し台の中へと滑り落ちた。


「でも愛さんはそういうこと、考えたことないの」


 女の目はほとんど開いていなかったが、開けばそこから流れるものがあることだけは店主にも分かった。


「そりゃあね。ない、と言ったら嘘になるけど」


 店主は流れている水を止めると、ふきんで手を拭きながら女に向き合った。


「あら」


 しかし女はさっきまでと同じように、カウンターの影にすっかり頭を隠してしまっていた。


「久しぶりに飲むからそうなるのよ」


 店主は残された食器とグラスを手早く下げてしまうと、店の奥から持ってきたタオルケットを女の肩に掛けてやった。






 カランコロン、と入り口の扉についた鈴がなる。


「こんばんはー」


 店に入ると、店主が片肘かたひじをつきながら、気だるそうにしてこちらに目をやっていた。


「遅い」


「え…?」


「早く持って帰ってよ、これ」


 思わぬ歓迎を受けて困惑していた男は、店主が顎で指す方に目を向けた。いつものカウンター席に、頭から突っ伏して眠っている女性客がいた。


「あ」


「同じ話を何度も聞かされる身にもなってよね」


「飲んでたの」


「ちょっとだけね。ずっと飲んでなかったぶん、回るのが早かったんでしょ」


「そうか」


 なにか思うところがあるように、男は女の肩にかかるタオルケットを優しくどけた。


「悪いね、迷惑かけて」


「別に。こっちは客商売だからいいけど」


 気の優しそうな男は申し訳なさそうに笑いながら、すっかり眠りこんでしまった女に声を掛けていた。

 しかしそのうち男は諦めて、背負っていたバッグを一度下ろすと、自分の胸の前へとかけなおした。


「愛さん、ちょっと手伝ってもらっていい」


「はいよ」


 店主はカウンターから出てくると、その場でかがんだ男の背中に、慣れた様子で女を移動させた。


「ごめんね、今日は帰るよ」


「見れば分かるよ」


 「うしっ」と力を込めて、男は立ち上がる。それまで穏やかに流れていたサックスの音が、急に高く大きな音を奏でた。色白で細い体の男はずっと頼りなさそうだったが、その瞬間だけはどこか力強さが垣間見えた。


「子どもって、やっぱり大事?」


 「え」と驚いた様子の男だけでなく、それを聞いた張本人である店主でさえも、いま自分で尋ねたことに対して戸惑っていた。


「…俺のこと、なんか言ってた?」


「旦那は、そっけないって」


「はは、そうかなあ」


 男は一度少しだけ屈んでから、勢いをつけて女を担ぎ直した。


「まあ子どもに対する気持ちは、ぜんぜん違うかもね」


「子どもがいなくても愛があるさ、みたいな」


 店主は腰に手をやりながら、ほくそ笑んでいた。


「愛かー。どうなんだろうねえ」


 男は女を担いだまま、上を向いて笑っていた。


「ただ家族が生むのは、子どもだけじゃないとは思うんだ」


 男の目は鈴のついた扉の方を、ひたすら真っ直ぐ向いていた。


 バシンっ、と店主が男の尻を叩く。


「何をいっちょ前に」


「愛さんが聞いたんだろー」


 笑顔を絶やさず、のっしのっしと足を前に進めていく。

 カランコロン、と鈴の音が聞こえたのは、店主が代わりにドアを開けたからだった。

 店を出て少し行ってから、男はなんとかそのまま振り返り、店主の方にと手を振った。


「同じだからかね」


 男と、担がれている女に向かって、店主はひらひら手を振った。


「私もそう思うよ」


 涼し気な夜風が、ゆっくりと彼らの背中を押している。店内では穏やかなピアノの音色が響き始めていた。

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