逃れられない二つの道
「さて……あなたには二つの道だけが示されています」
「二つ……だけ……?」
改まった話し方で切り出したオーフェは、人差し指と中指の二本を立てて俺を見つめながらそう言い、それを聞いた俺はオウム返しにそれだけを絞り出した。
オーフェの瞳には相変わらず嗜虐的な光が湛えられていて、俺は思わず喉を鳴らしてしまう程だった。
そんな俺の姿を見たオーフェは、僅かに口の端を吊り上げて話を続けた。
「そうです、たった二つしか道は残されておりません。もっとも、まだ二つも残されている……と言っても良い程ですけどね。もし私の担当区域に来たのでしたら、本来あなたの様な人の魂は、選択する権利すら与えて貰えずに消滅されるのですけれど」
ククク……と喉を鳴らしてそう言ったオーフェの俺を見る眼は、明らかに蔑んでいるものだった。
本当だったら、誰とも分からない者に俺の存在を全否定されれば怒りや反論が沸き起こるものなんだろうけれど、相手は全能とも言える神と名乗る存在だ。
俺の事は、下手をすれば俺以上に知っているだろうし、拙い反論なんてそれこそ本当にあっさり完全論破されて、逆に俺が惨めな思いをするだけだ。
それに何故だか、オーフェにはこういった残忍な表情が似合っていると俺は思ってしまった。
まるで絵画の様に美しく、正しく神に相応しい顔が作り出す悪魔の様な表情には、息を呑む程の神秘さが漂っていた。
「まず、あなたが選び得る一つ目の道ですが……」
オーフェの言う二つの道と言う言葉、そして彼の表情に魅入って声が出せないでいた俺を知ってか知らずに、オーフェは俺の言葉を待つ事無く話を先へと進めだした。
「あなたはこのまま元の世界へと戻り、再びあなたの人生を全うすべく生活を再開すると言うものです」
「……へ……?」
オーフェの話を聞いて、俺は驚く程間抜けな声を出してしまった。
それもそうだろう、さっきのオーフェが言った話から、俺の進むべき道の一つが元の世界へと戻されるだけなんて思いも依らなかったからだ。
でも、そんな俺のリアクションを見ても、オーフェの表情に何の変化も現れなかった。
それが俺の内面に警鐘をかき鳴らしていた。
―――ただ戻るだけなんてありえない!
本能的に俺はそう身構えていた。
「何もそう驚く事ではありません。あなたは本来、続いて行くべき生を強制的に途切れさせたのです。それは神の摂理に反する行いであり、生物の在り様としても本当ではありません。あなたはもう一度人間……いえ、生物本来の在り様を全うする為に元の世界へと戻るのです」
だけど俺の予想に反して、オーフェの話は至極もっともな、そして神様らしいものだった。
余りにも当たり前過ぎて、俺は大きく脱力してしまった。
力を込めて構えていただけに、その反動はかなり大きなものだった。
「あなたは校舎から落ちて大怪我を負い、病院に運ばれて何とか一命を取り留める所から人生を再開させる事となるのです」
だからその直後に綴られたオーフェの言葉は、全く無防備だった俺の心にグサリと突き刺さって、直後に彼の言った事を理解出来ない程だった。
―――え……? なん……だって……?
―――大怪我……? 病……院っ……て?
「そうです。あなたは校舎から落ちて、コンクリートの舗道に頭から落ちたのでしょう? ならば、あなたの人生はその直後から再開されるのです。あなたは辛うじて一命を取り留め、12回に及ぶ大手術を受け、6ヶ月に亘り激痛を伴う寝たきり生活の後、3年を掛けて辛く苦しいリハビリを行い、漸く社会復帰出来る様になる予定です。あれだけの怪我を負った割には、比較的早く回復出来るのは奇跡と言えますね」
彼はまるで、神の御業を湛えるかのように、朗々とそう語った。
その顔には、どこかしらの恍惚とした悦が入り込んでる様にも伺える。
でも俺の方は、その話をすぐに把握できるかと言えば、決してそんな事は無い。
そんな理解の及ばない俺の頭に、オーフェの綺麗で良く通る言葉は淀みなく入って来た。
言葉の意味を知りたくなくても、彼の声には魔法が掛かっているかの様に良く頭へと沁み込んで来る。
そして聞きたくないのに、何度も何度も頭の中でリピート再生されたんだ。
「それでもあなたは多少の代償は兎も角、無事に元の世界で元の生活を送れるようになるのです。これを幸運と言わずになんと……」
「こ……幸運だってっ!?」
思わず俺は、話を続けるオーフェの言葉を遮ってそう叫んでいた。
何年にも亘る怪我の痛みと苦しいリハビリを送るなんて、到底幸運とは思えなかったんだ。
「何ですか、大声を出して? あれだけの怪我をして、死ぬ事も無く無事に社会復帰出来るんですよ? あなただって、どれ程の怪我を自分が負ったか……分かっているのでしょう?」
そう言ってまた口角を吊り上げるオーフェを見て、俺の意識にあの時の光景と感覚が甦って来た。
校舎を飛び出して空を舞う身体。
まるでストップモーションの様に流れる光景。
そして……。
地面に激突する感覚……!
