5.悪魔の囁き

夕焼けが、闇を呼んでいる。立つのも辛いが・・・帰るのか?どこに。

どこにもいけないだろう?

あの猫のように姿をくらましてみてはどうだ。

三日月が鮮明に空に刻まれている。

雲が急速に色をなくして、蝉も最後の一匹が声を失った。

「待ってなど、いるものか。」

誘拐された子ども。父親に連絡すれば保護される子ども。醜い俺など、待っているものか。

「君、こんな時間に・・・」

警察官。ああ、なぜ俺はこうなんだ。

「死にたいんですけど。どいてもらえますか。」

驚くほどのことじゃない。父も母も、爺さんも、もうこの世にいないだろう。小学校の担任が、親類の一人もいない俺の後見人になってくれた、驚きだろう。それももう何年も顔を見ていないがね。しかも俺には友達も、恋人も、仲間も、ライバルも、何もない。ゼロだ。浪花家ついに断絶。ニュースにすらならないよ。

怒られている?当然。俺は何一つ正しいことなどしていない。あげくは小学生拉致監禁だから。全て土に塗れ、顔と思しきものも、髪も、手も足も、気持ちの悪いもので覆われてしまったようであっても、それは自業自得であり、救いようがない。西條君には幸せになってもらおう。

「ばかな考えはやめるんだ。わかったね。」

たった10分の説教なんかで、俺がこの十年溜め込んできたこの世の中に対する憎悪が消えて無くなるとでも?

「ええと、それより、この子に見覚えはないかね。」

俺の命なんかどうでもいいよな。お勤めご苦労さま・・・あれ。

「さあ。子供なら公園とかで見かけますけどね。」

「そうか・・・いや、ありがとう。それから、冗談でも死にたいとか言っちゃだめだからね。」

人の良さそうなおっさん刑事だと思っていたのだが。

「あの、行方不明・・・とか?」

「え、ああ、いや。届けは出てないんだけど・・・見かけたら教えてね。」

西條君に間違いない。あんな可愛い子、他にはいない。それにあのおっさんの態度は少し妙だ。なにか隠している。

思えば連れて来た時、暴力の痕こそなかったが、すぐに洗濯してやろうと思うくらいには衣服も汚れていた。その上、外に出そうとする度にあれこれ理由をつけて拒んでいた。

聞かなければならない。もしかしたら、追われているかもしれない。守ってやりたい・・・俺が?無様に男に 組み敷かれた俺が、あの子を?

でも、居場所くらい提供できる。口外しないほうがいいかどうかくらい聞けるし、俺の家は考えてみれば誰かが来る可能性の限りなく低い場所だ。

「・・・ただいま。」

「おかえりなさい・・・どうしたんですか!はやく、はやく中に入って。」

迂闊にも泣き出してしまう。あまりに優しく慌ててくれるから。なんて情けない。情けないが、今はそれに縋りたい。

「着物脱いで、お湯に・・・」

ああ、見られてしまった。先ほどの痣の後、このあいだの脇腹も、うっすらまだ赤みをもっている。

「・・・誰に、こんなこと。 」

「もう、平気だから。平気だから。気にしないで。」

「一方的な暴力の跡ですね。それに・・・」

「軽蔑するならしてくれよ!何もできずに俺は、俺は・・・」

ちょっと 困った顔をしていた彼は、綺麗に笑った。

「弱いからです。醜いからでも、あなたが悪いからでも、まして人格的に困った人だからでもない。浪花さん。大丈夫です。もう失うもの、何もないじゃないですか。」

「そんなことないから、帰ってきたんだ。君のこと、警察に聞かれた。俺はこんなだけど、できることはなんでもしたい。君だけは、離したくないんだ。君だけは、失いたくない!」

号泣した俺を、彼は優しく抱きとめてくれた。こんなに暖かな感情に、体温に触れたのはいつ振りだろう。

「浪花さん。それじゃあ、強くなってください。僕を守れるくらい、強く。そうしたら、僕のこと、話します。」

「え?」

「その気があるなら、この一年の最後の二学期を、ある学院で過ごしてもらいます・・・ちなみに、あなたが27歳になる前に、僕の護衛を定職にできるというオマケがつきます。どうですか。」

「行く。」

二つ返事よりほかにあるはずがない。もとから何の目標もない。今の自分には、とにかく指針が必要だった。

「それから、あの・・・もしあなたがその気になる時がきたら、その前髪僕に 切らせてください。」

即アウトにしたかったが、上目使いにおねだりされたら断れませんね。

「わかったよ・・・その気になったらね。それより、君随分手回しがいいね。」

にっこり笑った悪魔さんが、すごいこといいました。

「あなたのお風呂見たときから決めてました。だって、10年後僕を抱き殺すかもしれない男が貧相なんて、許せませんからね。」


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