第十一話 ケガレの行く末

「そんなことできたんですか!?」

 ヒムカさんの力は圧倒的だった。

 穢れを帯びてしまったあたしや和泉さんではもう祓うことができないケガレの群れを、ヒムカさんの舌が舐めとって、絡めとって、しゃぶり尽くす。

「ええ。ヒムカにはそれができる」

 和泉さんは驚いていない。

「垢ねぶりについて書かれた古今百物語評判には、水より生じた魚が水を食み、けがれから生じたしらみがけがれを食む。垢から生じた垢ねぶりも同じとあるわ」

「それは昔の考え方じゃ……」

 魚は普通に他の生き物を食べるし、虱もそういう生き物じゃない。

「そう。でも、ケガレについていえば、ヒムカという古神の考え方としては正しいわ。穢れから生まれたケガレは穢れを求める。多くの穢れを内包したヒムカのような古神も同じ」

 そのとおり、ヒムカさんはケガレの穢れを舐めていく。

 窟屋いわやから湧き出してくる数に押されていたのが嘘のように、ケガレは目に見えて減っていた。

 最初からこうすればよかったのに。

 そんなことを思いながらも、同時に得体の知れない予感が胸に湧き上がるのを感じていた。

 舞いを続けながら、ヒムカさんを見つめる和泉さんの視線がそれを裏付ける。

 いつも穏やかで、ケガレに追い詰められていた時ですら感情を大きく乱すことがなかった和泉さんの表情が強張っている。

「ヒムカ」

 和泉さんが呟いた時、変化は起きた。

 ヒムカさんの気配が明らかに変わっていた。

 背中に氷を突き込まれたかのように総毛立つ。胃の中のものが逆流するような異質で本能的な感覚に足がすくんだ。

「すまんな。和泉」

 ヒムカさんは言った。

 正視することも恐ろしくて、だけど、目を離すことができない気配をまとって。

 ヒムカさんは穢れを舐めていた。和泉さんの汗を舐めるのとは比べものにならない、ケガレという穢れの塊を舐めて取り込んでいた。

 そんなことをすれば、ヒムカさんの中に大量の穢れが蓄積するのは当たり前だ。

 確かにヒムカさんは山野の気や穢れが意思を持った古神だけど、さらなる大量の穢れが変化を招かないわけはない。

 ヒムカさんが人を害するケガレじゃなくて、意思持つ古神になったのは自らを保つことができる程度の穢れしか持っていなかったから。

 穢れを求めるヒムカさんは、もともと危うい存在だった。

 ケガレを舐め続けるヒムカさんの身体がボコリと膨れ上がった。

 シャツを破り捨てて、四肢が黒くいびつに膨らむ。その目が真っ黒な塊に変わる。

 それはヒムカさんを古神からケガレへと変えていく。

「和泉さん! 止めないと」

 だけど、和泉さんは何も言わない。じっとヒムカさんの変貌を見つめていた。

 そして、咆哮が上がる。

 膝から崩れ落ちそうになるのを辛うじて堪えて目の当たりにしたのは、もう人の形を留めていないヒムカさんの姿だった。

 二足の脚で立つ見上げるばかりの黒い獣の姿。何の獣なのかわからない。だけど、人間ではありえない。複数の獣が混じっているのか、その形が常に変化しているのか。

 身動きすることもできなかった。

 目の前にいるヒムカさんだったものは、あたし如きが対峙してはならないもの。

 ケガレと呼んでいたものとも違う。正真正銘の禍津神まがつかみだということだけがわかる。

 巫覡としての実力には自信があったはずだけど、そんなものは役に立たないことを思い知った。

神直日神カミナオヒノカミ

 怯えが口からあふれそうになった時、和泉さんが言った。

「え……?」

「そして、大直毘神オオナオヒノカミ

 聞いたことがある神名。

「それは伊邪那岐命イザナギノミコトが禊をして、黄泉の穢れから禍津日神マガツヒノカミを産み出した時、そのまがを直そうと産まれた神」