肉が裂けて噴き出す血液……!
押し潰される肉体……!
コンクリートに砕かれる骨……!
俺はそれ等を思い出して、止めたくても止められない身震いに襲われていた。
「勿論、戻った現実世界が余りに過酷でどうにも耐えられないならば、今度こそ救済される方法があります」
続けられた彼の言葉を聞いて、俺の震えがピタリ……と止まった。
戻った先でもしやり直す事が出来なければ、もう一度オーフェは、神は俺を助けてくれると言うのだ。
俺の体は現金なもので、自分に対して都合の良い話には即座に反応するみたいだった。
俺がオーフェの話す続きを待っていると、余程期待している表情をしていたのか、彼は優しい微笑に変えて俺の期待に応えてくれた。
「もう一度自死を選べば良いでしょう。今度こそは選択の余地もなく、あなたの魂は抹消される事を私が保証しますよ」
「ふ……っざけるな―――っ!」
だが、俺の思い描いていた答えとは全く違う回答に、俺は思わず怒鳴っていた。
確かにオーフェの言う事はもっともかもしれない。
生物が存在して行く為になんら必要としない自死を行う生物なんて、地球上で人間だけの行為かも知れないだろう。
本来、生に執着すべき筈の生物が、種族の為でも何でもなく自身の願望で自殺するなんて、神の摂理を大きく逸脱する行為かも知れないと言うのは理解も出来る。
そしてその代償が転生と言った魂の救済ではなく、完全な消滅だと言う事も仕方ないかもしれない。
でも折角やり直すチャンスを貰って、それでも生きていく事に挫折した時、もう一度あんな思いをしなければならないなんてどれだけ罪深いって言うんだよっ!
それに……あんな思いはもう沢山だった。
死ぬと言う恐怖よりも、死んでいくと言う恐怖……。
死ぬほどの痛みを受けるのではなく、受け続ける苦痛……。
ハッキリ言って、あんな思いはもうこりごりだった。
出来れば二度と、あんな思いはしたくなかった。
でも元の世界に戻って、今度こそやり直せるなんて自信は俺には全くない。
そもそもそんな希望が少しでも見出せるなら、俺だって死のうなんて考えたりはしなかったんだ。
勿論、再出発した結果、俺が考え方や行動を変えれば周囲が変わって自分の人生が開けたものになるかもしれない……と理屈では分かる。
でもそんなサクセスストーリーなんて、今の俺には想像する事も出来なかった。
いや、思い描くだけなら出来るよ?
でもそんな都合良く行く訳ないって言うある意味理性的な、ある意味でネガティブな俺が全力で否定しているんだ。
そして今の俺は、その考えに肯定的だった。
「やれやれ……本当に人間は……いえ、あなたはどうしようもない存在ですねー……」
俯いてただ震えているだけの俺に、オーフェはこれ以上ないと言うぐらい蔑みを込めてそう零した。
でも、今の俺にそれを否定する事は出来ない。
何度も言うが、俺にだって言い分くらいはある。
だけどオーフェの、神の前ではそんな事はただの幼稚な屁理屈でしかないと思えた。
「……でしたら、あなたに残された道はあと一つとなりますね」
オーフェの言葉に、俺の耳は即座に反応した。
打ちひしがれて退路を閉ざされた気分になっていたけど……そうだよ、もう一つ道は残されていたんだ!
「もう一つの道とは……あなたに異世界の攻略を行ってもらうと言うものです」
顔を上げた俺に投げ掛けられたオーフェの話は、まるで希望の様に俺の中へと入り込んできた。
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