エアー・ダイビング

 橙色に染まる空中へと放り出された俺の体は、ゆっくりとした弧を描いた後、そのまま重力に従って地面へと落下を始めたんだ。

 死を覚悟していた俺だったが、色々と考える内にそれを取り止めてやり直そうとした矢先に、本来の目的を遂行せよとでも言うかの様に、俺の体を突風が持ち上げて空中に放りやった。

 まるで背面飛びをしている様な格好の俺は、目に飛び込んでくる上下逆さまの世界を、不思議な感じで見つめていた。


 オレンジ色に染まりつつある地面と、その光を受けて同じ様な色に染められてゆく空。

 だけどその光景は、俺の知っている地面や空とは当然違う。

 それこそ俺を中心として三百六十度、視界を遮る物がない状況なんだ。

 見える物が違っているのも当然だと言えた。


 ―――ああ……綺麗だな……。


 俺は今の状況を冷静に把握する前に、まずそんな事を考えてその光景に魅入っていた。

 まるでスローモーションの様に流れて行く光景は俺の視界に次々と、でも少しずつ姿を変えて飛び込んできた。


 俺はしばらくの間、その風景を眺めていた。

 そして俺は、同時に強く認識する事となっていた。


 ……ああ……俺は死ぬんだな……と……。


 校舎の屋上から、自分の意志だろうが不意の事故だろうとダイブしたんだ。

 到底助かる見込みなんてある筈がなかった。

 高さ二十数メートルと言えば、人が一人死ぬには十分な高さだ。

 真下は植え込みなんてないコンクリート敷きの通路……。

 余程の事が起きない限り、助かるなんて奇跡が入り込む余地なんてない。


 ―――……ん……? あれ……? ……眺めている……だって……!?


 その時俺は、強い違和感に襲われたんだ。


 俺は校舎の屋上から風に放り出されて、地上へと落下している筈だ。

 その認識で間違いない。

 だって俺の体は、未だに空中で地面を背にして浮かんでいるんだから。

 この状態が地面の有る所で自然と行われているんだとすれば、俺は背面浮遊しているって事になるんだけど、実際俺の背後に地面は無い。

 いや、あるにはあるが二十数メートル離れた場所にある筈なんだ。

 でもなんでその地面が近づいて来ない……? 

 なんで俺は地面を背にしたまま、目の前に広がる風景に感じ入ってるんだ?


 本来この地上に存在する物体は、地球の重力に引かれて地面へと落下するはずだ。

 何かしらの推進力を以て重力の頸木くびきから解き放たれない限り、何人もその法則から逃れられる事は無いんだ。

 でも俺は今、校舎の際から数メートル離れた上空に静止した状態で留まってる。


 ……あれ……それも少し違うようだ……。


 ゆっくりと……。

 とてもゆっくりと俺の体が動いている事が分かった。


 徐々に頭が下……つまり地面の方へと傾いてゆき、かなりの時間をかけて俺の体は完全に上下逆さまの状態となった。

 だけど、血液の逆流で頭に血が上る様な感覚は感じられない。

 顔が赤くなると言う事も感じられず、苦しさも無く上下逆転の世界が俺の視界を占めていた。


 本当ならそんな事は有り得ない筈だ。


 勿論、無重力空間ならばそんな現象もあるんだろうけど、今俺が見ている、そして俺の体がある世界は、少なくとも今まで普通に暮らして来た地上世界に他ならない。


 世界の法則として地球が発する重力の影響で、宙にある物は地面の方へと引き付けられる筈だ。

 それは体だろうと血液だろうが同じ事の筈だった。


 でも、今俺が実体験している状況はどうだ?