 古事記や日本書紀の話だ。

 不意に夜の闇が引き裂かれた。まぶしいほどの輝きが突然目の前にあふれる。

 それが起きたのは、和泉さんがまっすぐに見つめる先。

 禍津神と化したヒムカさんの肉体だった。

 表皮に当たる獣毛のような黒い塊がずるりと落ちて、肉体の内側から光が放たれる。

 放たれた光はそれに触れたヒムカさんの肉体自体をさらに崩していく。周囲に残っていたケガレが立ちどころに崩壊する。

「亜矢ちゃん、昔話とか知ってるほう?」

「え、えっと……。巫覡にかかわりそうな話程度は」

 突然問われたけど、意図がわからない。

 和泉さんは構わず続ける。

「力太郎。垢から作られた人形が命を持って、大活躍するお話。変なお話だけど、こういうのは海外にもあるの。例えば、インド神話のガネーシャとか」

「は、はぁ……」

「日本神話の神産みもそう。伊邪那岐命の黄泉の穢れから、神様は産まれる。禍津神も、それを直す神様も。わたしたちが力を借りている祓戸大神も、この時に産まれてる。まあ、祓戸大神ってつまり、清浄かつ生に満ちた巫女の身体ってことじゃないの? って考えてるんだけど……それは今はいいや」

 ヒムカさんの光はその身体を壊しながら、強さを増していく。

「とにかくね。死穢は生あるものから生じる。垢のような穢れもそう。穢れてしまってはいるけど、それの本質は生。穢れが集まれば禍津神に、ケガレになり果てる。でも……その先は? 生が凝縮されれば、何が産まれる? 神話のように。穢れの奥深くにある生はどうなる? 穢れを極限まで凝縮すれば、そこに出現するのはあふれるほどの生。穢れという負を祓う生であり正の神」

「じゃあ、ヒムカさんは今……禍津神でも、古神でもなくて」

 獣の肉体は完全に崩壊した。

 その内側から現れたのは黄金の輝き。

 太陽にも似たそれの中に、確かにヒムカさんはいた。

「生そのもの。神。それは巫覡と同じ。ううん。もっと純粋なもの」

 初めて見る慈愛に満ちた表情で、ヒムカさんは和泉さんとあたしに微笑んでいた。


 次の瞬間、光が全てを飲み込む。

 ケガレも、禍津神の黒い肉体の破片も、窟屋の闇も、あたしも、和泉さんも。




 朽ち果てた邸の闇の中に、一人の男性がうずくまっていた。

 乱れた黒髪に隠れて、うなだれた顔はほとんど見えない。人の形をしているけど、人の形をしているだけの黒い塊にも見えた。

 周囲に立ち込めるのは腐ったような水と木の臭い。

「流れ落ち、留まり、澱み、腐れゆく」

 呟く。

「そんなことをしている暇があったら、流れ落ち、留まり、腐れゆく、わたしの澱みを舐めて」

 嘘のように明るく穏やかな声がした。

 闇の中で男が蠢いてゆっくりと顔を上げる。

 汚れた髪の向こうに、目が見えた。

 飢えた獣にほど近い寂しい目だった。

「わたしだけの。わたしの穢れだけを、あなたにあげる」


 なんとなくわかった。

 これは和泉さんとヒムカさんの記憶。



 我に返ると、立ち尽くしていた。

 周りの光景はほとんど変わっていない。

 背の高い雑草が生い茂っていて、空には夜の帳が降りている。

 少し向こうには無味乾燥な岩と、ひたすらに昏い裂け目の窟屋があった。

 あたしのすぐ傍には和泉さんがいる。

 でも、ケガレは消えていた。あれだけいたものが一柱も残さずに消え失せている。

 そして、ヒムカさんの姿もなかった。

 最初から何もいなかったかのように、夜風が草を揺らしている。

「ありがとうね。ヒムカ」

 告げた和泉さんの目から汗とは違うものが一筋こぼれた。

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