プレジデント・カプリッチオ(大統領狂想曲)

綾部 響

来世を信じて

 ―――ヒョオォ―――……。


 足元には、寒々しい音を鳴らした風が吹き荒んでいる。


 季節は春も終わり。

 もうすぐ五月になるんだから、肌に触れる風が冷たいって感じる訳が無い。

 でも、俺の立っている場所を考えれば、その空気が冷たいのも分からない話じゃないはずだ。


 ―――ここは校舎の屋上……。


 安全フェンスを乗り越えた、屋上の縁に俺は立っていた。


 四階建て校舎の屋上と言えば、高層マンションと言わず、少し階層のある建物よりも随分と低い。

 それから考えれば、通常ならばそれほど怖いと感じる様な高さじゃない筈だった。


 でも、今の俺にはとても怖いと感じる高さである。


 建物の縁に立っていると言う事も、理由の一つなのに間違いない。

 それがもし三階建て、二階建て……高さが二メートル程度であっても、足元が心許なければやはり恐怖を感じる事だろう。

 今、俺が立っているのが地上二十数メートルなんだから、怖いと思わない方がおかしい話なんだ。

 冗談でも僅かに後ろから押されれば、俺はあっという間に遥か下方の地面へと転落してしまうんだからな。

 でも空気が……風が冷たいと感じている理由は、そんな崖っぷちに立っているからだけでない事を、自分自身で理解している。

 

 ―――俺はこの場所に、人生のケリをつける為に立っているんだ。


 所謂「自殺」ってやつだ。

 今の時代となっては、学生が校舎から飛び降りるなんて、珍しい話じゃないかもしれない。

 連日何かしらの報道が、ニュースやネットで騒がれているのを俺も知っている。

 その中の一つに、俺もなろうと思ってここに立ってるんだ。


 勿論、目立ちたいからと言う理由からなんて事は無い。

 俺も、出来れば死にたくはないんだ。

 もっと長く生きたいし、人生ってやつを謳歌したいなんて漠然と考えている。


 ……いや、考えていた……だな。


 でも、もうこれ以上この生活を続ける事、そしてこの世界で生き続ける事に耐えれそうになかったんだ。


 ―――ビュヒョオィ―――……。


 足元から顔に向かって吹き付ける風が、若干強さを増した。

 そろそろ夕方に差し掛かって、五月と言っても肌寒くなる時間帯って事もあるのか、さっき触れた風よりも冷たくなってる気がした。

 でもその冷たさは、風の冷たさや気温の低下から来てるものだけじゃない事も俺は解っていた。


 それは恐怖……。


 すぐ足元に迫る恐怖が、俺の体感温度を低くしているのに間違いなかった。

 目の前に広がるのは、傾く陽の光に照らされた美しい街並み。

 でもそれすら、今の俺には怖い光景に見えていた。


 この世界との決別を決めたのは、何も誰かに強要された訳じゃない。

 それは、俺自身が決定した事なのに間違いないんだ。

 でもそこに至った過程は、決して俺が望んだ通りのものじゃなかった。

 むしろ、望まない方向へと導かれたと言って過言じゃない。


 世の中には、幾つもの理不尽が蔓延ってる。


 人それぞれの個性……。

 それによる優越感と劣等感。

 そこから決定付けられる、順位付けとカースト制度……。

 そしてその結果としての……いじめ。


 何で人は、同じ年代にも拘らず他者をイジメるんだろう? 

 放っておいてくれれば良いものを、上位だと周囲が認めた者は、自身の力を誇示する為に下位と決定付けられた者へ攻撃を開始する。

 彼等にしてみれば些細なお遊び、暇つぶしかも知れない。

 だけどその当事者……被害者ともなれば、そんな言葉で済まされる様な事じゃあなくなってしまう。

 彼等にしてみれば、気にする事もバカバカしい事や言葉であっても、受ける側にしてみれば、それだけで済まされない事もある。

 到底耐える事の出来ない事もあれば、忘れる事の出来ない言葉と言う場合もあるだろう。


 それ等に此方が過剰反応すれば、彼等の行為は更にエスカレートしてゆく。

 こちらが、俺が抵抗すればするほど、数で圧倒している「絶対者」気取りの奴らは、調子に乗って更なる行動を起こして来るんだ。


 その理屈が分かっているんだ、対処だって取り様はあったかもしれない。

 だけどそれをする程、俺のプライドは安くなかった。

 結果として、この学校に於ける俺の立場は、いじめを受ける側の人間として確立されてしまった。

 

