第十話 窟屋

 少なくとも運はよかった。

 電話でタクシーを手配したら、比較的近くを走っている車両があって、すぐに車に乗ることができた。

 ここ数日、和泉さんと一緒にこのあたりを回っていたおかげで、窟屋の場所もわかっていた。

 だから、車で行けるところまで行ってもらって、タクシーを降りた後はまっすぐ窟屋に向かった。

 案の定、近くには和泉さんの車が停まっている。初日の夜に見た香月さんの車もあった。

 それらを通り過ぎて、野原を走っていく。高く育った雑草が邪魔だと苛立つ。

 視界に白と緋色の巫女装束がよぎった。

 和泉さん! と叫びかけて、口をつぐむ。

 向こうも足を止めていた。

「あなたは……」

 荒い息の中で言ったのは、香月さんだった。

 怪我こそしていないけど、巫女装束の袖や裾が破れたり焦げたりしている。

 後ろには怯えた表情の研修生たちが続いていた。いつもみたいな目であたしを見る余裕もないらしい。

 窟屋のほうから逃げてきたのは明らかだった。

 多分、和泉さんがケガレを祓っているうちに、こうして逃げてきた。

「和泉さんは窟屋ですか?」

 香月さんが忌々しげに顔を歪めて何か言おうとしたのを遮って訊く。

 睨み、唇を噛み、香月さんは何も言わずに頷いた。

 あたしは駆けだしていた。振り向きもしなかったし、あんな人たちのことを考えている意味感じなかった。期待もしない。誰かが「危ないよ!」と言ったけど、どうでもよかった。

「和泉さん……!」

 窟屋はすぐに見えてきた。

 生い茂る草原の向こうに剥き出しの岩肌が見えている。そびえたつそれは山の一部だけど、そこだけ草も木も生えていない。

 無味乾燥な岩塊と、大きく縦に割れた裂け目。暗がりの中でも、裂け目の闇はじんわりと仄暗い。この世界のものではない暗がりに見えてしまう。

 その近くに和泉さんとヒムカさんがいた。

 聞こえるのは和泉さんが奏でる祝詞のりとと、放つ拳が空を切る音だった。

 ケガレが蹴散らされ、断ち切られて爆ぜる。和泉さんは動きを止めることなく舞い続けて、祓戸大神を宿す四肢でケガレたちを祓っていく。

 そのケガレたちはあたしが今まで見てきたものとは少し違っていた。

 生き物の死穢から生まれた生き物の形をしたケガレや、茅の輪の残骸にこびりついたケガレから生まれたものとは異なる、ただただ黒くてぶよぶよとした人のなり損ないのようなもの。