 空中で真っ逆さまの状態なのに、それを感じさせる実感が全く湧かない。

 それどころか、まるで空中遊泳していると錯覚してしまう程だ。


 その時だった。


 ―――グ……グググ……。


 体全体が俺の足元、つまり上空の方へと引っ張られる感覚に襲われたんだ。

 それと同時に頬や肩、胸や腹や腕に足と言った部分で圧迫感を受けている事に気付いた。


 スローモーションの世界で首や顔を動かす事は勿論、眼球さえも思い通りに動かせないけれど、思考だけは確りと俺の感覚で働いている。

 初めて受ける感覚の正体を、その唯一正常に働く思考能力で必死に考えた。


 ―――……そうか……これが……。


 そして俺は、一つの結論に近い仮説に辿り着く事が出来た。

 これは所謂、「超感覚」と言うやつに違いない。


 格闘家やプロのアスリートによくあると言われる現象で、ある特定条件に達すると周囲の世界が緩やかに、まるで止まって見えるなんて言っている人の話を聞いた事がある。

 きっとその現象に違いないと考えたんだ。

 本当なら、長い時間をかけた修練やトレーニングでその境地に辿り着くんだろうけれど、一般人でも極限状態に達すればその「超感覚状態」に陥る事があると言う。


 例えば、死の間際に見る「走馬燈」等がそれにあたると思う。


 走馬燈とは、一瞬で過去の思い出を次々に脳内再生するって事だけど、つまりその時間を瞬時に作り出してるって事だ。

 通常ではありえない程脳内の思考速度が加速して、まるで周囲の状況を止まっているかのような状況にする現象なんだろう。

 正しく今、俺が体験してる状況がそれにあたる。

 死に迫ってる状況で、気を失う事も無く超感覚状態に陥る。

 その結果、今までは一瞬すぎて実感する事なんて出来なかった事を、ゆっくりと認識する事が出来ているんだ。


 ―――う……うぐぐ……。


 体全体を押さえつけている様な感覚は、体が受けている大気の影響だ。

 落下時に発生する高速移動とそこから生じる大気の抵抗、つまり体が「風」を受けている、受け続けている感覚ってこんなに強いものだったんだな……。


 フリーフォールなんかでも、それはほんの一瞬で終わってしまうから今まで感じる事なんてなかったけど、もし長時間晒され続ければ風は爽快感を与えてくれるものでは無くて、巨大で分厚い障害物以外の何物でもないんだと思い知った。


 更に落下している状況から、髪や手足が後方に引っ張られる感覚を受けている。

 決して強い力じゃないけれど、引かれ続けるとなると鈍い痛みを与え続けられているみたいだった。


 俺は今、死んでいるのでも無ければ死のうとしている訳でも無い。

 緩やかに死へと向かっているのだ。


 足元へと引っ張られ続けながら、頭上の大気壁の抵抗を受け続ける。

 意識を失う事も無く、それを超感覚の状態で感じ続ける事がここまで煩わしいとは思いも依らなかった。

 死を決意した人達は、皆この感覚を体験して来たんだろうか?


 強い痛みこそなかったけれど、体に負荷を掛けられ続けて数十分……くらいかな?

 少なくとも俺の意識はそれだけの時間を感じ続けていた。

 本当ならばほんの僅かな時間で到達するだろう地面も、今漸く目の前に迫る位置までやって来た。

 最初こそ徐々に近づく地面を見続けさせられて恐怖もあったけれど、今はそれ程怖いとは感じていなかった。

 どちらかと言うと、漸くこの長い時間も終わりなんだと安堵を感じているほどだった。


 結構な時間が経っているのに、周囲の明るさはやっぱり殆ど変わっていない。

 夕暮れはあっという間に周囲を闇へと変える筈なんだけど、やっぱり俺の脳内だけが活性化している。

 実際の時間はほんの数秒なんだろうな。


 そうこうしている内に、地面は目と鼻の先まで迫っている。

 この角度で地面に接触すれば、まず接地するのは俺の右肩だろうか? 

 体を動かす事が出来ないのでコントロールする事は出来ないけれど、今となってはそんな事も問題では無いと考えていた。


 ―――……あれ……? 待てよ……?


 ここまで地面が迫り、言わば俺の死が直前まで迫ってる訳だけど、俺の意識はまだはっきりしている。


 俺は意識を一体いつまで持ち続けるんだ……?


 その時、俺の肩がコンクリートの舗道にコンタクトを果たした。

 肩の薄い肉が、高速での落下により周囲へと分散される事無く圧迫され潰される。


 ―――いたたっ! 痛いっ!


 そうだっ! 

