07 それ、あなたですよ

 夜明け前になって私たちはかにを見つけ出した。ちょっと時間がかかったのは先に山の中に寄ったからだ。中塚なかつかと中塚のSUVが沈んでいる場所に。

 蟹江は郊外のネットカフェにいた。

 ネットするでもなく、漫画を読むでもなく、ワープロソフトで何か書いていたらしい。何月何日の指導の正当性の件の説明、とかいう見出しと、自分がやったのは試合前の気合いを入れるための激を入れただけで野球部的には普通な指導をやりました、という文章が目に入った。私は活字の読み込みが速く、一方蟹江は作文が苦手なようだった。

 どうして中身が見えたかというと、九時間ナイトパックの精算を済ませて退店した蟹江がそのまま最寄りのコンビニに入り、マルチコピー機で無防備に印刷を始めたからだ。なるほどネカフェで書いてネプリってわけだ。現代だね。

 コンビニで買った封筒にA4用紙五枚くらいの束を畳んで入れた蟹江は、封筒を手にしたまま店を出てきた。まだ薄暗い土曜の朝。人通りのない道を足早に、駅への抜け道になる路地の方に入っていく。


「車、どうしました?」


 横ざまからあらたちゃんが聞くと、蟹江は不意を突かれた猫の仔みたいにびくりと身体を震わせた。リアルな話、ちょっと地面から飛んだと思う。


「車? 何、」


「あなたのミニバンじゃなくて中塚先生の、あの紺色のSUVですが」


 途端にダッシュで逃げようとした蟹江を、新ちゃんは片手で引き留めた。はたにはただ肩に手を乗せただけ。でも私には見える。鬼の吐き戻しで身体じゅう真っ黒に染まりかけた蟹江は、新ちゃんの手に焼かれるように苦しみ、動けなくなった。

 蟹江は確かに新ちゃんと同じくらいの身長で、髪は寝癖がついてるのか少しよれたスポーツ刈り。ここまで見ている限りは右利きだけど、真っ黒に染まっているのは左手の方だ。日焼けした顔は今はむしろ土気色に近く、隈のひどい目はまるでぎょうの者を見てでもいるかのような恐怖にあふれている。

 本当に恐ろしいモノになっているのは、自分のほうだというのに。


「おれは何も知らない。何のことだ。あんた、誰だ」


「僕はあなたを狩る者ですよ。何のことだはないでしょう、


「違う」


「自分の意志で死体を運んで」


「違う……」


「自分の意志で車ごとダム湖に落とした」


 違う、と蟹江は強く言った。でも何も違わない。気を失っていたわけでもあるまいし、全部蟹江がやったのだ。死人は歩かない。運転手のない車は動かない。物事を成すのはすべて生きている者。


「やったのは自分じゃないと思うんですか? それはおかしいな。は確かに、あなたが中塚先生の家のガレージで、中塚先生を玄能ハンマーで六回殴って殺したのを視たんですよ」


「おれのせいじゃない!」


 蟹江の声は乾いていた。急に声を出すのに顔は何故か脱力しているように見えた。蟹江は新ちゃんを凝視している。


「おれは悪くない。中塚カントクの教え方が悪いからだ。大体、水品みずしなではよかったのに、西鵬せいほうだとダメってのもおかしいだろ!? おれたちは文句なかった。なら西鵬もいけるはずだ。みんなたるんでんだよ。そうなんないやり方を監督は教えてくれてない!」


 すげえな、と私は思った。もう無茶苦茶になってる。

 こいつ、新ちゃんと初めて会って、新ちゃんが何を知ってるかもまだ把握してないのに、急に注釈なしに全く具体的じゃない言い方で西鵬野球部でトラブってる話をするんだ。これもう全然、他人と話す態度じゃないんだよな。


「理由の話なんかしてない。あなたが中塚を殺したのか殺してないのかという話をしてる」


 新ちゃんの声はぞくぞくするくらい冷たい。


「あなたは殺した。殺したんだから罪でしょう。理由はどうでもいい。なんだ」


「おれのせいじゃない」


「他に誰か中塚を殴って殺した人間がいるのか? いない。あなたがやった。一人で。自分の意志で」


「だって」


 ガキじゃねえんだからよ、と私は思う。だってじゃねえよ。でも蟹江は真っ黒まみれになりながら新ちゃんに言う。


「おれは、正しいと思ったことをしたんだよ!」


 それが、西鵬の授業や野球部でのことなのか、それとも中塚殺しのことなのか。あるいは蟹江にも区別はついていないのかも知れなかった。

 そんなことより、私は蟹江のほぼ全身を染めた黒いをじっと見ていた。その黒が蟹江の身体の表面からどろりと路上へ流れ出し、ぼこぼこ泡立ったかと思うと、地面から槍が突き出るように突然、滑らかに伸び上がって。

 そこから真っ黒な両手が生え両足が分かれ、頭が出て身体が膨らみ。

 墨より黒い闇しかないその顔に、燐火のように青く光る両目が開いて、血の色の口が横に長く現れ、にたりと笑う。

 その頭部には黒のしたたる角のようなものが見えた。


 鬼だ。


 ひっ、ひっ、と蟹江がひきつけのような声を漏らして顔に恐怖をあらわにしている。ただの人間の蟹江にもこれは見える。何しろ吐き戻しで繋がっており、そもそも蟹江が生み出したものなのだから。