 辛うじて人に似たそれらが無数にいた。

 圧倒的な数、十どころじゃなく、二十か、それ以上もいるバケモノたちを、和泉さんは危なげなく祓う。

 長時間戦い続けているのか、息は上がっているし、汗で黒い髪がうなじに張りついている。

 ヒムカさんがその身体を舐めて、汗を、穢れをねぶっていく。

 赤い舌が首筋から胸元に入り込む。足元を這い、袴の中を、太ももやもっと奥を舐める。時には足袋の中をひと舐めすることさえあった。

 何度も何度も繰り返されたのか、和泉さんの巫女装束は乱れている。

 気づく。

 それでもなお、和泉さんの身体に穢れは残っていた。

 いつもなら和泉さんの巫女舞いは一撃必祓いちげきひつふつ。その掌が撫でただけで、ケガレは粉々に飛び散る。

 でも、今の和泉さんは連撃を重ねていた。一撃で仕留めることができず、攻撃を繰り返す。

 ヒムカさんの禊が間に合ってない。

 舌で肌を舐めて、汗を落とすとしても、ヒムカさんの舌は一本。その間に、他の部分で汗や分泌物が巫女装束に染みていく。

 ヒムカさんならそれをしゃぶりつくすこともできるのかもしれないけど、そんな時間的余裕はない。

 海や川に近かったら、強引に水に跳び込んで禊もできたかもしれない。

 だけど、ここに来る道筋にも、地図にもそんなものはなかった。

 あたしの持ってきた簡易的な禊セットの水と塩は、タクシーを降りた直後に使っている。

 和泉さんの裏拳がケガレを打って、のけぞらせる。

 ケガレの黒い身体が半壊した。でも、それだけ。

 ぶよりとしたケガレの腕らしいものが和泉さんを捉えようと、振り上げられた。

「危ない!」

 跳び込み、緋袴を翻して放った足刀がその腕を切り飛ばして、ケガレを粉砕した。

「亜矢ちゃん? どうして来たの」

 和泉さんは心底驚いた顔をする。

 こっちに気づく余裕もなかったみたい。ヒムカさんが舐めとれなかった汗が頬を流れていく。

「窟屋だったら、さすがに大変だと思ったんです」

 和泉さんに背中を預ける形で、和泉さんの死角からくるケガレを殴り祓う。

「香月さんも、向こうの研修生もどうなってもよかったけど。でも、和泉さんは恩師ですから」

「もう。嬉しいけどね。でも、危険よ」

 背中越しの和泉さんの声は少し弾んでいた。

 でも、こうしていて嬉しいのは、実はあたしもだ。

 誰よりも巫覡になりたいと思って、その実力も示して。でも、差別されてきた。

 そんなあたしを実力のみで認めてくれた人。

 ちょっとドライだし、日常生活は若干変わり者だし、巫覡としては舐められながら戦うとか変にもほどがある。正直引く。

 でも、和泉さんと一緒に戦えるのは本当に嬉しかった。

 あたしたちはケガレを次々と祓っていく。

 でも――。

「和泉さん、一度逃げましょう。キリがないです」

 祓いながら窟屋を見る。

 岩の隙間の暗がりから、また一柱、ケガレが歩み出てきた。

 止まらない。汚れ切った油が染み出てくるみたいにじわりと、次々に。

「あたしも多分、すぐに祓えなくなります」

 既に襦袢じゅばんが湿っている。ケガレを突いた時の手応えも目に見えて鈍くなってきていた。

 退いて、本庁に連絡して、巫覡ふげきの増援を待って鎮める。

 これはもうそういう事態だ。

「ううん。退かない」

 和泉さんははっきり言った。多分そう言うと思ってた。

 これだけのケガレがあふれたら、本庁が準備を整える間に、人里に降りるものが出る可能性はある。

 和泉さんは多分それを許せない。

 あたしも考えは近い。だから、あえて聞いた。

「わかりました」

 告げて、深く息を吸う。

 ここに来る時、万が一こんな事態になったらどうするか考えていた。

 自然と口元が嫌な形に歪んでしまう。

 でも、方法はそれしかないから覚悟を決める。

「ヒムカさん」

 ケガレに狙われることなく、離れた場所から和泉さんを舐め続ける古神を見据える。

「あたしを……舐めてください。舐めてほしいんです」

 覚悟をもって告げた。

 恥ずかしかった。

 でも、どれだけいるのか、どれだけ現れるのかわからないケガレを祓い続けるにはこれしか方法がない。和泉さんが限界を迎えるなら、あたしがやるしかない。

 あたしが……舐められてでも、祓う!

「ダメだ」

 断られた。

「なんで!?」

 恥ずかしかった分、すごくショックだった。いや、そんなこと言ってる場合じゃないのはわかってるけど!

「俺は和泉以外舐めない。そういう誓約うけいだ」

「ヒムカは頭固いわね。舐めてもいいのよ、亜矢ちゃんのこと」

「断る」

 和泉さんの声は心なし嬉しそうで、ヒムカさんは頑なだった。

「そんなこと言ってる場合じゃないですよ!」

 色々な感情をこめて叫んだその時、和泉さんがケガレの攻撃を捌き損ねた。

 巫女装束に染み込んだ汗のせいで、祓うための力が損なわれていたのか、体力の限界が来ていたのか、その両方か。

 ともかく、ケガレの攻撃が和泉さんを捉えようとして、今度は助けに入るのすら間に合わない。

「――っ!」

 叫ぼうとして、声にならなかった。目を見開いただけ。

 その攻撃は和泉さんには届かずに消え失せた。

 視界に残ったのは赤い軌跡。ジュルリという音。

 ヒムカさんの舌がケガレを舐め削って、そのまま消滅させた。

「人間を舐めたわけじゃない。こいつらは風呂の汚れに等しい」

 言い訳みたいなことを口にしながら、ヒムカさんはさらに別のケガレも舐めとっていく。

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