 俺の感じている時間は超感覚でスローモーションだったけれど、体に感じている触覚や痛覚は通常通りだった。

 大気の抵抗で受けた体の圧迫なんかも即座に感じていた。

 つまり痛みはこの意識が保たれている間、リアルタイムに感じ続けなければならないと言う事なのか!?


 ……それは……つまり……!?


 ―――ビキ……バキ……。


 薄い肩肉を押し潰したコンクリートは、即座に肩の骨へと到達しそれをゆっくりと粉砕し続ける。


 ―――ギッ! ……ギャッ!


 一瞬で粉砕されると言うのも当然痛い筈だ。

 俺には骨折の経験はないけれど、通常骨ほど硬い物が折れたり粉砕されるのだから、それは一瞬で行われるはずだろう。

 決してじわりじわりと壊されていくなんてある訳が無い!


 ―――ピキッ……パキッ……!


 ―――ガッ! ……ガハッ!


 でも俺が今感じているのは、そんな非常識極まりない痛みだった!

 ゆっくりじわじわと骨にひびが入り、砕かれ、それが延々続けられる感覚! 

 その感覚は、今まで生きて来て受けたどんな痛みよりも強く、まるで拷問の様に終わり無く続けられていた。


 ―――ガキッ……メシャッ……!


 ―――……ッ! う……うわ―――っ!


 骨を粉砕し、肉を押し潰しながら、それでも俺の落下は止まる事無く、当然コンクリートに体が破壊され続ける行為も終わらない。

 骨を粉砕しきれば、その先にある別の骨をさらに砕き進んでゆく。

 周囲にある肉も、その速度から押しのけられる事無く潰されてゆき、次々と爆ぜて肩の皮膚を突き破り出血を撒き散らす。

 気の狂いそうな痛みがただただ只管に続き、いつ終わるともなく俺の体に激痛を与え続けていた!


 右腕の肩と上腕筋は完全に砕かれて、その影響が内臓にまで達したらしい。

 肺や心臓、胃や腸と言った主だった器官も圧迫を受けて悲鳴を上げている。

 背骨には大きな衝撃による変形が起こっているらしく、痛みもさることながら、その不可思議な姿勢となっている状態が、到底耐えがたいものとなって俺の意識になだれ込んできていた。


 気を失いたい、感覚を遮断したいにも関わらず、俺の意識はそうする事をしなかった。

 いや、出来なかったんだ!


 そうこうしている内に、俺の頭が舗道へと接触を開始した!

 頭部には毛髪があるとはいえ、肉の保護なんてほとんどない! 

 強力な衝撃が即座に頭蓋骨へと与えられ、それは痛みとなって俺の意識へと報告をしてくる!


 ―――ガキパキポキッ!


 ―――ガッ! アッ……! アアァ―――ッ!


 肩の骨を砕かれるのも相当な痛みだったけれど、頭の骨をゆっくりと破壊されてゆく感覚はその数倍、いや数十倍強い激痛だった!


 もう俺には、どうやってその痛みを悲鳴にして良いのか分からない程だった。


 勿論、実際に口にして出す訳じゃないけれど、人間、耐え難い痛みには悲鳴を上げなければ耐えれない様になっているのかもしれない。

 俺は意識内で、到底人の出す言葉とは思えない語句で、悲鳴のようなものを出し続けていた。


 だけど、早い段階で頭が地面に叩きつけられたのは、まだ幸運だったのかもしれない。


 頭蓋を破壊する激痛の後にその衝撃はその内側、脳へと向かって行った。

 意識を持ちながら脳を破壊される感覚たるや、この世の物とは思えない程の痛みが、俺の痛覚全てを支配して襲い掛かって来た!


 その痛みを表現する術なんてどこにもない!


 意識内であっても声を出す事さえ出来ない感覚に囚われたまま、俺の意識はそこで漸くブラックアウトしてくれたんだった。

 流石に脳を壊されてまで、意識を保つ事なんて出来なかった様だった。


 ―――これが……死ぬって事でいいのかな……?


 完全に外界の情報が断たれた真っ暗な世界で、俺は最後にその言葉と、漸く痛みから解放された心からの安堵感に包まれていった。

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