「な、に、なんだ、誰、来るな!」


『誰、とはひどいな』


 真っ黒な鬼の真っ赤な口から、気持ちに毒が染み入るような嫌な声がした。


『おまえがおれを生んだ。おれはおまえだよ』


「知らない! 知らない」


『おまえがしたいことをした。おまえはしたいことをした』


 鬼のからだからは黒いものが滴り落ちる。これが私たちのいう、鬼の吐き戻し。鬼が生まれた所以ゆえんのものにこびりつき、鬼を祓うまでは消えない邪気だ。

 蟹江は自分がその黒に染まっていることに今になって気付き、パニックを起こしている。鬼から離れようとするが、蟹江が動けば鬼も同じだけ動く。距離は開かない。


「無駄ですよ。その鬼を置いて逃げたりはできない。あなたが生み出したものだからね。それは、あなたそのものだから」


 淡々とした新ちゃんの言葉にかぶせるように蟹江は、うるさい、でたらめ言うなこんなやつ知らねえ、とわめいた。

 鬼は蟹江に顔を近づけ、その青い両目を細めて笑った。


『おまえは、おれだよ。つぎは誰を殺す。ほかに誰が悪い』


「おま、お前が殺したのか」


『そうだ。おれが殺した。それは、おまえが殺したからだ』


「おれは、」


『おまえが望んだ』


「違う」


『おれは、おまえの望むことしかしない』


「望んでない!」


『望みをいえ。ほかに誰を殺す。つぎは誰を殺す』


 ちがう、と喚いて蟹江は後退り、塀に背中をぶつけてそのままへたり込んだ。もちろん鬼は、その蟹江にぴったりついていく。


『理事どもを殺したい。うるさい部員の親を殺したい。面倒くさい女を殺したい』


「違う」


『違うことはない。おれは、おまえがそう望むのを感じた。おまえがそう望んだのを、知っている』


 おれはおまえだからな。

 鬼がそう言って笑い、蟹江は頭を抱えて何か声を漏らしている。

 新ちゃんは、ゴミクズを見るような目でそれを見下ろしている。蟹江が新ちゃんを見上げた。


「助けて……!」


 わぁ、と私は声を出さずに言った。いやまあ助けを求める勇気、大事よ。大事だけどさ。ほんとにいつも自分が被害者なんだな。中塚は殴ったのに鬼は殴らないんだ。武器がないから? 鬼の見た目が異様だから?


「何から助けてって言ってるんです」


 新ちゃんの声に蟹江はすがりつくように。


「この、ヤバいヤツから」


「そうは言っても、


 鬼の真っ黒の顔がぬるりと黒を流し落として、蟹江と同じ顔が出てきた。目は青い炎。にたにたと笑う口は輝くような血の赤。額に角。うわああ、と蟹江が悲鳴を上げる。


「いやだ。いやだ。こんなやつに……こいつがおれに殺させる! もういやだ、助けてくれ!」


「あなたが殺すから生まれた鬼だ。あなたが主で鬼が従者のはずなんですよ、本来は」


 あなたが中塚先生を殺すために凶器を振り下ろしたときにそれは生まれた、と新ちゃんは言った。

 あなたの殺意、あなたの行為が先だと。

 あなたが殺したから生まれたのだと。


 鬼は誰の心にもいるものだ。傷つけたい殺したい、憎い恨めしい、いなくなればいい、と誰もが思うことはあるし、それ自体は責められない。心の中には自由がある。

 けれども、心の外で、身体の外で、実際にやってしまったら事態は一変する。

 特にこの蟹江のような、何でも人のせいにするような奴は、自分が殺したことさえ人のせいにする。

 自分の悪意さえ、自分のものではないと言い募る。


「知っているくせに」


 私は蟹江に囁きかけた。


「おれは悪くないなんて、嘘。おれは正しいと思ったことをしたなんて、嘘。

 殺してしまった自分が悪いと、ほんとは知っているくせに」


「誰だ! どこで見てる!」


「私が誰かなんて、お前に関係ねえだろ。お前が人殺しだ。それだけだよ」


 私が誰で、どこから蟹江を見ているか。

 そんなこと蟹江が知る必要もなく、知られたくもない。


 新ちゃんと目が合った。


「もういい。りょう


「わかった」


 私の声でパニックになって地べたを這いずり回っている蟹江と、その側に纏わりつく黒い鬼。

 すう、と息を吸い込むと、私は蟹江を指差して、呼ぶ。

 これが、これこそが私、特別な鬼の目の役割。鬼切の命により夢を視て、鬼切と共に邪気を追い、鬼を名指して告げる。

 私が視たものはお前だと。

 本来は鬼切自身の声で行う名指しの手順を、新ちゃんと私の組では、ある時から私が受け持っているのだ。



「蟹江真治。



 鬼の目わたしが、お前を見た。

 それが全て。

 お前こそが鬼だ。


 私が呼ぶと、鬼の角が炎をあげて燃え上がり、鬼の動きが鈍くなる。黒い鬼は唸りながら振り返り、真っ赤な口を天まで割けよとばかり大きく開けて、新ちゃんに噛みかかろうとして。

 新ちゃんはただその額を、押さえつけた。

 轟音と閃光。鬼の苦悶の声、何かがけるような気配、トランポリンの上にいるみたいに地面が跳ね、私は。

 私はずっと視ている。蟹江真治の鬼がぐずぐずと砕けていくのを。

 けれども決して消滅するのではなく、蟹江の中に戻っていくのを。

 真っ黒な鬼の邪気が、己を生んだ主に還るのを。


 たとえお前が忘れても、この鬼の目わたしが忘れはしない。

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