 ―――でもそれは良い……。


 いや、良くない事ではあるんだけど、いじめと言った行為が今この時に始まった事じゃない。

 日本全国どこの学校にも、程度の違いはあってもそれらの行為は存在しているだろう。

 他者を貶めて自分を高く見せたがる輩なんて、いつの時代にもいるもんなんだからな。


 俺が腹立たしいのは、そう言った輩がいて問題となっているにも拘らず、その事を常に先延ばしにして、無かった事としようとする風潮……制度が蔓延しているって事だ。


 自分の受け持つクラスでそう言った事があった場合、その担任は責任を回避する為に、イジメその物が無かった事にしようとする。


 もしも、その担任が責任感の強い人物であったとしても、今度は学校がその事実を隠蔽する。

 学校責任者である校長が、その責任回避を目的として事実を伏せて公表しないのがまかり通っている。


 そしてもしも、校長や学校が正義の意志を持っていても、その上の教育委員会が、更にそこが公表しようとしても、文科省や政府自体がその事を隠そうとする。


 つまり国自体が、自分に都合の悪い事を隠し通そうとするシステムに沿って成り立ってるんだ。

 そんな政府の有る国、そんな世界で、俺はこれ以上生きていく事が出来そうにない。


 仮定の話を重ねても全く無駄だって思ってる。

 でももし、この国から飛び出して他の国へ行く事が出来たなら……俺はひょっとして、俺の知らない別の人生を歩む事が出来たんだろうか……?


 だけど今の俺に、他の国でやっていく自信なんてある訳が無い。

 言葉も違う、考え方や文化も違う国でなんて、今や人間不信に近い俺がやっていけるなんて想像もつかない事だ。

 今の俺に選択出来るのは、この世界から飛び出して、永遠に違う世界へと行く事だけなんだ。


 そう言えば世間では、死ぬ事によってこの地球と言う星にあるどの世界とも違う、異世界と言う場所へと転移させられる話が何やら流行っていたっけ……。

 全く以てバカバカしい話なんだけど、もしもそんな世界があって死ぬ事で行けるって言うなら、俺は間違いなくその世界を選択するだろうな。


 今、俺がいるこの世界、日本と言う国で暮らしていけないなら、俺にとって外国も含めてどこも異世界って事になる。

 それなら俺と言う存在を全て一新して、誰も俺を知る事のない未知の世界で生きると言うのも悪くないかもしれない。


 それに、その異世界での物語では、主人公が無敵の力を手に入れてやりたい放題ってのが主流のようだった。

 本当にご都合主義でバカバカしいんだけど、そんな簡単にカースト上位にも似た力を得れるなら、そしてこんな俺でも主役になる事が出来るんだったら、是非ともそんな世界に言って人生をやり直したいもんだ。


「……ふっ……」


 俺の口から、込み上げて来た笑いが自然に零れて風へと溶けていった。


 そもそも、来世や異世界なんかがあるなんて保障は何処にもないのに、死を目前にしてこんな事を考える自体おかしな話だ。

 そんな馬鹿さ加減から漏れた笑いだった。


 でもそのお蔭で、俺の心で今までとは違う何かの踏ん切りがついた。

 肩の力が抜けたのかもしれない。

 出来ない、無理だと考えて否定した事だけど、この広いと思われる地球上に存在する世界には、俺の知らない何かがまだあるかもしれない。

 そしてそこで、俺は本当に第二の人生を迎える事が出来るかもしれない。


 ここで俺は一度死んだことにしよう。

 実際には飛び降りなかったけれど、俺の心はここから飛び降りて、一度無へと帰っていったんだ。

 無いかもしれない、夢物語でしかない世界に思いを馳せるよりも今、俺のいるこの現実世界でもう一度やり直してみよう。

 まだまだ知識や経験が少ない俺から見ても、この世界は歪でどうしようもないけれど、だからこそ俺が生きて行く道もあるかもしれない。

 今はまだ見えないけれど、何も俺の進む道はこの国の学校に行って社会に出るだけじゃない筈なんだ。

 まずは今の俺に適した何かを探す事としよう。


 ―――ズリッ……。


 そう考えた俺は、踵を返してフェンス側へと戻ろうとして、僅かに足を滑らせてしまった。

 それだけならば、少しだけバランスを崩した程度の筈だった。


 ―――ビュオウオォ―――ッ!


 その時、校舎を下から駆け上って来る突風が俺の体を捕まえたんだっ!


「うっ……うっそ―――っ!?」


 その風は、屋上の際で態勢を崩していた俺の体を、いとも簡単に中空へと持ち上げたっ!

 身体の向かった先が屋上の中央付近なら、俺は多少の打撲切り傷で済んだはずだろう。


 でも残念ながら俺の体はその逆方向、校舎から大きく飛び出していったんだっ!


 俺の体は日が傾きだして校舎や校庭、その他の世界をややオレンジ色に染めだした空間へと放り出されてしまったんだ!

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